人獣共通感染症連続講座 第44回 牛海綿状脳症をめぐる最近の話題

 (8/28/96)

本講座第42回で簡単にご紹介したように、5月末から6月初めにかけてBSE調査のために英国を訪問したのち、6月中旬にはパスツール研究所でのエマージング・ウイルスについてのシンポジウムに出席し、8月にはイスラエルでのBSE ワークショップおよび国際ウイルス学会に出席してきました。 これらシンポジウム、ワークショップ、学会での発表のうちBSEに関するいくつかのトピックスに限ってご紹介します。

1. エマージングウイルスに関するシンポジウム

パスツール研究所の科学情報センターの立派な建物の中で3日間にわたって開かれました。 これはウインザ-公夫人の遺産が寄付されて作られたとか、日本では政治家献金になってしまうのが、外国では研究社会に遺産が残されるのはうらやましいと思いました。

それはともかく、このシンポジウムはエマージングウイルスでは第一人者のスチーブ・モースStephen Morseとパスツール研究所のモンタニエLuc Montagnierがオーガナイズしたものです。 CDCウイルス・リケッチア部長のブライアン・マーヒーBrian Mahy、カリフォルニア大学獣医学部長のフレッド・マーフィーFred Murphy、天然痘根絶のリーダーであるジョンスホプキンス大学のドナルド・ヘンダーソンDonald Henderson(彼は先日NHKスペシアルのエマージングウイルスについての特別番組 -正確な番組名は忘れました- でコメントを述べていましたので、ご覧になった人もいると思います)、エボラで活躍したパスツールのルグエノLe Guenoなど、ほとんどの発表がいずれも特別講演に相当する充実したものでした。

この中で、プリオンに関しては、英国のリチャード・キンバリンRichard Kimberlinとフランスのドミニク・ドーモントDominique Dormontが発表しました。
1) 成長ホルモンによるクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)
ドーモントの発表です。 彼は原子力委員会の軍の研究所所属です。

かっては死者の脳下垂体から成長ホルモンを抽出していましたが、1985年に英国、米国などでこのホルモン投与を受けていた低身長の患者にCJDがみつかりました。 脳下垂体の中にCJD 患者のものが含まれていたためということが疑われたために、これらのホルモンの使用は直ちに中止されました。 幸い遺伝子組換えによる成長ホルモンがほとんど出来上がっていたので、これに切り替えられました。 日本でも素早い対応が取られました。

フランスでは1993年頃から成長ホルモンの投与を受けていた人でCJDが多発しはじめ、すでに40名を越し、まだ増えているようです。 これらの人の多くは1984年1月から1985年に製造された5つのバッチのホルモンが感染源と疑われています。

これらの人での発病にはプリオン遺伝子の変異も係わっていることが明らかになってきています。 遺伝子変異の状況と発病の関係が詳しく紹介されましたが、詳細は専門的になりすぎますので省略します。
2) BSEの現状
キンバリンRichard Kimberlinが現状と将来展望を総合的に解説しました。 彼は英国中央獣医学研究所を定年で退職したのち、SARDS (Scrapie and related disease advice service) というコンサルタント会社を作って世界中を飛び回っています。 スクレイピー研究の第一人者で、とくに彼の種の壁の研究はプリオン説のすねの傷のようなもので、有名です。

基本的には、彼はBSE対策は成果をあげていて、近い将来、獣医学の教科書に残るだけの過去のものになるという意見です。

学問的な面では、プリオンが蛋白だけか、核酸が含まれているかという点は今でも大きな問題です。 彼はかって、スクレイピー病原体がウイルスと同じような変異や選択のような現象を示すこと、遺伝的背景がまったく同じ近交系マウスでスクレイピーの株のそれぞれの特徴が保たれることなどを明らかにしており、これらの現象は、蛋白説だけでは説明できないと主張しています。

シンポジウム終了後、彼は私にモンタニエも核酸存在の面で理解してくれたと話していました。

2. BSE診断に関するワークショップ

3年毎に開かれている世界獣医診断学会では国際獣疫事務局(OIE)共催のバイオテクノロジー・シンポジウムが開かれ、私もスピーカーとして出席しました。 ここで急遽、上述のワークショップが開かれました。世話人は英国のレイ・ブラッドレーRay Bradleyです。 彼もキンバリンと同じく英国中央獣医学研究所を定年で退職し、今は英国政府のコンサルタントをつとめています。 BSEに関する国際会議では、彼が研究面での英国政府のスポークスマンの役割をつとめています。

私が厚生省調査団で英国に行った時には、あいにく彼はブラジルに出張していて会えなかったので、今回会うことができて幸いでした。 4月以降毎週2~3か国に出かけていて、大変忙しいとのことでした。
1) 牛の診断
BSEの診断は病理検査で行われています。 英国では最盛期には1週間1,000頭の解剖を行っていました。 最初は脳の14のブロックを検査していましたが、病変が延髄にかならず見つかることから、大きな牛の頭すべてを検査するのをやめて、延髄だけを取り出して検査する方式に変えています。 診断の基準はECで作成したプロトコールに従っています。 すなわち、ヨーロッパでは同じ診断基準に従っているわけです。 いずれは国際基準の作成が必要と考えられており、多分OIEが中心になってまとめることになると思います。

スライドで見せてくれましたが、解剖にあたる人は、ゴム手袋、ゴム長靴、ゴムのガウン、フェイスシールドといった防護をしています。 これはBSEだけではなく、牛にはリステリアなど人獣共通感染症のおそれもあるからです。
2) 急速診断
オランダのレリイシュタットLelystadtにある中央獣医学研究所Central Veterinary Research Instituteでスクレイピーの羊について研究が行われています。 ここはアムステルダムの海岸を埋立てて作った家畜の海外病を中心とした高度隔離研究所です。 私もかって建設中および完成後の2回訪れたことがあります。 その頃、私の古くからの友人がウイルス部長だったので案内してもらったのですが、残念なことに数年前に心臓麻痺で急死してしまったため、その後、訪問する機会はありません。

ここでは、スクレイピーの羊の扁桃に異常プリオン蛋白がもっとも高頻度に蓄積することを利用して、扁桃の免疫組織染色により異常プリオン蛋白を検出することを試み、潜伏期のうちに診断が可能ということを最近のネーチャーに発表しています。

面白かったのは、扁桃組織 (2~3ミリ) を採るのに人の直腸組織採取用のピンセットを用いていることです。 下のものを上に利用しているという冗談を言っていました。

この方法はスクレイピーの生前診断に役立つ可能性があるのですが、BSEではスクレイピーと異なり、リンパ組織に病原体はみつかりません。 そのため、牛にこの方法を利用することは悲観的だといっています。
3) 尿での生前診断
英国の中央獣医学研究所Central Veterinary Laboratoryで以前からスクレイピー感染羊について試みられていた課題です。 BSEの発生でふたたび脚光を浴びています。 尿の臨床生化学分析でスクレイピーに特徴的なパターンを検出する方法です。 発病以前の動物で82%位の診断成績が発表されましたが、実用化のめどはまだたっていません。
4) 尿についてのナランの試験
インターネットをもっともにぎわせた方法です。 ワークショップでも、この試験についての質問がでました。 ナランNarang博士はかってCJDの患者の材料にウイルスが電子顕微鏡で見つかったという報告をしたことがあります。 この成績をもとに、尿の中に一本鎖DNAウイルスを検出するという方法ですが、発表されたのは新聞のタイムズだけで、いまだに専門誌には発表していません。
5) 米国NIHとカリフォルニア工科大学の共同研究によるCJD患者の髄液についての試験
NIHのジョウ・ギブスJoe Gibbs達が以前にCJD患者の髄液の蛋白を、2次元電気泳動で調べたところ、130、131番目の蛋白スポットが特徴的ということを見いだしています。 この仕事を発展させたものです。 NIHからのスピーカーが出席できず、レイ・ブラッドレーが代読しました。

この蛋白は神経蛋白14-3-3ファミリーに属することが分かり、この抗体を作って、髄液検査が試みられています。

CJD患者では95%位が陽性、非CJDでは98%が陰性という結果です。 クールーの材料を接種したチンパンジーでは、発病してから陽性になりますが、発病前は陰性です。 したがって、潜伏期における診断にどれだけ使えるかは、これからの問題です。 また、この蛋白は神経組織の破壊で生じるものらしく、ヘルペス脳炎でも陽性になります。

BSEへの応用を念頭に、スクレイピー感染羊、スクレイピー接種牛、伝達性ミンク脳症病原体 (これはスクレイピー由来) を接種した牛など、数頭ずつで調べた結果では、でも60~80%の陽性率が得られています。
6) アルゼンチンでのBSEフリー宣言
アルゼンチンは牛肉の生産国であり、BSEは大きな問題です。 大分以前から積極的なリスク評価を行っており、その結果を行政側の人が、宣伝していました。

このリスク評価をまとめた報告書と、フロッピーデイスクに収めたものはすでに世界各国に配付されています。 この仕事の中心になっているウイルス研究所の所長のアレックス・シューデルAlex Schudelは私の友人で、評価報告書やフロッピーも私のところにも送られてきています。 ただし、アプリケーションがわからず、まだ私はフロッピーは開けることができていません。

3. 国際ウイルス学会

3年毎に開かれているウイルス関係では最大の国際会議です。 前回の英国グラスゴーでは3,000人が集まりましたが、今回は物騒と考えられているイスラエルであったため、キャンセルが多く、1,600人の参加でした。 ここで、プレナリーセッションに急遽、ロンドン大学セントメリー病院のジョン・コリンジJohn Collinge教授によるプリオン病についての演題が加わりました。 このアレンジをしたのは、国際ウイルス学会副委員長の英国レッデイング大学のジェフ・アーモンドJeff Almond教授で、彼の司会で行われました。 彼は分子生物学が専門ですが、英国政府の海綿状脳症諮問委員会の委員もつとめています。

コリンジは以前にネーチャーに、人プリオン遺伝子を発現しているトランスジェニックマウスがBSEを接種しても発病しないということを発表した人です。 その時は260日でしたが、現在ではマウスと人のプリオン遺伝子発現マウスでは400日以上、人プリオン遺伝子だけを発現しているマウスでは500日経っても、まだ発病していないとのことです。

ロビーで彼と話したのですが、新型CJDが疑われる例は現在でも出ているが、まだ新型かどうかの最終結論は出ていないとのことです。

ワークショップとポスター・セッションでも、プリオン病のセッションが設けられ、全部で約40題の発表がありました。 カリフォルニア大学のプルシナー・グループからは主にプリオンの結合する蛋白についての発表がありました。

このような基礎的な問題のほかに、興味あるものとして、イスラエルのリビア系ユダヤ人でのCJDの発表がいくつかありました。

以前にも本講座でご紹介したように、リビア系ユダヤ人での高いCJD発生率がガイジュセックによるCJDスクレイピー起源説のきっかけになりました。 この可能性は現在では否定的であり、この高いCJD発生率はプリオン遺伝子200番目コドンがグルタミン酸からリジンに変異した、いわゆる遺伝型CJDによることが明らかになっています。 この成績はイスラエルの病院のコージンCorczyn (正式な発音は分かりません) 達がかって発表したものです。

このコージンがイスラエルのリビア系ユダヤ人でのCJDの発表を行いました。 それによれば、人口500万人のイスラエルには30,000人のリビアから移住してきたユダヤ人がいます。 そして、イスラエルでのCJD発生の50%は、これらの人で占められているとのことです。 この遺伝子変異のある人では40才までに1%、80才では80%以上の人がCJDになっています。 すなわち80才を越すとほとんどの人がCJDになるという高い発生率です。 リビア系住民の間では、このことを非常に心配しています。 発表の中でカウンセリングの必要性がスライドにあったことから、どのようなカウンセリングをするのかという質問も出ましたが、今のところ、方針は立っていないとの返事でした。 また、この遺伝子変異のある人からの献血はどうするのかという質問もありました。 これも方針は立っていないが、遺伝子変異のある人からの血液と分かった場合には、その血液は処分しているそうです。

また、非常に興味があったのは、これらの人の症状の中に自分で皮膚をかきむしるために掻痒症の病変ができて、これが羊のスクレイピーの特徴である脱毛病変に良く似ているという指摘でした。

大変残念だったのは、この講座(第43回)でもご紹介したBSEのサルへの感染実験を行っているフランスのラスメザスLasmezasグループがキャンセルしたことでした。 CDCのブライアン・マーヒーもこの発表を非常に期待していたらしく、大変残念がっていました。

5. BSEの母子感染

本講座第42回でご紹介したように英国中央獣医学研究所で300ケ所の牧場から健康な牛とBSEの牛から生まれた子牛1頭ずつを集めて母子感染の可能性を1989年から行っています。 健康牛由来300頭、BSE牛由来300頭の計画ですが、実際には途中のロスを考え315頭ずつを飼育観察しています。 今年の11月に一番若い牛が7才になるので、そこで全部を殺処分し脳の病理組織検査を行い、来年4月頃に成績を出す予定です。 牛はコードだけのブラインドテストで、コードを開くのは実験が終了してからの予定でした。

6月に中央獣医学研究所を訪問した時に、中間成績を出すためにコードを開けという要求があり(多分行政側から)、研究者にとっては大変なストレスになっているとのことでした。 今度、イスラエルでレイ・ブラッドレーから、7月末についにコードが破られてしまったとのことを知らされました。 その結果、BSE由来牛で15%、健康牛由来で5%のBSE発生が確認され、統計処理の結果、野外での母子感染の頻度は1%以下ということになったそうです。 この統計処理の内容は良くわかりません。 ブラインドテストの原則が最後まで守られなかったことに研究者側からは非常に強い批判があります。 実験成績の信頼性が著しく低下してしまったのです。 農漁業食糧省の行政の圧力に研究者が負けてしまったのは、大変残念です。

なお、1%以下の母子感染率は、農漁業食糧省の発表では、現在毎年40%の率で低下してきているBSE発生率を増大させることにはつながらないといわれています。

6. Mad cow disease

この3か月あまりにいくつかの学会、シンポジウムの出席を初めとして、多くの研究者と話をしてきました。 これらの発表や会話の中で、ついに一度もmad cow diseaseの言葉は聞きませんでした。 日本での狂牛病の言葉の使用状況とは極めて対照的でした。 日本ではついに科学研究費の申請書にも狂牛病の言葉が出始めています。 そのうちに学術論文や学会発表でも狂牛病の言葉が出てくるおそれがあります。 外国の学会でmad cow diseaseなどと言ってひんしゅくを買わないようにしてほしいと思います。

7. プリオン病 - 牛海綿状脳症のなぞ

上述の小さな本を東大の小野寺節先生とまとめました。 その中には、上述の話題もいくつかとりあげています。 近代出版から10月中には発行される予定です。 以下の5章から成っています。

プリオン病の研究の歴史
プリオンの性状
ヒトのプリオン病
動物のプリオン病
牛海綿状脳症と現代社会