第26回 スタンフォード大学でのポストドグI(01/12/2006)

9. スタンフォード大学でのポストドグI.

昭和43年(1968)は東京で国際遺伝学会があり、多くの内外の友人知人と会う機会でもあった。 ウイスコンシン大学での友人Dr. Barrai Italoと再会を果たしたのもうれしかったが、彼のボスProf. Cavalli-Sforza LLとお話をする機会を持てたのは特記すべき幸運であった。カヴァリ博士はその当時すでに木村資生先生と近親婚の確率についての共同研究をイタリーで行っており、私が木村先生の研究室で仕事をしている旨を告げると、それはEXCELLENT!だと言ってくれた。お会いした時点で、私はカヴァリ博士がProf Lederberg Jと共同でバクテリアのconjugationの研究を行い、C因子(プラズミッドの一つ)なるものをすでに発見していたことなど全く知らなかった。お会いした頃はイタリーで人類集団遺伝の調査研究を行っており、ヒトの多様性を遺伝と文化の両面から捉える研究をされていた。特にヒトにみられる遺伝的多様性を遺伝的浮動によるのか、さらに文化の影響があるのかを淘汰によるのかを近親婚の調査などを含めて判別する方法を模索していた。
国際会議やハワイでの電算機シンポジウムも終わった頃にDr. Italoさんから手紙がとどき、WHO(世界保健機構)のHuman GeneticsのUnit Chiefになったのだが、ついては君に手助けしてもらえないだろうか、仕事は研究費の配分や研究会の開催などの事務が主であるが、多くの人と知り合いになるのは将来、研究を進める上で必ずやプラスになる筈だとあった。木村先生に相談したところ、君は研究を続けた方がよいよ、との一言。私は英語がうまくないから事務は勤まらないだろうと返事をしたところ、折り返し返事がきて、残念だけどもそれなら、カヴァリ博士がスタンフォード大学にいるから、WHOのtraining grantで1年間ポストドクを経験したらどうか、ときた。 早速、Prof Dr Cavalli-Sforza LLに手紙を書いたところ、快諾する旨の返事があった。この話があってまもなく千葉の放医研に移る話が急に持ち上がり、放医研の中井 斌遺伝部長にあらかじめこの話を伝え1年間の海外出張をすることの承諾を頂戴した。
昭和44年10月1日付で、千葉市稲毛の放射線医学総合研究所に出向した。いわゆる「出戻り」である。実は定年退官後にも「出戻り」で遺伝研に三回目の勤務をしたので、妙な運まかせの人生を送ったことになる。当時、遺伝研究部は創設以来の2「研究室体制で、私は第二研究室の室長という待遇であった。第一研究室は私の着任後しばらくして溝渕 潔さんがやってきた。細菌に興味があり生化学に滅法強い御仁であった。彼は後に東京大学へ出向し、その後第一研究室長のポストには佐藤弘毅さんが着任した。

1971(昭和46年)9月1日にスタンフォード大学医学部遺伝学教室でカヴァリー・スフォルツア教授にお会いした。すでに東京でお会いしていたので初対面ではなかったが、大きな教授室のほぼ真ん中の机に座っておられ、よく来たと大きな手と握手した。四面の壁に扉の部分を除き、数段の書棚が机をとり囲むように並べられていた。棚には著者のイニシアル順に蔵書が並べてあり、若干の余裕はあったようだが、バクテリアから人類集団についての遺伝のみならず文化に関する蔵書が混ざり合ってぎっしりと並んでいたのは圧巻であった。一年間の滞在では教授の多岐にわたる知識と関心を理解するにはとても出来ない事を実感した。廊下を隔てた一研究室に案内してくれたが、そこにはDr. KK KiddポストドクとMr. M Skolnik院生がすでに陣取っていた。統合失調症の遺伝疫学を研究しているとキッド氏はその内容を分かりやすく話してくれた。後にイエール大学の教授となり、カヴァリー・スフォルツア教授と共にヒト多様性の集団研究で知られるようになった人で、スタンフォードでは奥さんのjuddyさんがカヴァリ博士の秘書であった。スコールニックさんは後に制限酵素断片長多型をマーカーとするPIC(優性疾患のマーカー情報量)の工夫や乳がん遺伝子BRAC1の発見で成功し、著名人の一人となった。

教授と若干の話し合いをして、姓氏の研究をすることになった。姓氏は父系性社会ではY 連鎖の様式で遺伝する。慣習が一つの遺伝様式を模擬したもので、姓氏を定める遺伝子がY 染色体上にあるわけではない。遺伝疫学の方法ではしばしばこのような結果が得られることがあり、たとえばゲノムマーカーを用いて疾患の原因遺伝子を分割表で求めることが安易に行われる風潮があるが、物理化学的に同定することが必須である。すでにイタリーの北部パロマ谷の集落について教会の記録を用いて調べてあるとのことで、それを使わせてもらうことになった。いくつか興味あるテーマがあるなかで、第一には姓氏の度数分布についてのモデルの提唱がある。これには数学的に扱い易い理論度数分布を探してそれを観察度数分布とよく適合したものでなければならない。第二には姓氏を用いて近親婚頻度を求める工夫である。 カソリック教会の結婚についての一つのルールとして、近親(結)婚は禁じている。しかし「例外のない規則はない」と言うが、教会も赦免状を出して近親婚の許可をだす慣習があったと言う。生まれた子どもの姓氏は父親の姓氏を受け継ぎ、男子は一生その姓を変えないが、女子は結婚することで花婿の姓に変わる、と単純化する。もちろんこれは父系性社会でのモデルであり、母系性の社会では男子が姓を変え、女子は変えない。例外に養子、棄児、改名など「姓氏の突然変異」?があるが、当面は考えない。このルールを近親婚の一つ「いとこ婚」で調べてみよう。いとこはきょうだいの子どもの関係であるから、いとこの家系を調べていくと、4つのタイプがあることがわかる。きょうだいが兄弟、きょうだいが姉妹、きょうだいが異性(姉弟と兄妹)の関係に気がつくであろう。いまいとこ婚に注目しているから、取り上げているいとこは互いに異性である。したがってきょうだいが異性であることといとこが異性であることとを組み合わせると4通りのタイプが考えられる。男子を■、女子を○で表して家系図を描いてみるとよい。前述のルールに従えば兄弟それぞれの子ども、いとこの姓氏は同じであるが、他の3つのタイプのいとこの姓氏は違う。つまりいとこ婚の1/4が同姓(結)婚なのである。このことから、一般に同姓婚の1/4が近親婚と推定できるだろうか。親子は理論的には1/2が同姓で1/4とはならないが、近親相姦で社会通念上タブーであるから無視できよう。そのほか若干の血縁関係にある男女で同姓婚の頻度が1/4とならない場合があるが、通常の社会システムではそのような近親婚は起こらないと考えてもよいであろう。ただ血縁関係がないと思われる男女が偶然同姓婚となることがあるので、その補正をする必要がある。日本では佐藤、鈴木といった姓氏は非常に多い。日本の代表値としては0.2パーセント(神崎 貢 1954, Yasuda N, 1983: Human Biology 55(2), 263-276)という値が得られている。このアイデアは国立公衆衛生院の神崎 貢さんが世界で最初に発表したのだ(神崎 貢 1954. 婚姻同姓率. 生物統計学雑誌 2: 292-298)が、集団遺伝学の理論と結びつけたCrow JF & Mange AP. 1965. Eugenic Quaternary 12: 199-203. の発表の11年前のことである。メンデルの法則の再発見ほどの興奮はもちろんなかったが、神崎さんの論文を東京大学の人類学教室の図書室で発見したときの気持は「えー!?」と感無量であった。学問の進展の一こまを身近に見たようで、研究の楽しさのまた違った一面を垣間見ることができた。彼の論文の概略は前述のHuman Biologyで紹介し、Crow JF先生に原著共共コピーを差し上げた。後にラボにいた日本人研究者に訳してもらい読了したとのお手紙をいただいた。クロー先生もびっくりされた様子であった。
スタンフォードでの研究は主として姓氏の分布をテーマに研究を行った。当然電子計算機を利用することになるので、ACMEというMedical Schoolで使用していたIBM/50や MyLBUR(FORTRAN, PL1, BASIC)IBM 360/67電算機システムの講習を受けた。 若いプログラマー(Ms juliana Hawng)が丁寧に説明してくれたのが大変有難かった。私の使用言語はもっぱらFORTRANであった。これについては次回で述べる。
大学からさほど遠くないMenlo Parkに下宿した。さほど遠くないといっても歩けば30分は優に掛かる距離である。下宿探しではカヴァリ教授のテクニシャンMs Luise Wangにずいぶんとお世話になった。車をだしてくれて、入居の手続きなどすべてセットアップして頂いた。本当にお世話になりました!下宿は離れの一間で、研究で夜遅くなったときは窓から入ったりしたこともある。大学のキャンパスは広く、セミナーや講義に出席するにも大変なので自転車を買うことにした。もちろん、自転車で大学に通った。 WangさんはときにはRedwood cityの自宅に呼んでくれて、食事などリラックスする機会を作ってくれたことが記憶に残っている。またサンフランシスコの中華街で「イヌの肉」を知らずにご馳走になり、食後に気分はどうといわれてキョトンとしたこともあった。実はねと後で聞かされ、なんとなく身体がぽかぽかしたように思えたのもなつかしい思い出である。その後もしばしば台湾製の油濃いラーメンを中華街で求めてきてくれ、私は夜食によく食べたものである。
英語のスピーチをポリシュしようと思い、大学の外国人留学生センターに登録しておいたところ、Dr. Rose Payne先生から電話が掛かってきた。先生は白血球抗原HLAの最初の発見者の一人で、もう一人はフランスのノーベル医学賞を受賞したDr. J Daussetである。木村先生と共著のABO-like血液型の遺伝子頻度を計算する論文(Yasuda N & Kimura M, 1968. Ann Hum Genet 31:409-420)を手許に置いておられて、これは君の論文かと尋ねられた。そうだというと、立ち上がり握手を求められて、これだけの文章が書けるならいまさら英語の練習でもないでしょうといわれてしまった。実を言うと、論文の下書きは木村先生が書かれたのであって私ではなかった。いまさら内輪のことを話すわけにもいかず、書くこととしゃべることは別であるとブロークン英語で懸命に話した。そのうちそうですかということになり、それでは毎週適宜時間の取れるときにお喋りしましょうということになった。 研究者として遇してくれたのであろうか。 やっぱり論文は書けるときに書いて置くものである。この論文は当時都立大学の大羽 滋教授から依頼されたクロショウジョウバエのエステラーゼ多型のデータ分析から思いついたものである。 電気泳動による多数のバンドのほか‘ヌル’と呼ぶバンドの無いハエが見つかることから、1座位にO、A、B、C、D,…の複対立遺伝子が存在するモデルと、AとO、BとO、CとO、….とバンドの数だけ遺伝子座がエステラーゼに関与しているのか、あるいは両者が混ざったモデルなのかを、ベルンスタインがABO血液型を一遺伝子座の3複対立遺伝子の遺伝様式であることを統計遺伝学の方法で示したことを任意の数の複対立遺伝子に拡張して分析したものである。その結果は1座位複対立遺伝子モデルがデータによく適合した。当然ながらその当時はHLAについては全く無知で、Dr. Rose PayneからHLA抗原遺伝子頻度の計算にそのまま使えることを指摘されて、うれしいやら不勉強この上ないやらでかなりのショックであった。その後、肝心の英語のスピーチはPayne先生には申し訳ないがさっぱり磨きがかかることはなかった。 むしろHLAの基礎をご教授いただいたことのほうが印象深い。帰国後、また一つの領域が私の研究活動に加わることになった。
Ph Dをとる勉強とポストドクの勉強とでは雲泥の差がある。前者は興味があろうがなかろうが、試験にパスすることが必要であるが、後者は興味がなくともかなりの分野についてのトピックスの基礎をしっかり自ら身に着けていないと、長い目でみると結局は落伍してしまう(必要十分!)。そのプロセスの本質は数学のテキストを読むのと同値である。公理、定義や定理をしっかり把握しておかないと、理解不十分というゴミが溜まってその先どんなに読み返しても理解できない壁にぶつかる。 最初に戻って見落としたゴミを除くしかない。数学は先人が立派なテキストを残してくれているからこういうアプローチができるのである。考えようによっては淘汰が掛かるのがよくわかる。人類遺伝学にはそのような完全なテキストはないようで自分で作るしかないのではないか。用語一つにしてもしっかり定義されていないことが多い。私なりに思うのは、セミナーに出席して、新しい情報に対して常にアンテナを張り、わからないことがあれば質問することである。セミナーは演者と聴衆らの知識の交換所であり、確かめる機会でもある。質問はスピーカーにも聴衆にも理解を深める手っ取り早い手段で、知らないこと、できないこと、わからないことをお互いに共有することができる。勉強していなければ質問はできない。質問しなければ勉強は進まない。取り残されるだけである。
Dr. W Bodmerにお会いした。聞くところによると、昨年までカヴァリ博士とスタンフォードで共同研究を行っていたとのこと。シンポジウムに出席しての帰りとか。私の学位論文の査読をしていただいたことでお礼を申し上げた。寡黙な人である。もっとも私の英語がぶっきらぼうであったせいかもしれないが。私の滞在中にCavalli-Sforza & Bodmer(1971):The Genetics of Human Population, Freemanが出版された。これは読みやすいわかりやすく、今でもペーパーバックに改版されて広く読まれている名著である。その後Bodmer & Cavalli-Sforza(1976): Genetics, Evolution, and Man. San Francisco, Freemanもでた。この本には私が実験計画で関与した放医研の低線量特研(弧愁:第3回)の結果が紹介されている。