189. ボルバキアが問いかけるもの——生態系を設計する時代

昆虫に広く共生する細菌ボルバキアは、デングウイルス、ウエストナイルウイルス、ジカウイルスなどの伝播を阻止する。ボルバキアによるデング熱対策については、本連載の第65回 (2015)89回(2016)98回(2017)で紹介してきた。

オーストラリア・モナッシュ大学のスコット・オニールは、大学院時代からボルバキアの研究を続け、ショウジョウバエ由来のボルバキアをネッタイシマカに定着させることに成功した。さらに、この細菌が蚊の体内でデングウイルスの増殖を強く抑制することを見いだした。

2005年、オニールはモナッシュ大学にワールド・モスキート・プログラム(WMP)を設立した。ボルバキアは卵を介して母から子へ伝播するため、感染したメスから生まれる子にはかならずボルバキアが感染している。WMPは、ボルバキア感染蚊の放出により、感染蚊を急速に集団内に広げる「集団置換」戦略でデング熱の伝播を阻止することを目的としている。

これまでに、インドネシアのジョグジャカルタで2016年から2017年にかけて感染蚊の大量放出を行い、その地域でのデング熱の発生が77%、入院患者が86%減少したことを報告した。ブラジルでも同様の試験でデング熱発生が約90%減少したことを報告した。

2015年、WMPとは別の発想に基づく、テクノロジー主導のデバッグ(Debug)・プロジェクトが、グーグルの親会社アルファベット社の子会社であるベリリー社により立ち上げられた。ここでは、ボルバキアに見られる細胞質不和合を利用して蚊の個体数を減少させることを目指している。細胞質不和合とは、異なる細胞質ゲノムを持つ個体の間で交配した際に胚が高率に死亡する現象で、ボルバキアに感染したオスの精子は形成過程で修飾されていて、メスの卵子と受精すると、卵子側の因子と激しく衝突し、細胞分裂が阻害されて胚が死亡する。この性質を利用して、デバッグは膨大な数のボルバキア感染オスの放出し、野生蚊の個体数を減少させようとしている。

デバッグは、グーグル流の自動飼育、AI画像認識、雌雄選別、超大量生産、ロボットによる感染オスの自動放出を持ち込んで、蚊の集団構造そのものを制御しようとしている。

2016年から2018年にかけて、カリフォルニア州フレスノで数百万匹の感染オスの放出を行い、2018年にはシンガポール環境省のボルバキア・プロジェクトに参加している。

2025年には米国環境保護省に、カリフォルニアとフロリダに総計320万匹の感染オスを放出する計画を申請し、許可を待っている。

WMPはボルバキアを利用した集団置換という生物学的手法を発展させてきた。一方、デバッグはAIによる雌雄選別や自動飼育、ロボットによる大量放出といった工学技術を磨いてきた。2025年、両者は提携し、生物学とデジタル技術を融合させた次世代の感染症対策が現実味を帯び始めている。

これまで感染症対策は、病原体との闘いとして発展してきた。しかしボルバキア戦略が対象としているのは病原体そのものではない。蚊と共生細菌の関係を書き換え、その結果として感染症の流行を制御しようとする、新しい方式である。WMPとデバッグの提携は、感染症対策が微生物学だけでなく、AIやロボティクスを含む総合的な「生態系工学」へ広がりつつあることを象徴している。今や、病原体だけでなく、生態系の構造そのものに介入する時代に入ろうとしているのである。

この記事はこれで終えるつもりでいた。ところが、米国科学アカデミー紀要の5月号に掲載された「ボルバキアが媒介昆虫によるウイルス伝播を増強する」という表題の論文が目にとまった。

この論文では、中国の研究グループが、ウンカに共生するボルバキアが、イネ南方黒すじ萎縮ウイルスの伝播を促進していることを報告していた。ボルバキアの表面タンパク質がウイルスと結合し、ウイルスがウンカの唾液腺へ侵入するのを助けていたのである。

ボルバキアはデングウイルスに対しては伝播を抑制する細菌として働くが、別の生態系では「悪玉菌」として植物ウイルスの拡散を支援していることになる。

考えてみると、ボルバキアは敵でも味方でもない。ある環境ではデングウイルスを抑制し、別の環境では植物ウイルスの伝播を助けても不思議ではない。自然界には、本来「善玉菌」も「悪玉菌」も存在しない。ある生物に利益をもたらす関係が、別の生物には不利益をもたらすことがある。生物は常に複数の生物との関係の中で生きており、その意味は状況によって変化するのである。 われわれは20世紀を通じて、病原体を排除する技術を発展させてきた。そして21世紀に入り、今度は共生微生物を利用して生態系そのものを操作する段階へ足を踏み入れている。だが、生命圏は複雑な相互依存の網の目でできている。ある場所で有効だった介入が、別の場所では予想外の結果をもたらす可能性もある。われわれは生態系を設計する時代に入りつつある。しかし、生態系は思い通りに設計できる対象ではないのである。

 

文献
O’Neill, S.: The dengue stopper. Scientific American, June 2015, pp. 61-65.

Gilbert, N.: Bacterium offers way to control dengue fever. Nature, 24 August 2011. doi:10.1038/news.2011.503

Cyranoski, D.: Modified mosquitoes set to quash dengue fever. Nature, 10 January 2012. doi:10.1038/nature.2012.9752.
Utarini, A. et al.: Efficacy of Wolbachia-infected mosquito deployments for the control of dengue. New England Journal of Medicine, 384, 2177-2186, 2021.
Verily: Three great years of Debug Fresno. 2020 https://blog.debug.com/2020/01/three-great-years-of-debug-fresno.html

World Mosquito Program News: World Mosquito Program and Debug join forces to combat mosquito-borne diseases. 2025.
https://www.worldmosquitoprogram.org/en/news-stories/news/world-mosquito-program-and-debug-join-forces?utm_source=chatgpt.com

Debugging: Google requests permission to release 32m mosquitoes in California and Florida. The Guardian, June 2, 2026.

Wang, Y. et al.: Wolbachia-mediated viral transmission enhancement in insect vectors. Proceedings of the National Academy of Sciences,123, No. 20, e2607638123, 2026.