弧 愁 Saudade (05/01/2005) 筑波霊長類 医科学研究センター客員研究員 安田徳一 |
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6.10. Ph. D. Qualified Examination. 学位試験は1966年1月にBiomedical Science Bldg.のセミナー室で行われた。試験といっても5年間行ってきたStudies & Resarchesの総まとめをして、スタッフのほぼ全員と大学内のセミナー案内をみて聞きに来てくれた人達の質問などに答えるのである。テーマはThe Genetical Structure of Northeastern Brazzil (東北ブラジルの遺伝的構造)である。私のために組織されたPh. D. Committeeのメンバーは主査が Newton E. Morton教授、委員が Chin S. Chung教授、Estel H. Cobb準教授、Ming-Pi Mi助教授、Lucian M. Sprague遺伝部併任博士の4名である。室内には平泉雄一郎先生も居られた。 集団の遺伝的構造というのは遺伝子プール内の個々の遺伝子がお互いにどのように出会い、次の世代を形づくる仕組みのことである。端的にいうと婚姻形式を遺伝子プールのレベルから調べるものである。したがって遺伝子プールにどのような種類の(対立)遺伝子がどんな割合であるか、それら遺伝子がどう結びついて子どもが生じるのか。また子ども達が結婚するパターンとそれぞれの割合はどうか。このような問題を遺伝子頻度(p, q,…)と近交係数(f)あるいは親縁係数(ψ)のパラメータでモデルを作成して、それをブラジル東北地方の人達のデータと突き合わせた結果が私の学位論文の主旨である。 発表が終ると、質問が始まるのが普通であるが、しばらくシーンとした時間が過ぎ、モートン先生が要領よく内容の解説をし始めた。そのあとでモートン先生と私との間で分かり切っていると思える事柄について若干の質問があった。続いてMPがこれまた計算上の技法について聞きただした。結局、モートン先生がOKなら良いのではないかというムードでデスカッションは終った。私は廊下に出され、ただちに判定会議が始まった。私が出て来たのを見て、学部のセクレタリーや事務の人達が集まってきて、どうだったと聞くが、これでとにかく目標を達成するために5年間頑張ったのだという気持ちが高ぶり、なんと答えてよいのか結局のところ分からないとしか言い様がなかった。 10分位かして、モートン先生が私の顔をみるなり、Congratulation. You passed! と言いながら、右手をだして握手を求めて来た。とっても暖かい手で、わたしもしっかり握り返したと思うが、まさに感激の一瞬であった。部屋から出て来た皆も、また事務の人達も口々に「おめでとう」で、ああーやっと目標が達成できた充実感と疲労感が混ざった変な気持ちの一ときであった。もう一つあれと思ったことがある。私が学位試験にパスしたことがわかったその瞬間から、スタッフ、特にセクレタリ−の態度が変わったことである。冷やかしもあったのかも知れないがMr呼称がDr. YASUDAになり、何もかも学生と違った扱いを受けるようになったのである。 論文の清書がこれまた一仕事であった。スミスコロナの電動タイプライターを購入していたので、とにかく下書きを準備して、それをモートン先生にみてもらうのである。提出期限が迫っており、もう英語がいいとか悪いとかの話しでなく、とにかく必死で書いた。モートン先生には本当に丁寧に細かく目を通して頂いた。出来上がった原稿はセクレタリーのMrs. Yosie Kanashiroさんが多忙にも関わらず清書を引き受けてくれた。あとであの忙しい人に君は論文清書をお願いしたのかとある教授に言われてしまった。私はそんなこととは知らずKanesiroさんがタイプしましょうということでお願いじた次第である。まさに世間知らずも程があろう。数式や数表の多い文章を本当に根気よく夜遅くまでタイプしてもらった。タイプしながら、お世辞とは思ったが、ときどき手を休めて、Dr. Yasuda, I respect you.と繰り返すのにはなんとも今思い出しても冷や汗ものである。 5年間のGRADUATE STUDIES は以下の通りである。
GRADUATE
STUDIES 出来上がった論文の総ページ数は246ページになった。なおVisiting examiner としてDr. Walter F Bodmer のコメントを頂戴することもできた。 このようにまとめてみるとウィスコンシン大学の一年間は信じられないくらい密度の高いトレーニングを受けたこと、さらに様々な分野の知名度の高低に関わりなく多くの人々から教えを受けたことに改めて気付く。感謝の念で一杯である。生物学のバックグラウンドのなかった私がここ迄遂行できたシステムに乗るといううか乗せられた自分は本当にラッキーとしか言い様がない。まさにこの五年間が私の研究生活のターニングポイントになった。
6.11. 第3回国際人類遺伝学会へ出席及び帰国 第3回国際人類遺伝学会が1966年9月5-10日にシカゴ大学で行われた。タイミングがよくPh. D. 学位論文の内容を紹介するようモートン先生が計らってくれた。一つはシンポジウムのStudies on Human Population Structure、もう一つは一般講演のA statistical singularity at the ABO systemの発表であった。私の英語力を知っていたモートン先生は決められた時間内に内容を収めることを危惧して、私に代わって発表した。当時のヒト集団構造のモデルおよびデータの研究として注目を引く内容であったことを会場にいて肌身に感じ、ぞくぞくした記憶がある。ウィスコンシン大学での友人Rr. M Coneallyが何で君がしゃべらなかったのかと言って居たのが耳に残っている。それは、 この国際会議の前に学位論文の内容をシャトルで行われたアメリカ人類遺伝学会で発表たのだが、その時は原稿の棒読みに近く、講演後Dr JV Neelの質問で、If I understood you correctly,…以下がさっぱり分からず、結局のところモートン先生に助け舟をだしてもらうはめになった。この国際会議のシンポジウムでそのようなことの起こることを恐れたのであろうか。 シンポジストの一人として Dr. GW Beadle の邸宅で夕食に招待された。アカパンカビを用いてOne-gene One-enzyme仮説を提起した人で、御馳走を食べながら私ごとき青二才がこんな席に居て良いのかとの不安にかられた記憶が今も残っている。 シカゴの印象はミシガン湖畔からみた高層ビルぐらいである。もっとも夕方の講演を聞きに行った帰り、知らない学会参加者と共に地下鉄に乗って降りたのはよいが、皆てんでばらばらに歩き去ってしまい、自分は誰に付いて行ったらよいのか分からず、結局独りになってしまった。大学へ行けばよいと判断したが、さて夜も8時は過ぎており、街灯もあまり明るくない。暗闇からときおり背の高い黒人が現れ、はっと心細くどの方向に歩いているのかもまったくわからず勘にしたがった。しばらくして見覚えのある建物に行き当たりやれやれと一安心。なんとも不思議な体験であった。 帰途はマジソンのウィスコンシン大学に寄った。クロー先生と丸山さんに4年振りに会った。クロー先生はあまり変わらず、ブラジルの話しなど上手に私から引き出すように尋ねて頂いた。丸山さんは私が去った後、遺伝学でPh. D.をとり、丁度、数学でMAを取ったところだといっていた。プリンストン大学のTukey JWのofferがあり、そこへはぜひ行きたいのだといっていた。私がブラジルへ出発した4年前の丸山さんとはすっかり様子が変わり、数学のDr. Takeo Maruyamaがそこに居た。一緒に夕食を取り、互いの健康と前途を祝して別れた。帰りの飛行機はサンフランシスコで荷物が出て来ず、見つかったらハワイ大学に届くように手配して後、ホノルルに戻った。こんなことは初めての体験である。 帰国したのは1966年9月22日で横浜の大桟橋に着岸した。7日前にホノルルでプレジデント・ウイルソン号に乗船し、1週間の休暇を最後に5年1ヵ月の外国生活が終った。遠くの雨雲や青い海、近くのトビウオやイルカや船のかき分ける波の砕ける雄大さ、それに絶えまなく響く船の振動、太平洋の広さは本物である。幸い船酔いすることもなく十分食事を満喫した。日本近海で黒潮の流れに入ると船先と船尾とで濃い藍色とコバルト色が対照的であった。黒潮は本当に黒い! 大桟橋には家族が全員出迎えてくれた。義弟の運転する車で板橋の家に向かう。久し振りの日本の畳みに座り、ふと外を見ると近所の子どもが三々五々と出て来て腰の当りに輪を廻し始めるではないか。フラフープという遊びが今日本中で流行っているとのこと。ブラジルのサンバも腰を振り様になっているが、フラフープはしっくりしていないと思ったのは独りよがりであろうか。その夜はまだ船に乗っているがごとく波にゆられている感覚で一晩中眠ることが出来なかった。
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