人獣共通感染症連続講座 第17回 野生動物の狂犬病

(9/16/95)

1週間にわたってパシフィコ横浜で開かれた世界獣医学大会と、その後、東京で経済協力開発機構と私たちが共同で開いた獣医免疫に関するワークショップ Japan-OECD Workshop on Novel Immunological Approaches to the Control of Animal Diseasesの世話をしていたために、原稿をまとめるひまがありませんでした。 この両方の会議で野生動物への狂犬病ワクチン接種に関する発表がいくつか行われました。 それらも含めて話題を提供したいと思います。

1. 世界における狂犬病の発生状況

日本でも昔は狂犬病が流行しており、とくに終戦直後の混乱期には多くの患者が出て、私がかって勤めていた東大医科研(当時の伝研)には噛まれた後のワクチン接種を受ける人の長い行列ができたという話を聞いたことがあります。 幸い、昭和31年のイヌ6頭、人1名の死亡を最後に狂犬病はなくなりました。 しかし狂犬病のない国は日本、英国、オーストラリア、ニュージーランド、スウェーデン、ノールウエイ、フィンランド、ポルトガル、ギリシャなどに限られています。 今でも全世界では年間推定7万人の死者が出ているといわれています。

発展途上国は別として先進国で狂犬病が存在している最大の理由は野生動物が宿主になっているためです。 すなわち、ヨーロッパでは狐が、北米大陸では狐、スカンク、アライグマ、マングース、コヨーテ、吸血コーモリが宿主になっています。

私は1982年に共同研究のためにパリのパスツール研究所を訪問した時、半日、狂犬病ユニットで部長のスローSureau先生(パスツールが学位を持っていなかったために、ここではドクターとは言わず、皆、ムッシューです)と話をしていましたが、その間にも何人か暴露後のワクチン接種を受けにきていました。 ここは狂犬病センターを兼ねていたのです。 ここを含めて当時フランス全体で狂犬病センターは60カ所あって、年間3,000人がワクチン治療を受けていたといわれています。 これには感染の疑いのある人に対する予防的措置も含まれていて、実際に真性狂犬病の動物に噛まれた人は年間700人といわれていました。 スロー先生は昨年突然亡くなられました。 スロー先生は実は1976年のザイールでのエボラ発生の折りに現地に飛んで活躍されたことでも有名です。 この講座の第11回でパスツール研究所の医師がキンシャサに飛んで看護婦メインガの治療にあたったことを書きましたが、これが彼です。 余談ですが彼の後任には台湾系のチャンTsiang先生が就任されています。 私の古くからの友人です。 横浜での世界獣医学大会にお招きしたのですが、暇がなくてこられず、残念でした。

次に述べますが、1980年代半ばから始まった狐へのワクチン接種で感染する人はほとんどなくなりました。 狂犬病の狐の数も激減してきています。 昨年のフランス全体での狂犬病の狐は99例でした。 その大部分はパリの東のロレーヌ地方です。 パリのとなりがシャンパンで有名なシャンパーニュ地方、そのとなりはドイツのザールランドになります。 ところがドイツのザールランドでは1993年の狂犬病の狐の報告が22例であったのが昨年は突然277例と増加しました。 ベルギーでも1993年がわずか2例になっていたのが1994年には61例に増加しました。 ザールランドとベルギーに挟まれたルクセンブルグでは1993年には0でしたが1994年10月には1匹の狂犬病の狐が見つかりました。 フランスにも広がるのではないかと心配されています。 したがって、まだまだ狂犬病対策は最重要課題です。

2. 野生動物のための狂犬病ワクチン

人と犬への狂犬病ワクチンには不活化ワクチンが用いられています。 しかし野生動物はつかまえて注射するわけにいきません。 そこで考え出されたのが弱毒生ワクチンを、餌に混ぜて食べさせる方法、すなわち経口投与です。 この方法はスイスのフランツ・ステック博士が開発したものです。 彼は犬から分離された狂犬病ウイルスのマウス順化株SADを細胞培養に持っていって弱毒のSAD Bern 株を作りだし、これを餌(鶏の頭)にいれて散布する方法を考案しました。 1978年からこの方法が実際に応用され、スイス・アルプス地方の狂犬病の狐の数は激減しました。 ステックと私は1960年代はじめにカリフォルニア大学の同じ研究室にいて、家族ぐるみでつきあっていた間柄です。 しかし、この餌を飛行機で散布していた際に、飛行機が山に激突して亡くなりました。

このSAD Bern株を狂犬病ウイルスのエンベロープG蛋白に対するモノクローナル抗体で処理して、さらに弱毒のSAG1株が作られました。 この仕事の中心になったのは当時、フランスのナンシーNancy(ロレーヌ地方の中心にあります)の動物疾病センターの所長で、現在は国際獣疫事務局(OIE)の局長であるブランコウBlancou博士です。

SAD BernとSAG1とはG蛋白の333番目のアミノ酸がひとつ違うだけですが、病原性ははるかに弱くなっており、学問的にも大変興味が持たれています。

1986年からはSAG1がオーストラリア、ベルギー、チェコ、フィンランド、フランス、ドイツ、ハンガリー、イタリー、ルクセンブルグ、オランダ、ポーランド、スロバキア、スロベニアなどで用いられ、現在、年間1400万ドーズが飛行機で、またはハンターにより散布されています。

これらの対策で西ヨーロッパの狐の狂犬病の数は激減しました。 しかし、一方で狐の数も増えてきているのが現状です。

このワクチンにはいくつかの問題があります。 これは生ワクチンです。 すなわち生きたウイルスです。 そして実験的にはヒヒ、スカンク、小型のほ乳類には、まだ病原性が残っています。 また、人が間違ってこのウイルスに感染した時には、狂犬病感染の場合と同様のワクチン治療を受けることになっています。 さらに、北米でもっとも重要な自然宿主であるアライグマには効果が弱いといわれています。

そこで登場してきたのが遺伝子組換えによるワクチンです。 これはフランスのベンチャーであるトランスジーンTransgene、米国のウイスターWistar研究所、世界最大のワクチンメーカーであるフランスのローヌメリュー(ここが後で述べるワクチニアウイルスによる組換え技術についてのすべての特許を持っています。 創立者はパスツールの共同研究者です。 現在の会長はその孫で87才ながら大変元気で、先日、私とピレーPilet教授が企画したパスツール没後100年記念講演会に横浜までやって来て、講演されました)、ベルギーのリエージュ大学などの共同研究です。

ワクチニアウイルスは種痘に用いられたウイルスです。 ご承知のように天然痘(学問的には痘瘡が正確な表現です)の予防に用いられ、その結果、1970年代終わりに天然痘根絶というすばらしい成果をもたらしたものです。 ワクチニアウイルスは大型のDNAウイルスで、その中にはウイルスの増殖に関係のない遺伝子も含まれています。 その部分に狂犬病ウイルスの遺伝子のうち、感染防御を担っている遺伝子、すなわちウイルス粒子の被膜(エンベロープ)を構成しているG蛋白の遺伝子を組み込んで、組換え狂犬病ワクチンとしたものです。 ここでワクチニアウイルスを選んだ主な理由にはふたつがあります。 ひとつは高い耐熱性です。 天然痘根絶が成功した理由のひとつに45℃、1か月も安定という耐熱性の乾燥ワクチンが開発されたことです。 もうひとつの理由はアライグマなどいくつかの野生動物にもワクチンが効く可能性が考えられたことです。

ワクチンの開発で重要な点は有効性と安全性です。 とくに遺伝子組換えで作ったワクチンでは安全性が大きな問題です。 さらに、この組換え狂犬病ワクチンは野外にまくため、いろいろな動物にも食べられて感染を起こし、生態系に影響を与えるおそれも考えられました。 そこで実験室内でチンパンジーも含めた17種類の野生動物での安全性が検討され、また狐、犬、猫、牛、フェレット、ハリネズミ、猪などで水平感染が起こらないことなども確かめられました。 ついでWHO世界保健機関による専門家会議での安全性についての検討を終えたのち、野外試験が行われました。 最初は1987年10月17、18日ベルギーの軍の基地6平方キロの森に250個の餌がまかれました。 第2回目の大規模野外試験は1988年9月21日、ルクセンブルグの435平方キロの場所で行われました。 ここが選ばれたのは1平方キロあたりの人口が42人と人口密度が低く、狂犬病の発生が多かったためです。 そして大規模なワクチン接種キャンペーンが1989年11月、1990年4月と10月にベルギーで行われました。 この際には2,200平方キロの場所にヘリコプターで1平方キロあたり15個の餌が撒かれました。 これらの結果を経て、政府買い上げの形でローヌメリュー社はフランス国内ですでに100万ドーズのワクチンを散布しています。

以上はこれらの野外試験の責任者で私の親友でもあるベルギー・リエージュ大学のポールピエール・パストレPaul-Pierre Pastoret教授およびローヌメリューの研究部長デメットルDesmettre博士からこれまでに聞いていた話をもとにまとめました。

米国では1990年8月にバージニア州の東岸にあるパラモアParramore 島で野外試験が行われました。 この際には約300ヘクタールの場所に3,000個のワクチンが散布されました。 この野外試験にあたっては農務省動物植物健康監視局USDA Animal and Plant Health Inspection Service (APHIS)で安全確認の審査と公聴会が行われたのち、実験が承認されました。 私はこの審査申請書の分厚いコピーをAPHISの担当官から6年ほど前にもらって参考にしておりますが、その内容は野生動物の生態系への影響の検討を中心としたものです。

3. アライグマの狂犬病

米国ではアライグマ、狐、スカンク、コーモリが狂犬病ウイルスの宿主となっていて、動物での狂犬病の87%を占めるといわれています。 コーモリによる狂犬病は急には拡がらないので、流行の原因とはみなされていません。 最近、問題になっているのはアライグマの狂犬病です。

アライグマの狂犬病は以前は米国南東部フロリダ州に限局していました。 しかし1989年10月にニュージャーシイ州でアライグマの狂犬病がみつかり、1990年だけで37例がみつかっています。 地図を見るとフロリダからノースカロライナを飛び越して狂犬病が拡がったことが良く分かります。 この理由としてはハンターが狩猟用のアライグマの数を確保するためにフロリダから3,500頭のアライグマを1977年にバージニアに放したためと考えられています。 人為的な流行の拡大です。

さらに数日前のProMEDによれば、この20年間で初めてアライグマの狂犬病がルイジアナで見つかったことが9月11日にニューオーリンスの州衛生局から報告されたそうです。 これがスカンク由来かアライグマ由来かを遺伝子構造の面で検討することになっていますが、もしもアライグマの狂犬病ウイルスであった場合には、フロリダから今度は西へウイルスが移動しはじめていることを示すものとして注目されています。

ところで、日本は狂犬病が根絶されており、海外からの狂犬病の侵入も厳重な犬の検疫で十分に対応しているといわれています。 しかし、最近のペットブームで海外からのアライグマの輸入が増えています。 以前に取り上げたサルの場合と同じく、野放しの輸入ですので実態は分かりませんが、年間に5,000頭位入ってきているとの話も聞いています。 野生動物の輸入検疫の問題がここにもあります。 アライグマの輸入についてご存じの方がおられたら教えていただきたいと思います。