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34.インフルエンザウイルスを最初に発見した日本人科学者
(社)予防衛生協会理事 |
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はじめに |
私の古くからの友人にFrederick Murphyというウイルス学者がいる。国際ウイルス学会長などを歴任したウイルス学領域の第一人者である(注)。彼は現在、ウイルス発見の歴史について、発見者の写真などを中心に800枚以上のスライドにまとめて同大学のホームページに掲載してきており、http://www.utmb.edu/ihii/virusimages/index.shtmlそれを元にウイルス発見の歴史に関する本を執筆している。 注:Murphyは1976年のエボラ出血熱発生の際に米国疾病管理予防センター(CDC)の特殊ウイルス病原部長として、エボラウイルスの分離にかかわり、彼が撮影したエボラウイルスの写真は危険なウイルスのシンボル的存在になっている(図1)。 (この図は「科学」には掲載していません。写真は彼が予防衛生協会シンポジウム(2009年2月7日)の講師として来日した際のもの。彼が締めているネクタイはエボラウイルスをパターンとしたものです。霊長類フォーラム人獣共通感染症第5回参照) 彼から2010年暮れにメールが送られてきた。その内容は、インフルエンザウイルスは1933年の英国のChristopher Andrewesのグループが発見したものとされてきたが、1918年のスペイン風邪の際にウイルスを発見したという報告がいくつかある。それらを詳しく調べた結果、最初の発見とみなせるもののうち、もっともすぐれたものは、1919年に帝国大学伝染病研究所の所属と思われるT. YamanouchiがLancet誌(注)に発表した論文(1)だった。Yamanouchiは私の親戚だろうから写真をほしいというものであった。 注: Lancetは英国で1823年に創刊された世界最古で、現在ももっとも権威のある医学雑誌のひとつ。
残念ながらYamanouchiは私とは縁もゆかりもない。しかし、インフルエンザウイルスの最初の発見者のひとりとして私と同じ名前の日本人がいたということに興味を抱き、しかも帝国大学伝染病研究所(伝研)は、私が勤務していた東大医科学研究所(医科研)の前身である。 |
1.インフルエンザの原因をめぐる1919年頃の議論 |
@細菌原因説 注:現在はヘモフィルス・インフルエンザ(Haemophilus influenza)の学名が付けられている。この菌はその外側の膜の性状からa〜fの6型に分類され、そのうち、b型菌が肺炎の原因となるため、現在、これに対するワクチンが小児や高齢者に用いられている。これは学名の頭文字とb型を組み合わせて、ヒブ(Hib)ワクチンと呼ばれている。 インフルエンザ菌の発見から20数年後、スペイン風邪の流行で、この菌は脚光を浴びた。日本でも大正7年(1918)、北里研究所(北研)は、プファイフェル菌が原因という立場で、この菌のワクチンを製造した。伝研はプファイフェル菌、肺炎双球菌(注)のいずれもが原因とは決めかねるという見解だったが、両方の菌に対する混合ワクチンを製造した。最終的に北研のワクチン248万人分、伝研のワクチン249万人分が接種されたが、流行が終息したのち内務省衛生局の最終的見解は、ワクチンに効果はなかったというものだった(2)。 注:1881年に米国のGeorge Sternbergとフランスのパスツールにより肺炎の原因菌として同時に分離された。現在は肺炎連鎖球菌と呼ばれている。日本では2010年から乳幼児用のワクチンが用いられている。 Aウイルス原因説 注:Zinsser(1868-1940)は、米国の細菌学者でこの細菌学のテキストブックの第1版を1910年に出版して以来、1928年まで改訂を繰り返した。彼の死後も別の著者により続けられていて、現在は2010年改訂版が出版されている。 注:Taubenbergerは、スペイン風邪で死亡した人のサンプルから原因ウイルスの遺伝子の配列の一部を1997年に発表し、後にすべての配列を決定した。そして、これにもとづいてスペイン風邪の原因となったインフルエンザウイルスの再構築に2002年に成功している。 この論文は、Prof. T. Yamanouchi, Dr. K. Sakakami,
Dr. S. Iwashimaの3名が共著者になった短いものだが、なぜか、所属は書かれていない。その内容は以下の通りである。 注:ドイツのハノーバーのベルケフェルト鉱山の珪藻土を主成分にした素焼きの磁器製の細菌濾過器。
一方、細菌濾過器で濾過した血液を6名に、同様に濾過した喀痰を4名に皮下接種した結果、すでに感染したことのある1名を除いてすべて発病した。
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2.スペイン風邪以後のインフルエンザウイルスについての研究 |
スペイン風邪が人の間で大流行を起こしていた1918年に米国中西部の豚の間でも大規模な呼吸器疾患が起こり、症状がインフルエンザに良く似ていることから、ブタインフルエンザと命名された。(注) 注:このウイルスはその後、古典的ブタインフルエンザウイルスと呼ばれ、現在までブタの間で存続している。これが人、鳥のインフルエンザウイルスと交雑を起こして1998年には、いわゆる新型インフルエンザとなって、世界に混乱をもたらした(5)。
このブタインフルエンザの流行が1928年から1929年にかけてアイオワ州で起きた。ロックフェラー研究所のRichard Shopeは、ブタインフルエンザを発病した豚の呼吸器粘液を細菌濾過器を通過させたサンプルを接種して豚にインフルエンザを起こすことに成功し、豚で見られた病変について詳細な論文を発表した(6)。これがインフルエンザウイルス研究の突破口となった。
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3.濾過性病原体としてのウイルスの認識の歴史 |
Yamanouchiらの報告の意義を理解するために、ウイルス発見初期の歴史を振り返ってみる。1897年、Friedrich LoefflerとPaul
Froshは、口蹄疫の病原体が細菌濾過器を通過する微少なものということを報告し、同じ年にオランダのMartinus Beijerinckはタバコの葉の病気であるタバコモザイク病が同様に細菌濾過器を通過する病原体によることを発表した。これが最初のウイルス発見となった。
注:Reedは1902年11月に52歳で死亡した。彼の業績は黄熱ウイルスの発見だけでなく、死亡者まで出した実験で黄熱が蚊により媒介されることを明らかにしたもので、これらの研究で心身ともに疲れ果てていたと伝えられている。米国政府は彼の栄誉を讃えてワシントンにWalter Reed陸軍医学センターを設立し、それを構成する病院と研究所にも彼の名前を付けた。 黄熱に続いて発見された人のウイルスはポリオウイルスで、オーストリアのKarl
Landsteiner(ABO血液型発見でノーベル賞受賞)が1909年に報告した。その内容は、1名のポリオ患者の脊髄乳剤を細菌濾過器で濾過したのち、1頭のヒヒと1頭のアカゲザルに接種した結果、ヒヒだけが6日目に麻痺を起こし2日後に死亡したというものである。(11)。
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4.Yamanouchiについての探索 |
Yamanouchiという人物は大正時代の医学研究者にはまったく見あたらない。MurphyはProf. T.
Yamanouchiを伝研所属と推測していたので、まず、当時の伝研の教授のリストを調べてみた。しかし、そのような名前は見つからなかった。そこで、医科研の図書室に依頼してYamanouchiら3名の日本名や経歴、写真などの調査を頼んだ。詳細な検索の結果、以下に述べるような事実が明らかになった。まず、医学博士山内保による「我医学界所見」という6回にわたる連載記事が見つかり、その第1回(読売新聞大正7年(1918
)11月27日号)に以下の前書きがあった。 注:メチニコフ(E. Metchnikoff)は、白血球(現在のマクロファージ)の食菌現象を発見し、抗体による液性免疫のほかに細胞性免疫の重要性を明らかにした。その成果から1908年ノーベル賞を受賞した。パスツール研究所長をつとめ、1916年に死亡した。
そこで、東京帝国大学一覧の卒業生名簿で確認したところ、明治39年(1906)7月卒業の欄に確かに「山内保」の名前があった。さらにこの名前で検索を進めた結果、以下の記事が見つかった(読売新聞、大正8年(1919)4月1日号)。
注:1919年6月30日付けのフランス学士院報告には、会員のパスツール研究所のEmile Rouxから紹介されたLancetの論文の要約が掲載されている。Rouxは、ジフテリア菌が作る毒素の精製に成功し、これがジフテリアの重い症状の原因であることを明らかにしたことで有名であり、この成果が北里柴三郎とEmile Behringによる抗毒素療法の開発につながった。なお、Rouxはパスツールの最大の研究協力者のひとりで、パスツール研究所の創立者のひとりでもあった。
さらに、以下の記事も見つかった(東京日日新聞大正9年(1920)3月25日号)。「細菌学界の権威者・医学博士山内保氏は一昨年来流行感冒について研究していたが、此程其研究の結果を英国のランセット雑誌に発表した。同氏は流行感冒の実験を兎とか其他動物に於てなす事は体質の異る上より効果が薄いとなし、看護婦や門弟友人ら百人余人を試験材料に使って二カ年間研究を続けた。其結論は流感菌の喀痰を鼻腔咽喉の粘膜に付着すれば二三日中に発熱し発熱して流感となりー後略」
注:この調査団メンバーは、Elie Metchnikoff(パスツール研究所長)、Etienne Burnet(梅毒の研究、後にチュニスのパスツール研究所長)、Alexandre Salimbeni(コレラの血清療法などの研究)と山内の4名であった。1911年、ロシアでの結核とペストの調査を主に行い、1908年に報告されたツベルクリンの皮内試験を疫学調査に初めて応用してロシアでの結核の状況を調べ、一方、キルギス草原で発生していたペストが草原のネズミの間でのペスト菌感染の持続によることを指摘している。 一方、坂上弘蔵については、星製薬が製造したワクチンについての記事(東京朝日新聞大正7年(1918)11月16日号)の中で、「星製薬細菌部主任ドクトル坂上弘蔵氏の創成になり・・・」という文言が見つかった。ここで坂上弘蔵が星製薬に所属していたことが明らかになった。私は、当時、ワクチンは伝研と北研だけで製造していたと思っており、星製薬がワクチンの製造を行っていたことは初耳だった。星製薬は星一(はじめ)が明治39年(1906)に設立したもので、当時最大の製薬会社であったが、大正5年(1916)に民間で最初のワクチン製造・販売を始めていたのである(14)。坂上は英国の有名な細菌学者Almroth Wright(注)の元での留学から帰国したところだった。 注:第一次大戦の際に腸チフスワクチンの大規模接種を行い、その功績でSirの称号を与えられた。スペイン風邪が流行した際には、肺炎球菌、インフルエンザ菌、仮性ジフテリア菌、葡萄状球菌、連鎖状球菌の5種を混合した感冒ワクチンを開発した。星製薬が製造していた感冒ワクチンはこれだった。なお、ペニシリンを発見したAlexander FlemingはWrightの弟子。 岩島十三については、ついに手がかりとなる資料は見つからなかった。
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おわりに |
スペイン風邪が流行した時代はウイルス発見の歴史の初期であり、しかも人体実験に依存した研究で得られた成果は限られていた。Murphyからのメールで、山内保という人物がインフルエンザウイルスの最初の発見者のひとりとして大きな貢献を果たしたことを初めて知り、彼の人物像と研究の背景の一部を明らかにすることができた。当時の日本の医学界は北里柴三郎を初めとするドイツに留学した人たちで占められており、米国で成果をあげた野口英世だけが例外的存在であった。パスツール研究所で活躍していた山内保が、日本帰国後に行ったインフルエンザがウイルス感染によることを示した研究が当時もっとも評価されていたことに驚きと喜びを感じている。
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謝辞 |
山内保について詳細な調査を行っていただいた東大医科研図書室の諸氏、パスツール研究所での山内の活動状況を調べていただいたGill Dilmitis(元Director of OIE Publication Department)及び星製薬細菌部についての資料を提供していただいた星薬科大学・福井哲也教授と星製薬・竹下一夫取締役部長に感謝申し上げる。
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文献 |
1. T. Yamanouchi et al. : Lancet, 1, 971 (1919) 2. 内務省衛生局編:流行性感冒。内務省衛生局 (1922) 3. C. Nicolle & C. Lebailly: Comptes Rendus de l’Academie des Sciences, 167, 607 (1918) 4. J. Taubenberger et al., Antivir. Ther., 12, 581 (2007) 5. 山内一也:科学, 79, 589 (2009) 6. R.E. Shope: J. Exp. Med., 54, 349 (1931) 7. C.H. Andrewes: J. Pathol. Bacteriol., 51, 145 (1940) 8. W. Smith et al.: Lancet, 1, 66 (1933) 9. J.R. Kean: Scientific work and discoveries of the late Maj. Walter Reed. Senate, 57th Congress Session. Document No. 118. (1903) 10. A. Stokes et al.: Amer. J. Trop. Med., 8, 103 (1928) 11. K. Landsteiner & E. Popper: Zeitschrift Immun. Exp. Therapie, 2, 377 (1909) 12. J. Anderson & J. Goldberger.: Amer. J. Dis. Child. 4, 20 (1912) 13. G. Kolata: ‘Flu’. Farr, Straus and Giroux (1999) 14. 星製薬株式会社細菌部:最新ワクシン及血清療法(1918) 15. A. Hess: Arch. Intern. Med., 33, 913 (1914) 16. Y. Hiro & S. Tasaka: Monatsschr. Kinderheilk., 76, 328 (1938)
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参考資料 |
「科学」では触れていませんが、山内保のパスツール研究所での研究と帰国後の動静についてのメモを添付します。野口英世と同時代に行われた彼の研究活動をうかがい知ることが推測できます。山内保の子孫が見つかれば、さらに詳しいことが分かるはずです。なにか手がかりが得られればと願っています。 研究内容 2.梅毒の診断法 臨床診断に有用と評価された。同じ頃、野口英世も梅毒の研究に従事。 3.アトキシルの作用 アトキシルの治療効果(ウサギの実験的梅毒で)について1908年にLevaditiと論文を発表。 学位論文 2. 「日本博士録」第1巻 3. 「日本医学博士録」 審査大学ト授与年月:大正2年2月 東大 帰国後の研究
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