弧 愁
Saudade (3/24/2008)
独立行政法人 医薬基盤研究所 霊長類医科学研究センター特別研究員 安田徳一 |
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「多因子性疾患のリスク推定」に関する国際放射線防護第1委員会の作業部会の第2回会議は1994年10月24−26日にテキサス大学ヒューストン校の健康科学センターで行なわれた。会議事項は次のようであった。 1. 作業部会の目標と範囲についてと前回の討論の簡単なレビュー(Sankaranarayanan)。
放射線による突然変異率の増加に伴う有病率の変化、すなわち放射線リスクに関して今回の会議で最も重要な課題は突然変異成分mutation
component(MC)の考えについてであった。これは疾患の弾性elasticityとも言うべきもので これから、もし突然変異率が1+k倍に上がったら、すなわちu→u(1+k)ならば(すなわち冰→ku)、有病率の増加はP→P(1+MC・k)ろなる(儕=MC・kP)。このモデルでk=1とすれば、これは突然変異率が2倍になったことを意味するが、有病率の増加頻度はMC・Pとなる。まれな常染色体優性疾患(染色体異常の多くも含む)ではその選択係数sがMCに等しくなることが導かれる。原子爆弾被爆のように1回だけの被ばくでは子ども世代(F1)での有病率は親世代の有病率に対してsだけ増え,一般にt世代(Ft)後ではs(1-s)t-1と減っていく。医療放射線などのように微量放射線を毎世代同じ線量を被ばくすると、F1では一回被ばくのときと同じ様に有病率はsだけ増え、Ftでは1- s(1-s)t-1と増え続け、十分世代が経過すると有病率は2倍になる。伴性劣性疾患や常染色体劣性疾患などのメンデル性疾患についても突然変異率が2倍になったときのMCが解析的に得られた。我々の多因子性疾患については、宿題として次回の会議までに各自結果を持ち寄ることになった。 なお今回の会議で作業部会の報告書をまとめる分担が具体的に決まった。 1. 緒言。放射線の遺伝リスク推定の領域で、開発についての全貌。 第3回の会合は1995年7月ロンドンかブダペストで開催する予定であると、Sankarnarayanan先生は告げられた。いよいよ最終のまとめに入ることになった。 ヒューストンへの旅はこれで2度目である。10月とはいえ、暑さと日照りはなかなかのものであった。ヒューストン空港に着いたとき、かばんをピックアップした刹那に鍵の一つが壊れてしまった。私が無理に引っ張ったせいかも知れないが、かばんの方もかなり使い古したせいかだいぶくたびれていたせいなのかもしれない。成田に着くまで鍵の掛かっていないかばんを懸念していたが、無事についたのでほっとした。ヒューストンからサンフランシスコまでのフライトで、砂漠と市街の一線がくっきりと眼下にみえたのは凄く印象的であった。飛べども飛べども砂漠が続き、突然住宅街が現れるさまは強烈なインパクトであった。飛行機はスタンフォード大学の上空を滑空して無事着陸した。ゴールデンゲイト橋も健在であった。ハワイには寄らずに、成田へ直行した。日本近く、伊豆諸島の島々に沿って飛ぶ有様は、昭和20年の終戦直前にB29の大編隊が日本の大都市を空襲したが、そのときの搭乗員も私と同じ光景をみたに違いないのではないかと思いをめぐらせると、今の平和な時代と比べてこみ上げてくるものがあった。
「多因子性疾患のリスク推定」に関する国際放射線防護委員会第1委員会の作業部会の第3回目の会議が、1995年7月12-14日にブダペストのAquincumホテル(ダニューブ川のブダ側アルベート橋の近く)で開催された。既に放医研は定年退官となっていたので、今回のパスポートは緑色でなく赤色である。公務の延長と頭では考えてはいたが、現実は私用である。公私混同のような気がしないでもないが、やり掛けた仕事は公私を問わずまとめなければならない。あまり難しく考えないことである。
討論の内容は この会議で明らかになった重要な知見はポリジーンしきい値モデルを多因子性疾患に適用したところ、突然変異成分はせいぜい2パーセントであることである。この結果は関与するいくつものパラメータの変動に対してかなり頑健であることがわかった。計算のアルゴリズムの概略は次の通りである。 1. ポリジーンしきい値モデルに突然変異‐選択のパラメータを組み込む。 詳しいことはICRP Publication 83: Risk estimation for multifactorial diseases. (Annals of the ICRP. 29(3-4), 1999、あるいは(社)日本アイソトープ協会、ICRP Publication 8:多因子性疾患のリスク推定、2004年9月13日発行を参照されたい。報告書の翻訳に5年も掛けてしまったのは一重に私の責任である。なかなか筆が進まなかったが、とにかく印刷した形になったのでほっとしている。「放射線の遺伝性の調査研究」という放医研での私の研究課題をまとめた形で社会に公開できたのは、私の独りよがりであるかもしれないが、私個人としての充実感はある。退官までに終えることが出来なかったのには少々残念ではあるが、途中で放り出さなかったのはよかった。
今回のブダペスト訪問で印象的であったのはハンガリー国会議事堂へボブ大統領を表敬訪問したことである。議事堂内に入るにあたり、パスポートを求められた。もちろん帰るときには返してもらえたが、身元確認と安全のためなのであろう。小さな会議室に通され、しばし大統領の来場を待った。執務室とおぼしき隣室から入ってこられた大統領は穏やかに我われに会釈をして、会議の成功を期待するという趣旨のことを話した。会話は英語であった。手もとに大統領と作業部会のメンバーとの歓談中の写真と大統領を中心としたいわゆるグループ写真の2葉がある。
ある日の会議の昼休みに、アルバート橋の半分ほど渡ったところから、ダニューブ川の中州、マルギット島に降り、島の一部を散策した。日射しが快く、いろいろな草木の花が咲き乱れ、長閑な雰囲気が午前中の討議の疲れを癒してくれるように思えた。島の長さは2.5km、最大幅500mである。島の名は13世紀のハンガリー王ベーラ4世の王女の名に由来するという。ベーラ4世は一時退いたモンゴル軍の再来襲を恐れて娘のマルギットを神に捧げるべく島に修道院を建てた。マルギットはそこで生涯祈り続けたという。この修道院は後にトルコ軍に破壊され、現在は跡形もない。モンゴル軍は2度と襲来することはなかったが、それはマルギットのおかげであるとして、島にマルギットの名が付けられたという。 会議の終了後、Czeizelさんがメンバー全員をバラトン湖へ一日がかりの遠足(自家自動車何台かに分乗)に招待してくれた。途中何箇所か教会や史跡を訪ね、あるいはハンガリーの農村を散策したりしたが、会議の疲れがほぐれるような気がした。外国人が珍しいのか我われ一行を遠慮なくじろじろとみる農民もいた。天気もよくリラックスできたのは本当によかった。 Czeizelさんに感謝する次第である。中央ヨーロッパ最大の大きさを誇るバラトン湖の表面積は600km2で、東京23区をそのまま包み込んでしまうほどの広さである。湖岸に着いたとき見渡すかぎり水平線が遠く霞んでおり、この湖がハンガリーの海と呼ばれるのも納得がいった。着いたところはバラトンフレド/テイハニであった。
これまで研究公務員として南北アメリカ、ハワイ、中国、ヨーロッパと世界の各地を旅行できたのは、今思うと就職前にはとても考えられなかったことである。学会出張などの短期滞在はともかく、長期にわたる留学の機会も無我夢中で過ごしてきたのが実感である。語学嫌いの私がポルトガル語を話さなければならなくなったりしたが、過ぎ去った日々を思うとまさにSaudadeの一語に尽きる。次から次と怒涛のごとく襲ってくる新局面に対して、なんとか乗り切ることができたのは、幸運であったとしか言いようがない。私はもったいないほど素晴らしい指導者に恵まれたのである。木村資生先生、モートン先生、カヴァリ先生、コッターマン先生、サンカラナラヤナン先生と枚挙にいとみがない。これらの先生方には感謝してもし尽くせない思いがある。ありがとうございました。思いもかけず、数学科卒業生が遺伝学を研究業務とすることになり、それが集団遺伝学、人類遺伝学、遺伝疫学の領域まで勉強することになってしまった。気がついてみると、現代は生命科学の進展には怒涛のごときものがあり、就職当時ある生物研究室長が「数学で生物を研究するのはナンセンス」とのたまったのを思い出すと、隔世の感がする。化学物質と情報というそれぞれの物と質で構成されている生命体を理解する上で数学的アプローチは欠くべからざる一面である。その意味でも私はこの領域でOnly
ONEのパイオニアであると自負している。
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