54.新刊書「近代医学の先駆者 ハンターとジェンナー」(岩波現代全書)

上記の本を1月末に出版しました。私が最初に取り組んだ研究は、北里研究所での耐熱性天然痘ワクチンの開発でした。このワクチンはWHOのネパールでの天然痘根絶計画に用いられました。最後に取り組んだのは、東大医科研で開発した天然痘ワクチンをベクターとした組み換え牛疫ワクチンの開発でした。この際には、FAOとOIEの専門家として牛疫根絶計画に参加しました。これまでに根絶に成功したのは天然痘と牛疫だけです。その両方の根絶計画に私は天然痘ワクチンを通じてかかわることができたのです。
2009年に「史上最大の伝染病 牛疫」(岩波書店)を出版し、今回、ジェンナーを中心とした本書を出版することができて嬉しく思っています。
本書の要点をまとめた「はじめに」の全文と目次を紹介します。

はじめに

近代医学が成立したのは一八世紀末である。それまでは、ギリシア医学の二大巨匠ヒポクラテスとガレノスによる古典医学の時代が続いていた。ヒポクラテスは、四つの体液(血液、粘液、胆汁、黒胆汁)が調和を保っている状態が健康で、病気はその調和が乱れるためと唱えていた。彼から約六〇〇年のち、ガレノスは、解剖学と実験生理学を通じて、ヒポクラテスの医術に科学的根拠を与えることを試みた。当時、人体解剖は禁止されており、ガレノスは豚とサルを解剖して人体の仕組みを推定していたのである。医学はそののち千年以上にわたってヒポクラテスとガレノスの古典に述べられた理論にしたがっていたのである。一五四三年、ベルギーのヴェサリウスが人体解剖に関する初めての書物「ファブリカ(人体の構造)」を出版し、これが契機となって解剖学が始まった。一六二八年には英国のハーヴェイが血液循環のシステムを明らかにした。解剖学、生理学といった基礎医学の知識が蓄積し始め、医学は一八世紀にかけて、実践的な近代医学へと変貌していった。
この時代には、医学に関連するもうひとつの潮流として、自然誌(博物学)の興隆があった。博物学という言葉はナチュラル・ヒストリーの和訳で、明治から大正時代にかけて広く用いられたが、美術博物館というように、博物には人工の産物も含まれるため、本書では博物学を自然誌、博物学者をナチュラリストとした。自然誌は紀元前四世紀、アリストテレスの時代に始まり、その対象となる自然は鉱物、植物、動物、人間の四界に分けられていた。一六世紀に始まった大航海時代に入って、自然誌は大きな転換期を迎えた。ヨーロッパでは新しい動植物が持ち込まれ、それらの観察と記述を中心とした自然誌への関心が高まった。一七三五年には、スウェーデンのリンネが動植物をその特徴から分類し体系化した著書「自然の体系」を著した。フランスではビュフォンが一七四九年に、全一五巻から成る「自然誌」(正式の表題は「王の標本館での記述による一般及び特殊の自然誌」)の最初の三巻を出版した。この第二巻では動物の一般誌と人間誌が取り上げられ、人間も動物と同様に自然誌の重要な対象として比較解剖学者のドーバントンが協力していた。こうして、生物としての植物、動物、人間と、無生物としての鉱物が区別されるようになり、自然誌は一九世紀初頭には生物学に発展したのである。
この時代における近代医学と生物学の成立の過程を象徴するものとして、天然痘予防のための牛痘種痘の開発がある。天然痘の治療は、長年にわたって医学的根拠のない治療法や迷信もしくは呪術に頼っていた。一八世紀初めに人痘種痘(人為的に天然痘にかからせる)が始まった。これは初めての効果的な予防法だが、時には死を伴う危険なものだった。その時代に、効果的でかつ安全な予防法としてジェンナーにより牛痘種痘が開発された。これは感染症の予防という免疫の概念を初めて科学的に示し、ワクチンの誕生をもたらした。
ジェンナーの研究は恩師ハンターから受け継いだナチュラリストとしての姿勢に支えられていた。ジェンナーは、英国の田園地帯のバークレイで一七四九年に生まれた。近くの町の外科医のもとで医師の修行を行っていた一九歳の頃、牛痘にかかると天然痘にかからなくなるという農民の間の言い伝えを初めて知った。二一歳になったジェンナーは、ロンドンに出てハンターの家の住み込み生徒となって二年間外科と解剖学を学んだのち、バークレイで医師としての診療のかたわら、牛痘による天然痘の予防の研究を始めた。二〇年あまりのちの一七九六年、彼はフィップスという名の少年に牛痘の種痘を初めて試みた。そして、天然痘患者の膿を接種しても発病しないことを確かめて、牛痘種痘の予防効果を証明したのである。
一方ハンターは、一七二八年にスコットランド・グラスゴー近くの村で生まれた。二〇歳の時から兄の経営する解剖教室で一二年間にわたって二〇〇体の人体解剖を行うかたわら、外科医の修行を積んだ。彼は、その豊富な人体解剖の経験を生かして近代的外科手術の方法を開拓し、ウエストミンスター寺院の彼の棺には、科学的外科の生みの親と書かれている。外科医と解剖医である彼の家では、昼間は診療、夜は解剖のための死体が密かに持ち込まれていた。これが「ジキル博士とハイド氏」の物語を生み出した。ナチュラリストとしてもユニークな存在だった。ロンドン郊外の広大な別邸の庭は数多くの種類の動物を飼育する動物園になっており、それらの動物との生活をめぐるエピソードを通じて、彼は児童書「ドリトル先生」のモデルになった。ドリトル先生が動物の言葉を理解しようとしたのに対して、彼は、解剖を通じて生き物すべての仕組みを理解しようと試みていた。大航海で持ち込まれた数多くの新しい動物も含めて多くの種類の動物の構造や機能を人と比較した結果、動物が変異により徐々に進化するという結論にたどり着いていた。ダーウインの進化論の七〇年前である。
幼少の頃から自然を愛し、自然に限りない好奇心を抱いていたジェンナーは、医師とナチュラリストとしてのハンターの生き方に強くひかれた。ジェンナーはハンターを貴重な友人と呼び、ハンターにとってジェンナーはもっとも信頼できる友人となり、一七九三年ハンターが亡くなるまで両者は自然誌と医学について意見を交換していた。ジェンナーが種痘に用いた「牛痘」は農民の間での呼び名であり、彼はこれにリンネの命名法にしたがってラテン語の学名をつけていた。病気も自然誌の一面としてとらえていたのである。牛痘種痘の開発はナチュラリストとしての詳細な観察と深い洞察により達成されたのである。ハンターなくして牛痘種痘は完成しなかったといえよう。
ジェンナーは牛痘種痘により天然痘が根絶されることを強く信じていた。最初の牛痘種痘から二〇〇年後、世界保健機関(WHO)の天然痘根絶計画により、一九八〇年に天然痘根絶宣言が発表され、微生物学の金字塔が打ち立てられた。こうして我々は天然痘のない時代を享受しているが、天然痘ウイルスはいまだに米国とロシアの研究所に保管されているため、バイオテロに利用される危険性が大きな問題になっている。WHO天然痘根絶計画のリーダーをつとめたドナルド・ヘンダーソンは、「天然痘は今後も人類の歴史を通じて暗い不吉な雲として浮かび続けるであろう。決して忘れることも無視することもできない。」(1)と述べている。

目次

はじめに
プロローグ (孝明天皇の天然痘の治療にあたった医師の日記を中心に)
第1章 近代医学以前 — 天然痘の脅威
1. 天然痘はどんな病気か
2. ミイラにもみつかる天然痘とその起源
3. 天然痘が歴史に及ぼした影響
4. 漢方による治療と予防
5. 魔除けの赤からノーベル賞へ
6. 古典医学による治療
7. 最初の効果的な予防手段は人痘種痘
第2章 ドリトル先生の時代
1. 科学的外科の父ハンター
2. ドリトル先生のモデルになったハンター
3. 観察と解剖と執筆の日々
4. ハンターの教えを受けたジェンナー
5. 詩人ジェンナー
6. 考えるより、実験を
7. 恋人のもとへ気球を飛ばす
第3章 ジェンナーと天然痘
1. 可愛い娘さん
2. 豚痘を長男に接種する
3. 「ほら、ここに天然痘の源がある」
4. 日本で間違って伝えられた最初の牛痘種痘
5. ロンドンでの最初の試み
6. 牛痘種痘の普及への挑戦 — 論争と支援
7. その後のジェンナー — 予言者は故国に受け入れられたか?
第4章 ジェンナーの遺してくれたもの — 古典的医術から近代医学へ
1. またたく間に世界に広がった牛痘種痘
2. 代金150ドル
3. ナショナリズムをも越えて
4. ワクチンの製造
5. ワクチン時代へ
第5章 日本の近代医学と牛痘種痘
1. ジェンナー論文の発表後5年で早くも日本に情報が
2. ロシアから来た牛痘種痘の書物
3. 日本における牛痘種痘導入までの長い道のり
4. 日本で最初の衛生事業
5. 伝染病研究所
6. 神格化されたジェンナー
第6章 ジェンナーの予言 — 天然痘の根絶
1. 根絶までの道のり
2. 天然痘根絶に貢献したのはローテクノロジー
3. バーミンガム大学の悲劇
4. いまだに廃棄されていない天然痘ウイルス
5. 新しいワクチン
6. 天然痘根絶は一時の歴史上の出来事に終わる?
エピローグ
おわりに