人獣共通感染症連続講座 第142回 バイオテロ防衛(バイオディフェンス)に関する米国研究社会の動き

 (3/9/03)

バイオテロ防衛(バイオディフェンス)に関する米国研究社会の動き

9月11日の同時多発テロ、それに引き続いて起きた炭疽菌事件はライフサイエンスに新しい問題を提起し、科学研究雑誌に発表される論文に書かれた新しい情報が悪用される可能性について、科学者自身への問いかけがなされてきています。とくに微生物学、感染症、公衆衛生、植物、農業システム領域の雑誌が病原体の悪用に関する問題に直面しています。
具体的に最近問題になった論文が3つあります。第1は、オーストラリアでマウスポックスウイルスをベクターとした不妊ワクチンの開発が、思いがけず強毒でワクチンも効かないマウスポックスウイルスを作り出したという成績(本講座113回)です。この結果を同じポックスウイルスである天然痘ウイルスに置き換えると、自然界の天然痘ウイルスよりも強毒で、種痘も効かないウイルスができたという内容です。第2はポリオウイルスの遺伝子の断片を化学的に合成し、それらをつなぎあわせて全遺伝子を作り、それから感染性のポリオウイルスを取り出すのに成功したという米国の成績です。メールオーダーでDNA断片の合成を注文して、ウイルス遺伝子を作り、感染性ウイルスができるという結果とみなせます。これらの2つの研究については、本講座141回でご紹介した「忍び寄るバイオテロ」でも解説してあります。

もうひとつは、米国で行われたワクチニアウイルスの遺伝子改変の成績です。ワクチニアウイルスは天然痘ワクチンの成分です。一方、天然痘ウイルスには、ウイルスが人の免疫系の働きを逃れる手段として働く何種類かの蛋白質が見つかっています。その一つをワクチニアウイルスに組み込んだところ、人の細胞に感染しやすくなったという内容です。専門的になりすぎるので詳細は割愛しますが、興味のある方は” Variola virus immune evasion design: Expression of a highly efficient inhibitor of human complement. A.M. Rosengardほか、Proc. Natl. Acad. Sci. USA, Vol. 99, 8808, 2002″をご覧ください。
バイオテロの脅威に対するバイオディフェンスとして、論文発表のあり方についての科学雑誌編集者の見解が雑誌「ネイチャー」Vol. 42, 771 pageに論説として掲載されています。また、米国衛生研究所(NIH)所長のバイオディフェンス研究の重要性についてのコメントが同じ雑誌の787 pageに掲載されています。この2つの記事の要点を整理してみます。

1.論説

2003年1月9日、米国科学アカデミーは科学研究の公開性と安全保障のバランスについて、雑誌編集者、科学者、安全保障専門家、政府職員などを集めてワークショップを開き、その翌日には雑誌編集者が主体となって別の会合を開き、次のようなステートメントを発表した。

ピアレビューのある科学雑誌に掲載される科学情報に関しては、編集者と著者に独自の責任が負わされている。すぐれた内容の論文を、再現性の確認が可能なように詳細にわたって掲載することによって、研究全体を守らなければならない。独立した検証が行われなければ、生物医学研究の進展も、強力なバイオディフェンス・システムの基礎となる知識も得られない。

我々は、バイオテロの観点から公表された情報の乱用に法的な関心が寄せられることを認識しているが、まったく同じ領域の研究が社会防衛にきわめて重要であることも認識している。我々は発表された論文が引き起こすかもしれない安全・保障の問題に責任をもって対応することになる。

時により編集者が、発表の危険性が科学的恩恵を上回ると結論することもある。このような場合、論文は書き直しが要求されたり、または拒否されることもある。科学情報はセミナー、講演会、ホームページなどでも伝えられる。雑誌および科学界は、研究者が研究結果を公衆の恩恵を最大にし乱用の危険性を最小限に抑えるのに重要な役割を担っている。

2.NIH所長、アントニー・ファウシ(Anthony Fauci)によるバイオディフェンス研究の重要性についてコメント

米国政府は2003年度予算としてバイオテロ対策費に59億ドル(7000億円)をつぎ込むことになり、そのうちNIHには2002年予算の8倍の17億5000万ドル(2000億円)のバイオディフェンス研究予算が来ることになった。これだけの増額はNIHの歴史上かってないことであり、膨大な責任が課せられたことになる。
NIHの最優先課題はバイオディフェンス研究支援により国民に診断、治療、ワクチンの形で対策を供給することであって、我々はこの重要かつ新しい責任を受け入れることにした。これまでもNIHでの主なゴールは、基礎研究の成果を実用に結びつけることであったが、製品開発への道は我々の研究戦略の中心ではなかった。しかし、現在の世界的脅威によりこのやり方にある程度方向修正を行わざるをえなくなった。そこで、まず、病原体、発病のメカニズムおよび宿主反応に関する基礎的知識にもとづいて、トランスレーショナル研究と製品開発への努力を増強することにした。基礎研究の強化は続けるが、研究的興味から重要な問題を追求し、その成果のトランスレーションは他人の手に任せるといったやり方だけでは充分でなくなった。
NIHはバイオテロリズムの危険性のある病原体の研究を、9月11日のテロやそれに続く炭疽菌事件で突然決めたものではない。NIHの研究費による天然痘、炭疽菌、エボラウイルス、ボツリヌス毒素などの病原体の研究はずっと以前から行われていた。この研究がすぐに役だった実例は、何十年も保管されていた天然痘ワクチンを5倍に薄めても、防御効果を示す皮膚の病変を引き起こしうることの証明である。(30年以上前にウシの皮膚で作られた天然痘ワクチンは米国で1500万人分あります。それを5倍に薄めて接種しても皮膚に発痘が見られることを確かめたことで、7500万人に用いるという政策の基礎になったものです。この研究そのものはとても学術論文にはならない内容ですが、NIH所長があえて強調しているわけです。それだけ米国ではバイオテロが深刻に受け止められていることを示したものと思います。)
第二に、我々は新しい創造的な方法で、バイオディフェンス製品の開発を検討している。ほとんどあらゆる病原体に効果のあるユニバーサル抗生物質、抗ウイルス剤、抗毒素の開発は不可能ではない。独創的な手段によるワクチン開発、本来備わっている免疫力の増強、病原体の脅威を検出し同定し量を測定する分子レベルの診断法など、大きな目標を目指す。
新しい戦略のためにはパラダイムの転換が必要である。基礎研究を行っている際に、バイオテロの脅威から公衆を守るための安全かつ効果的な手段を開発する目標を決して忘れてはいけない。バイオテロ防衛の考え方と戦略は全体としてエマージング感染症に対する防衛と同じものである。

第142回追加分
(3/13/03)

3.バイオテロ防衛(バイオディフェンス)に関する米国研究社会の動き

科学論文の内容がテロリストに悪用されるのを防ぐために、著者、編集者、論文審査員に自主的責任が求められるようになってきた動向を第142回の講座でご紹介しました。研究成果の公開性とテロ防止のための非公開性というジレンマを科学者は抱えることになりました。英国の科学雑誌ニューサイエンティストの2月23日号は、科学が新しい自主検閲の時代に入り、最近、全米微生物協会の雑誌に投稿された2編の論文が内容の修正を要求されたとのニュースを伝えています。その論文のひとつは、毒素の致死性を高めるヒントを含んでいたものとのことです。
米国の科学記事にはバイオテロリズム、バイオディフェンス、バイオセキュリティーの3つのキイワードがしばしば見られるようになりました。2001年9月11日の同時多発テロを受けて、1カ月あまり後の10月26日には急遽、総括的なテロ対策法が米国議会で成立しましたが、その名前は愛国者法(PATRIOT Act)です。これはProviding Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism(テロリズムを迎え撃ち阻止するのに求められる適切な手段を提供する)の語呂合わせですが、科学の世界にもこの法律の影響が出始めているとみなせます。