第2回 放医研0期と遺伝研0期(8/14/2001)

2.放医研0期と遺伝研0期(8/14/2001)

私が放医研に入所したのは昭和33年4月1日であるから、昭和32年7月1日にできたばかりでまだ1年未満の、よく言えばあらゆる可能性を秘めたES細胞のような研究所であった。昭和29年3月16日に静岡県の焼津港にビキニ水爆被爆漁船第五福竜丸が放射能マグロを水揚げした事件が、放医研設立の大きな要因であったことは間違いなかろう。丁度その頃、私は大学入試に受かった頃で1年間のストレスがとれて身体中がふわーとなった状態でラジオのニュースなどは聞いていたが、自分と関わりない出来事ではあった。
面接試験で「君には遺伝をやってもらうが」と、後でわかったことだが「江藤秀雄」部長から話があり、これは大変なことになったと大きな衝撃を受けた。当時の私はとにかく何処かに職を得ることが先で、仕事の内容について選択する余地はまずなかったのである。その当時の私にとっての生物学は高校1年で生物を選択し、教科書「生物の科学」で勉強した程度である。月並みにメンデルと3:1の比が頭の片隅にあることはあったが、両者のつながりはまったく切れていた。遺伝子DNAの2重らせん構造が報告されたのが1953年(昭和28年)で私が浪人しているときで、そんなすごい発展途上にある分野に参学するのだとは少しだにも気づかなかった。
公務員研修が済んで行ったところが、国会議事堂の正門横の「放医研分室」の2階の一室で、所長をはじめ職員全員がたむろしていた。後で聞くと、その当時の最大の問題は放医研をどこに設置するかであったという。もちろん新参者はそんなレベルの高い話ではなく、当面何処かへ行って勉強する、とても遺伝学の研究をする知識もなし、状況によっては資質もわからないのである。組織上の物理、化学、障害、環境衛生の4研究部があったが、皆それぞれの前任地で研究をしていたようである。私の所属は障害研究部で江藤秀雄先生が部長であった。江藤秀雄先生からは、三島の国立遺伝学研究所に「木村資生」博士という人がいるから、研究所ができるまでそこに行って勉強して来なさい。ついでは「菅原 努」先生が遺伝研と放医研の併任になるから、放射線障害のことも同時に勉強してくるように、との業務命令?をいただきました。三島へ特別研究生という名目で赴任したのは就職してから2ヶ月後の6月でした。
当時の日本の政治は「安保闘争」と騒然とした状況で、はからずも霞ヶ関の放医研分室で国会デモのうねりを2階から高みの見物をする機会がありました。はじめてみるジグザグデモは整然としており、いつ国会正門の扉が倒れるか変な心配をした記憶があります。東京大学の女子学生が亡くなったデモはこの1年後です。

当時の電話事情は今から考えると信じられないほどのんびりしたものでした。今でも覚えていますが、三島の遺伝研に電話を朝十時に掛けると午後の三時頃つながるといった具合でした。つながったはよいが、先方からたった今外出されましたと言われがっくりすることも何度かありました。なにせこちらは駆け出しのひよっこですから、もう雲の上のような先生方と連絡するにはいつもおどおどしていました。とにかく話がついて三島に行くことになりました。受け入れ先は変異遺伝部で部長は「松村清二」博士で菅原 努博士は室長でした。正直いっていろいろな先生方にお会いするのですが、なにも知らないため当時どなたがすごい仕事をされているのかさっぱりわかりませんでした。
当時の遺伝研は2階建木造舎で戦時中は飛行機工場だったとか。廊下がぎすぎす音をたてるのにはびっくりしました。菅原先生の研究室は2階の角で大きな富士山が見えて感激しました。菅原先生の案内で隣の研究室で「木村資生」博士に初めてお会いしました。菅原先生が私の経歴を簡単に紹介してくださるのしばらく聞いたのち、特徴のある眼をぎょろっとされ私を観て、「数学のために遺伝学をやってはいかんよ。遺伝学のために数学をやりなさい」といった内容のことをぼそぼそと話してくれました。実のところ本当は何を聞いたのか大事なところなのにはっきり覚えていないのです。もっと後かもしれません。その後今でも木村先生というとこの言葉が浮かんできます。とにかくいろいろな知識を覚えなければいけないからしっかり勉強しなさいと勇気付けられたことは覚えています。「放射線の遺伝的影響」の研究には人類遺伝を勉強しなければいかんが、といって駒井 卓先生の「人類を主とした遺伝学」という小冊を紹介してもらいました。この本は非常にわかり易く、私にとって手ごろでずいぶんと勉強になりました。
いくつかの先生の論文別刷りやレビューをいただいて本当にびっくりしました。特にコールドスプリングハーバーで発表された確率微分方程式の解として遺伝子頻度の時間的変化を表す公式がさまざまな状況について統合した体系で与えられている、その(数学的な意味での)美しさにびっくりしました。もちろんモデルの生物学的内容はまだわかりませんでした。ずーと後でわかったことですが、当時の木村先生が若くして世界のトップに踊り出たのがこの論文だったのです。さあそれからが大変です。当時遺伝研にあった、今でもありますが、Goldschmitt文庫の別刷りで数式の出ている論文を片っ端から見ることに多くの時間を費やしました。当時、論文コピーも青焼きなど暗室で仕上げる時代でしたが、必要と思った論文はかなりコピーしたのを覚えています。手間がたいへんで、短い論文は手書きでコピーしました。そのうちホールデン、ライト、フィッシャーという集団遺伝学の巨頭の論文が山をなすようになりました。フィッシャーは統計学の太祖ともいう人で数理統計屋にはなじみの名前ですが、遺伝学にこれほどコミットしていた、いやむしろ集団遺伝学という分野の大ボスであることにびっくりした次第です。折りに触れ木村先生からライトさんの論文別刷りもコピーさせてもらいました。
コピーはしても肝心の遺伝学がわからず、いらいらも募る時代でした。遺伝研滞在中親しくなったある友人から聞いたのですが、「遺伝研でalleleとはなんだ」と聞く奴がいるとか。被害妄想かもしれないですが、多分当時の私のことでしょう。当時私はすっかり腹を括って「わからないことは何でも聞いてやろう」という心境でいました。
この遺伝研での1年弱の期間は何を理解したかさっぱりわからなかった暗中模索の時代とでもいいましょうか。当時のコピーを最近みることがありますが、なんでこんなしょうもない論文をコピーしたのか、あるいはこんないい論文もコピーしたのか、と感慨に耽ることもありますが、いずれにせよ内容を理解せずに数式に踊らされていたというのが本当の姿だったのでしょう。
当時遺伝研にはロックフェラー財団から研究費が拠出され、私と同年齢の若い人が沢山いました。寮母の宮内さんのボリュームのある食事にサポートされ、暑い夏も寒い冬も夜遅くまで、場合によって徹夜をすることもしばしばで皆頑張りました。夜遅いことが仕事をしてるとは限りませんが、若さの熱気というか、ファイトがひしひしと伝わってこちらもうかうかしてられないと励まされたのは事実です。よくだべりました。仕事のこと、遊ぶこと、先生のこと、いろいろありました。