第23回 放医研への「出戻り」の話 (07/01/2005)

8. 放医研への「出戻り」の話

ある日中井斌さんが私の研究室にやって来て、話があると切り出した。放医研遺伝研究部遺伝第二研室長の根井正利さんがアメリカのBrown大学に転任したので、その後任として私に来てほしいというのである。正直のところ、再び放医研に戻ることは全く考えていなかったので私にとってまさに寝耳に水であった。話を聞いてみると仲尾善雄遺伝研究部長は広島大学へ、塩見敏男遺伝第一室長は長崎大学へ教授として出向し、その後中井斌さんが遺伝研究部長に昇任した。放医研遺伝研究部の陣容がかなり変わったことを知らされたのである。御園生圭輔所長からはショウジョウバエやイーストだけでなく人間の調査研究もして欲しいとのことで、私にぜひ来てもらいたいとの話であった。

私がまだハワイ大学で勉強していた頃、中井斌さんは学会の帰り道ハワイに寄りワイキキへ私を呼び出したことがあった。中井さんとの最初の遭遇である。国際マーケットプレスの広場でコーヒーを飲みながら中井さんは放医研の状況をとりとめなく話し出したのだが、ものの5分とたたぬうちにフラ・ショウの開始を告げるハワイアンが流れると「これを見るためにハワイに寄ったのだ」と言い、話をそっちのけにして席を外してしまった。なんともしまらない話である。今度の話を伺って、「放射線の人体への遺伝的影響」の調査研究が私に宿命付けられているのではないかとの考えが浮かび、放医研の雰囲気もある程度わかっていたことだし、それではお引き受けしましょうと返事をした。補助員を少なくとも1名付けるとも言ってくれた。国立遺伝学研究所集団遺伝研究部では木村資生部長のアドバイスが日常的に得られることで何事にも離れがたい思いがあったのだが、折りに触れて指導していただけるとのことで以後数年間を非常勤研究員としての三島通いが実現した。その頃結婚の話があり、東京の実家が三島より稲毛の方が近いから都合がよいかなとの思いもあった。
その頃だったと思うが、1969年7月16日、アポロ11号が月面着陸に成功し、ニ―ル・A・アームストロング船長とエドウィン・F・オルドリンの2人のアメリカ宇宙飛行士が月面に立つというニュースが流れた。人類の歴史始まって以来の快挙である。このテレビ放送を遺伝研玄関の受付で食い入るように見ていた木村資生部長の様子が忘れられない。意外に思ったのはあの研究に厳しい先生とテレビウオッチングが結びつかなかったのである。新しいことへの旺盛な好奇心というか、目の前で起きている事実を確かなものとして受け止めるというのか、学問だけでなく新しい事実を真摯に受け止める態度というか、木村資生先生の別の面を垣間見る思いがした。
話はスムースに進み、1969年10月1日から放医研に出向する手筈となった。その1ヶ月前に集団遺伝研究部第二研究室長の辞令を受けて、着任間もない森脇大五郎所長に出向のご挨拶に伺った。森脇所長には私の昇任を率直に喜んでいただいた。森脇大五郎所長は東京都立大学でアナナスショウジョウバエを用いた実験集団遺伝学の研究をされて居られた泰斗である。また私の後任に太田朋子さんが正式に集団遺伝部の研究員として採用された。太田朋子さんはそれまで学振奨励研究員として木村資生部長のもとで研鑚を積んでおられた。中井斌部長からは君の人事はスムースに行ったのでよかったと大分後に、稲毛の「養老の瀧」で晩飯を一緒に食べたときに聞かされた。

8.1. 放医研第2期のスタート

8年振りの放医研に戻り、型通り御園生圭輔所長にご挨拶申しあげた。とにもかくにもヒト遺伝を研究して欲しいとのことであった。ショウジョウバエ、カイコ、酵母などでの放射線遺伝学の基礎研究が重要なこともわかるが、ヒト遺伝の放射線影響研究を目指してもらいたい。当研究所は放射線医学総合研究所なのだから、ぜひそのつもりで研究するようにとのことであった。それに答えたつもりなのか、昭和52年発行の「放医研二十年史」に「人類集団における突然変異遺伝子の動態に関する調査研究」を開始したと書いてある。その目的として「日本人集団の遺伝的構造を明らかにし、集団が被ばくした場合の危険度推定に必要な要因を知り、電子計算機を利用あいて突然変異遺伝子の効果を集団として把握すること」とある。中井斌部長に相談したが研究内容は君に任せるという返事しか返って来なかった。丸投げである。私を信頼していたと考えるのは甘いのであって、中井さんは退官後しばらくして君は少しも協力してくれなかったと言った。いわゆる霊長類特研に参加しなかったことらしい。
具体的な研究は周囲の状況を把握して実際何ができるかを部長とデスカッションしたかったのである。そこで機会あるごとにセミナーや研究会に参加して具体的な研究テーマを探し倦んだ。ところがどうも風通しが悪いのではないか。室長会、主任研究員会などの組織があるが、研究者としての連携がよくない。日常の研究者間でもそうだが、室長会でも研究内容をお互いに深く突っ込んだデスカッションをしない。会議の運営や事務手続きのなどには十分時間を費やすが、研究を啓発することはタブーみたいであった。また専門家と自負する研究員もトピックス的なことは知識として知っているようだが、基礎知識がしっかりしていないせいか第三者に分かるように伝えることがない。なんとなく自他共にその道の専門家なのである。ウィスコンシン大学で経験した「質問すれば必ず答えが戻ってくる」体制とはほど遠い。考えてみると、これは「専門知識の基礎」をきちんと理解していないからではなかろうか。たとえば学部レベルの知識を専門外の人にわかるよう説明できない。わからないこと、わかっていることの区別ができないのが一番いけないと思う。放医研は「総合研究所」だから、多様な専門家がいるのに残念であった。なんとかしなければとの思いは後に学部レベルの教科書の翻訳紹介という形で示した。次第にわかってきたことは遺伝リスクの統合的研究は遺伝部長の職務で、部下たるものがそれを調査研究するのは部長の職域を侵す、研究員には面倒なことは部長に任せておけばよいという暗黙の了解が次第に出来つつあったことである。

放医研での集団遺伝学の理論的研究はすでに前任者の根井正利第二遺伝研究室長が行っていたが、その当時彼の研究は恐らく放医研の他のどの研究者にも理解されなかったのではなかろうか。その放医研在職中の業績は「放医研二十年史」にまとめられている。辞職後はブラウン大学、テキサス大学ヒューストン校を経て現在ペンシルバニア大学分子進化研究所長の要職にある。その間に平成14年度第18回国際生物学賞を受賞されている。

そこで次のようなテーマについて研究を進める方針を立てた。もっともそのとき直ちにまとまったわけでなく、その時そのとき現れた問題の解決策を考案しながらまとめて行った結果である。取り上げた研究テーマは次の3つである。

1. 遺伝リスクとしての遺伝性疾患

2. 倍加線量法の開発

3. 放射線量と疾患発生頻度
アプローチの方法としては、

1) 文献調査研究

2) 日本人類遺伝学会等でお会いした医学研究の諸先生との共同研究

の形をとった。以後退官までの25年間、掲げた課題のごく一部しか研究できなかったが、「放射線の人体に対する遺伝的影響はみつからない」という結果を得た。

国研の研究者は当然ながら行政サイドから要請される「特別研究課題」(特研)についての「答え」を出すべきである。このことは研究者に興味があろうがなかろうが課題を取り上げる際、第一義的に考えなければならないことであろう。大学の研究者との違いである。放医研ではこの点が比較的曖昧で、国際雑誌に論文を発表することが「結果としての最優先」課題とされていた節がある。これは研究者として最も望ましいことであろうが、社会的要請に対応する心構えもいる。その際、行政課題立案側と課題実行側との意思疎通がすっきりしていたかどうか、ケースバイケースであろうが、見直してみる必要があろう。したがって研究評価もそれぞれに対応した評価があるべきであろう。
遺伝研究部の最初の特研は仲尾義雄初代遺伝研究部長が行ったいわゆる「線引き」でショウジョウバエへの低線量急照射実験である。約53万本の雄X染色体を調べ、8レントゲン以上の線量で致死突然変異率が直線的に比例して増加することを明らかにした。しかし何故か報告論文(Shiomi T Inagaki E, Inagaki H & Nakao Y, 1963. J Rad Res 4: 105-110) には当時の国連報告(1958)で重要課題として取り上げられていた倍加線量についてはまったく触れていない。発表論文のデータからほぼ30レントゲンであることが容易に得られたのに!これは国連報告(1958)の推定値30レントゲンと一致するが、低線量で確認したことに大きな意義があったのである。放射線の遺伝的危険度の推定という観点が万全でなかったとしか言いようがない。しかし、この低線量域での調査研究は群を抜いており、学部レベルの教科書にTimofeeff-Ressovsky et al.(1935), Spencer WP & Stern C(1948)と共に引用されている(Bodmer F & Cavali-Sforza LL, 1976. Genetics, Evolution and Man, WH Freeman and Company, p.172)。

当時の研究ノートをみると、Radiation Human Geneticsとして何をするべきか次のメモがあった。研究方法 1. 倍加線量法—放射線リスク推定の間接法。2. 疫学データの収集—古庄敏行博士との協力。3. 関連文献の収集 対象集団 1.被爆者集団—ヒロシマ、ナガサキ。 a. 職業被曝集団。 b. 医療被曝集団。c. 比較的高レベル放射線の地域の集団。研究課題の大項目は漠然としており具体的に何をどう研究するか、当時は暗中模索の状況であった。具体的には研究補助員1名と経常研究費でのスタートとなった。幸いにも私の再入所と同時に放医研にも電算機TOSBAC3400モデル31DACオンライン・システムが導入され、コンピュータ使用料を経常研究費から支出する必要が無くなったのには有難かった。研究場所は第二研究棟2階一番奥の机、椅子、書棚それに黒板のある遺伝研究部遺伝第二研究室であった。