51. エボラウイルス分離と命名の経緯

エボラウイルスが初めて分離されたのは、1976年8月にザイール(現・コンゴ民主共和国)のヤンブク村にあるキリスト教伝道病院で発生した原因不明の出血熱の患者からだった。ここは、ベルギーのレオポルド2世の私有地としてベルギー領コンゴ(1960年に独立し、1971年にはザイールと改名され、1997年以来コンゴ民主共和国となっている)と呼ばれていた時代の1935年に、ベルギーのカトリック団体が布教のために設立したものである
1976年9月8日にひとりの患者が嘔吐、下痢、出血などの激しい症状で死亡した。その頃、すでに周囲の村で同じような症状での死者が出始めていた。9月19日は40以上の村から出血による死者の情報が集まっていた。原因不明の出血熱の発生を受けて、ベルギー・アントワープのプリンス・レオポルド熱帯医学研究所のステファン・パッティン(Stefaan Pattyn)教授に原因の探求が依頼された。これを契機にパッティンはヤンブクの出血熱に取り組むことになった。彼のチームの中に27歳のポスドク1年目のピーター・ピオー*(Peter Piot)がいた。彼はのちに国連のエイズ対策で中心的役割を果たし、現在は熱帯医学研究の名門、ロンドン大学公衆衛生学・熱帯医学大学院・学長をつとめている。彼の最初の仕事はエボラ出血熱となった。2年前に彼は回顧録を出版し、それを通じて、これまで知られていなかった詳細な経緯が初めて明らかになった。私は発売直後に読んでいたが、今回、あらためて読みなおし、その内容も含めてエボラウイルスが分離されるまでの経緯をまとめてみる。
1976年9月28日、パッティンのところに緊急の電話がかかってきた。ザイールから特別の荷物が運ばれてくる途中という内容である。翌日、荷物は届いた。安物の青い魔法瓶だった。ラテックスの手袋という簡単な安全対策だけで開けてみると、2本の試験管が入っていた。氷は半分溶け、1本の試験管は割れていた。キンシャサのヌガリエマ病院の医師から送られたもので、それぞれにベルギー人シスターの凝固血液5 mlずつ入れたと書かれていた。
すぐにヴェーロ細胞(アフリカミドリザルの腎臓由来の細胞株で、安村義博博士が1960年代に樹立したもの)、成熟マウスと生まれたてのマウスの脳に接種した。安全対策は、サルモネラや結核菌を扱う場合と同様に白衣を着てラテックスの手袋をするだけだった。それから、数日の間、黄熱ウイルス、ラッサウイルスなど考えられる病原体に対する抗体検査を行ったがすべて陰性だった。10月4日には、数匹の成熟マウスが死亡し、3日後には乳のみマウスがすべて死亡した。ヴェーロ細胞も破壊され、はがれ始めていた。
9月30日には血液サンプルを提供したベルギー人看護婦が死亡し、キンシャサからは肝臓の断片が旅客機で送られてきた。数日後にはさらに新しいサンプルが届く予定だった。
次にVero 細胞に植え継ごうとしていた際、WHOウイルス病ユニットから、謎の出血熱の生物試料はすべてポートンダウン(Porton Down)の微生物研究施設に送るように指示が届いた。さらにここから、CDCにも一部が送られることになるとのことだった。ポートンダウンは英国国防省の施設で第1次世界大戦の時に化学兵器の研究のために設立され、第2次世界大戦時には生物兵器の研究を行っており、戦後、サルのBウイルスなど危険なウイルス研究の施設となっていた。私は1977年に訪問したが、広大な軍の基地の中にある。
当時、危険な病原体を扱える施設はポートンダウンと米国のCDCだけだったのである。
ウイルス研究者にとってはきわめて貴重で興味深いサンプルをイギリス人、さらにはアメリカ人にも送れという指示にパッティンは激怒し、ピオーたちもうろたえた。危険であっても新しいウイルスの発見は大きな魅力だったのである。パッティンはサンプルの一部を残すよう指示したので、ヴェーロ細胞数本と死にかけている乳のみマウスが残された。常に外国からの圧力を受けていたベルギー人の頑固な抵抗だったとピオーは語っている。
植え継いだヴェーロ細胞にも変化が現れていた。それをパッティンは友人の電子顕微鏡専門家に依頼した。電子顕微鏡写真に大きな長い虫のような構造が見えた時、しばらく沈黙が続いた。黄熱ウイルスとはまったく異なっていた。パッティンが「これはマールブルグのようだ」と叫んだ。ピオーはまだマールブルグのことはよく知らなかった。
パッティンは自殺行為をする男ではなかった。彼らが扱っているウイルスが、すくなくとも、あの恐ろしいマールブルグウイルスに似ていることが分かったのち、すぐにすべて残っていたサンプルをCDCに送ったのである。
10月14日、CDCの特殊病原部部長のカール・ジョンソン(Karl Johnson)からテレックスが届いた。分離されたのは新しいウイルスとのことだった。さらに、キンシャサから送られた別のベルギー人シスターのサンプルからも、同じウイルスを分離したというものだった。このウイルスはマールブルグウイルスに対する抗体とは反応しなかった。この成績はジョンソン、彼の妻パトリシア・ウエブ(Patricia Webb)、フレデリック・マーフィー(Frederick Murphy)たちが連名で翌年発表された。パッティンやピオーではなく、CDCグループがウイルス発見の名誉を獲得したのである。
ザイールの元宗主国であり、しかもベルギー人が運営する伝道病院での発生に対して、ベルギー政府は何かしなければならない圧力を受けていた。政治的優位性を保つために、現地に専門家を派遣することになりピオーが選ばれた。
キンシャサには、ピオー、カール・ジョンソン、CDCの疫学者ジョエル・ブリーマン(Joel Breman), WHO専門家としてパスツール研究所のピエール・シュロー(Pierre Sureau)**南アフリカのマルガレータ・イサークソン(Margaretha Isaacson)医師という国際チームが集まった。ザイールはアパルトヘイトの国、南アフリカの市民の入国を禁止していたが、彼女は南アフリカでマールブルグに感染し、回復した人の血清を持参したのである***

 

ピオーのカナ表記:彼の母国ベルギーではピオーだが、第2回野口英世アフリカ賞(2013年)を授与された際には英語の発音のピオットになっている。

**1984年私はパスツール研究所の狂犬病ユニット長をつとめていたシュロー教授を訪ねて1日過ごしたことがあった。残念なことに彼がエボラにかかわっていたことを、その際には知らなかった。

***1975年、ローデシア(現・ジンバブエ)でヒッチハイク中のオーストラリア青年がマールブルグ病にかかり死亡した。連れの女性も発病し、されに看病にあたった看護婦も発病したが彼女たちは回復した。
ヤンブクで感染した看護婦マインガがキンシャサのヌガリエマ病院に入院していたので、マールブルグの血清が投与されたが、効果がなく彼女は死亡した。彼女から分離されたウイルスはマインガ株として代表的エボラウイルス株になっている。
ウイルスの命名について議論が起きた。シュローはヤンブク・ウイルスを提案した。これに対してブリーマンはラッサ・ウイルスという名称にラッサ村ではイメージを低下させたと批判し続けていることを指摘して、特定の地名を付けることに反対し、ジョンソンがコンゴ川の支流の小さなエボラ川の名前を提案した。これはヤンブクにそれほど近い川ではなかったが、議論に疲れてエボラに決定された。エボラはリンガラ語(コンゴのバントゥー語族の言語)では黒い川の意味で不吉なイメージを持つことも適しているとみなされた。
11月6日ザイール厚生大臣のヌグエテ(Nuguete)教授はエボラ出血熱と命名したことを正式に発表した。

文献

1. Peter Piot: No Time to Lose. A Life in Pursuit of Deadly Viruses. W.W. Norton & Company. 2012.
2. K.M. Johnson, P.A. Webb, J.V. Lange & F.A. Murphy: Isolation and partical characterization of a new virus casing acute haemorrhagic fever in Zaire. Lancet, i, 569-571, March 12, 1977.