第29回 共同研究の諸先生 1(08/23/2007)

共同研究の諸先生 1.

昭和54年頃はメンデル性疾患について家系データ、主に両親と子どもの核家族のセットの分離比分析を行っていた。結果的にはモートン先生が開発した分離比分析の実用化でしかなかったが、当時はまだ電算機もそれ程普及しておらず、分離比分析のモデルの解説とその実用化に励んでいた。デュシャンヌ型筋ジストロフィー症についてはカルテからのデータ収集は一部自分で行ったが、聾のデータを当時東京医科歯科大学難治疾患研究所人類遺伝学部の古庄敏行先生から提供していただいた。その他、順天堂大学眼科の中島章教授から多くの眼疾患のデータを分析する機会を得た。昭和56年頃からであったろうか、東京医科歯科大学難治疾患研究所人類遺伝学教室の笹月健彦教授とその教室員の先生方とのHLAと疾病の関連の統計遺伝学的な実りある共同研究が行えたことも忘れることができない。

古庄敏行先生:5年間におよぶ留学を終えて三島の遺伝研に就職したとき、木村資生先生から紹介していただき、放医研を定年退職するまでの28年間、データの集め方、扱い方、解釈の仕方などについて随分お世話になった。とりわけ、聾の遺伝子頻度と遺伝子座位数の推定にあたり、すでにモートンのグループが0.002および6±1という数値を白人でだしていたのが、日本人では0.0035と36±12と、座位数のオーダーが1桁違ったときの議論が忘れられない。この数値についてはハワイ大学疫学部教授CS Chungも2桁のオーダーではないかと言っておられた記憶があった。CS Chung教授はポストドクでモートン先生に師事し、聾の仕事はモートン先生との共同研究であった。古庄先生はあくまでこれは数値であり、36と6にはその差を取り上げるほどの意味がないと主張された。もちろん私が行った計算はモートン先生の方法によっている。私は標準誤差を考えたら有意差はあるのではと主張したが、論文(Furusho T & Yasuda N, 1973. Jap J Hum Genet 18(1):47-65)では結局、淡々と事実を記載するに止まった。古庄先生はおそらくデータの集めるプロセスを考えると、座位数の計算モデルはあくまでものデータのまとめ方の一表現法に過ぎず、聾の遺伝分析の本質から離れていると考えられたのであろう。ヒトゲノムの概要配列が読み取られた今日、ゲノムの聾に関与する遺伝子座数は100に近いといわれている。分析に際しての因子としての遺伝子と遺伝子DNAの違いをまざまざと見せ付けられた思いをしている。古庄先生はデータを介して統計遺伝学的アプローチの限界を直観として把握されていたのであろう。
この他isonymyの仕事も古庄先生からのデータの提供があってはじめて論文が書けた。近親婚のことでは、特に沖縄で、いとこ婚は比較的少ないがまたいとこ婚が多いのは当地でいとこはきょうだいとみなす習慣がある、という話も私の耳に残っている。先生が鹿児島大学に赴任されていたおり、何度か研究打ち合わせの機会を作っていただき、研究打ち合わせのほか、九州最南端の佐多岬や桜島を訪ねたことも、今となっては思い出の一つである。

辻公美先生:がんセンターの平山 雄先生の紹介でHLAの研究班に入れていただいたのがきっかけであったと思う。東海大学医学部外科移植学教室の教授で、当時移植の際の組織適合性HLAの遺伝について共同研究者を探していた。伊勢原に最初お邪魔したとき、広々とした野原に大きなお城のごとき建物(大学!) が小田急電車の窓から見えたときは、正直言ってびっくりした。外科の先生との共同研究はもちろん始めての体験であった。最初のデスカッションは遺伝学ではなくcorrected Pの話であった。これはBonferroniの補正といって、多重検定の際に行う有意水準Pの補正のことである。実のところ私もその時まで知らなかった!それまでお目にかかっていた統計データはそれだけを分析して有意性を導き出す一回検定である。ところがHLAの型判定では一セットのデータについて何種類もの抗体を用いて型判定をしているのである。患者群と対照群で特定の疾患と抗原の関連を調べる症例対照法を用いて疾患とHLA抗原の関連を探そうというのが問題である。当時はHLAと疾患の関連は連鎖不平衡が原因である、という考えはぼんやりしており、むしろHLAと疾患が密に連鎖しているのが原因であると漠然と考えられていた。ただしHLA座位間の連鎖不平衡は盛んに求められており、HLAハプロタイプの計算に使われていた。ちなみにハプロタイプという用語はHLAの人(イタリア人のチェペリーニ)の造語であったと記憶している。ハプロタイプについてはいくつか記憶している仕事がある。任意個の座位それぞれに優性遺伝子(抗原+)と劣性遺伝子(抗原-)がある場合のハプロタイプ頻度の解析的な公式を求めることに成功した(Yasuda N, 1978. Tissue Antigens 12:315-322)。また一座位に任意個の優劣関係のない対立遺伝子とそれらに対して完全劣性の対立遺伝子があるときの個々の対立遺伝子頻度を求める公式を工夫することができた(Yasuda N, 1984. Jpn J Human Genet 29:371-380)。この公式は抗原が2つの場合はABO式血液型のデータに適用でき、従来推定計算に使わなかったAB型のデータも含めて計算する公式が得られた。このような工夫はそれほど声を大にしていう程までもないが、マイナーとはいえ独立に新しい工夫ができたことは自分なりにうれしく思う。
さてHLAと疾患の関連についての有意性検定であるが、辻先生の質問はP値(有意水準)を個々の抗原で計算したα値に同時に調査した抗体の数nをかけるのは何故かというのである。1回の有意性検定では、第1種の誤り(言い過ぎる誤り)の確率αを0.05とすることはよく知られている。これは別の見方をすると20回同じ調査を繰り返したら1回は有意な結果が出てもおかしくない、つまり統計的に期待しているのである。たとえばHLA-B座位の抗原80について与えられた症例・対照群について有意性の検定をすると、無作為の4抗原については有意となることが期待されるのである。そこで、80抗原について有意でない確率を1-Pとすると、有意水準をαの個々の抗原は種類(n)がおおければ独立であると近似すれば 1-P=(1-α)nと表すことができる。これから、抗原全体の有意水準は P=1-(1-α)n~nαと抗原数nがある程度大きれば近似的に求まる。したがってnα<0.05が多重検定のときの有意水準になる。n=80なら、特定の抗原についての有意水準はα<0.000625である。しかし80種類の抗原を同一データについて調べることが80回同じ調査を繰り返すこととは統計的に同等だということが、なかなかわかってもらえず、結局論文をみると皆やっていることだから、間違いなかろうということになってしまった。私も不勉強であった!

笹月健彦先生:スタンフォード大学のRose Payne教授の紹介で知己を得た先生で、ある日突然丁寧なお電話を頂いた。当時先生は東京医科歯科大学難冶疾患研究所人類遺伝学教室の教授で、新進気鋭の免疫遺伝学者であった。HLAと種々の「難治」疾患の関連についてheuristic ideasのシャワーを浴びせかけられて、私は裨益すること多大であった。患者同胞対法(この用語の日本語訳もこのとき初めて)逸早く導入して(Yasuda N & Sasazuki T, 1982. Jpn J Human Genet 27:295-311)、グレーブス病やスギ花粉症(Yasuda N, Muto M, Saito Y & Sasazuki T, 1987. New Approach to Genetic Diseases, Academic Press. Pp31-38)などの遺伝子疫学的方法を素早く開発した。提起される現実的な問題について、複合疾患への分離比分析の開発もいくつか行うことができた。教室員の諸先生方とも「連鎖分析」や「関連分析」について実例に則り、問題を解いて行った経験は私にとっても非常に得がたいものであった。
先生とは1981年(昭和56年9月13-18日)エルサレムで行われた第6回国際人類遺伝学会に出席した際、往復の飛行機に同乗した。このときは成田⇔マニラ⇔ドバイ⇔アテネ⇔テルアビブ往復という南周りのコースを飛んだ。この航空路はフィリッピンの石油関係の出稼ぎ労働者の定期便だとかで、事実、マニラからドバイまでは多数の若者が搭乗して来た。結構にぎやかであった。マニラとドバイは空港だけだったが、前者は武装したガードと離陸時に見た雨にぬれた大地と緑が印象的であった。ドバイには真夜中に着いたが、若者達はほとんど降りた。飛行機の給油待ちで、空港のトランジット・ルームで時間を過ごしたが、赤みがかった照明や豊富な石油による財力を思わせる大掛かりの施設と白いターバンを巻いた紳士?が目についた。ドバイを離陸したときは、機内の雰囲気は静穏になり、ほっとした記憶がある。アテネで一泊し、翌朝、オリンピック航空で無事テルアビブ着。空港の到着ロビーはかっての事件を思いださせるものは何もなく平穏そのものであった。その当時のイスラエルは私が国民学校時代に経験した空襲に対する恐れほどの軍事的脅威やテロも感じなかった。学会開催中は別行動であったが、帰りは飛行機便の都合でテルアビブのホテルに一泊。その際確か地中海でわずかであったが先生と一緒に泳いだが、海水はあまり冷たくなかった。帰りのマニラ空港でトイレを利用したあとのチップにイスラエルのコイン(シケル)を渡したら、ボーイは眼を白黒させていた、と笹月先生は笑っていた。先生にはこんなひょう軽な一面もある。
先生には渡辺格先生の「難病の宿主要因」研究班に参加する機会を設けていただき、定年退官するまで、研究テーマとそれに伴う解析データの提供、それに研究費の面でもご支援頂いた。深謝する次第である。

黒木良和先生:神奈川県こども医療センターの先生である。先天異常のモニタリング研究で、各先天異常の基準有病率の変化を検出する統計的体系を構築する目的で共同研究をおこなった。笹月健彦先生の紹介であった。
モニタリングの対象はお産の時点で観察するのであるが、生産児だけにするか死産児も含めるか、またすべての先天異常をモニターするのか、いくつかの標識先天異常をモニターするのか定める必要がある。モニタリングの規模(集団の大きさとモニタリングする先天異常の種類数)は費用と受益のバランスをどの程度にするかで定まる。健康障害の原因となる重大な異常だけでなく、通常の先天異常や多発する異常やマイナーな先天異常なども取り上げる。先天異常の原因となる催奇性物質は単独異常よりもむしろ特徴のある目に付く異常あるいはマイナー異常の組合せ(症候群)を誘発しているからである。もちろん個々の先天異常の診断基準は明確にしておく必要がある。またモニタリングする先天異常の種類数も単位(月、四半期、年など)あたりの発生数が少なくとも5以上でないと、統計処理が難しくなる。
この外にも、様々な問題がいろいろと浮かびあがった。たとえば、産科の先生と小児科の先生の境界域にある「お産」について、個々の先天異常の診断に必ずしも見解の一致しない場合があったことである。またデータの集め方で、地域の分娩数から調べる人口ベースとある技術水準と規模のある病院・産院の分娩を調べる病院・産院ベースの違いがある。前者は選択による偏りが少なく、地域の特性を反映するが一般に先天異常の把握率が少なく、診断書の記載は詳細に欠けている。後者は先天異常の把握率が高く、記載内容も詳細である。
神奈川県のデータでは個々の外表奇形(分娩時に診られる先天異常)の全出現率(=有病率)はおよそ1/1,000=0.1%であったので、統計的モニタリングの方式は次によった。

1. 個々の外表奇形の分布はポアソン分布にしたがう。
2. 第一種の過誤(有病率が有意に増えたと判定する確率)を0.1とする。

このモデルで神奈川県のデータはほぼ的確にモニタリングできたし、当時同時に進行していた大阪府の子どもモニタリングでもうまく行ったと聞いている。ところでポアソン分布のモデルで一つ興味深い事例が説明できた。それはその当時、サリドマイドによる奇形の発端になる出来事である。これまでごくまれにしか見られなかったサリドマイド奇形が実際に短い期間に続けて3例経験したある医師が警告を発していたことである。平均症例が1以下であるときのポアソン変数は、それが3になって初めて0.1を超える。これは医師の警告が妥当なものであったことと、「俗に仏の顔も三度」とかいう俚諺の統計的支持でもあろう。
さらに個々の先天異常がポアソン分布をするとき、それらの合計(神奈川県では約1%)の分布がどうなるかも気になる変量である。当然ながら、個々の先天異常の平均値(出現率)が同じなら、全体の先天異常の出現率もポアソン分布にしたがうので、個々の先天異常の出現率のモニタリングと同じようにすればよい。しかし実際には、個々の先天異常の出現率は違う。そのとき先天異常全体の出現率は負の二項分布にしたがうことが理論的に導かれる。この分布はパラメータが2つあるが、それらの医学的意味の解釈が難しいこと、その推定も収集されるデータの精度を考えると、意味のある推定値かどうか不安であった。モニタリングの目標は個々の先天異常の監視が主体であると考え、この方向の解析は取りやめにした。
以上は厚生省のモニタリング研究班の報告書にまとめておいたが、論文としてまとめることはしなかった。統計的手法が、実際のお役に立ったのはうれしいことであったが、今となると一つぐらい論文にまとめておけばよかったかなとも思う。それでもこの経験は後の国際放射線防護委員会の「多因子性疾患のリスク推定」の作業部会に参加したとき、たいへん役にたった。とりわけその時、ハンガリーのDr. AE CzeizelとDr. G. Tusnadyと討論する機会を持ち、またハンガリーのブタペストの病院を視察できたことにもつながった。不思議に思うことは、特にある方向に仕事を進めようというつもりがないのに、結果としてはつながってしまったことがよくあった。もっともこれは済んだ過去のことを自分なりに正当化しようとしているのかも知れない。

鈴木友和先生:難病の宿主要因班の班長で当時は別府にある九州大学生体防御研究所の所長をされていた。九州のA市に見られるアミロイドーシスの調査にこの先生ともう一人のドクターと行った経験が印象的である。カルテや戸籍調査はすでに千葉での筋ジストロフィー症の調査を経験していたので、それほど目新しくなかったが、症例の診断や治療の実際を眼のあたりにしたり、アミロイドーシスがハンチントン病とともに突然変異へテロ接合とホモ接合での症状は同じである優性遺伝病であることなどが印象深い。当時、優性遺伝病はほとんどが正常対立遺伝子とヘテロ接合で、優性突然変異遺伝子のホモ接合は死んでしまうといわれていた。研究班の班会議も次第に分子レベルの話が必ず出てくるようになり、化学的知識をいやおうなしに増やさなければ、研究班の諸先生方の発表にもついていけないようになった。いわゆる遺伝疫学も統計的方法をそのような事実や知見に基づいてモデルを考えなければならないことが次第に明らかになって来たのである。鈴木友和先生は私の発表についても常に勇気付けるコメントをいただいた。今でも毎年、年賀状をいただいている。

浜口秀夫先生: 筑波大学基礎医学系人類遺伝医学の教授で、鈴木先生の研究班で「高脂血症」のデータ分析で共同研究を行った。アポEという単因子遺伝子マーカーと高脂血症という複合疾患の関連を調べた研究で、この方面ではわが国で最先端を行く研究であった。2座位間のハプロタイプ頻度の計算や、高脂血症とアポEの連鎖不平衡値の評価を行った記憶がある。アポEも血中の脂質濃度のどちらもが量的形質であるので、独特の分析法の開発が要請された。
当時、浜口先生は尾本恵市先生、中嶋八良先生、岡嶋道夫先生などと共に御茶ノ水の医科歯科大学の難治疾患研で何度か定期的に集まり、日本人類遺伝学会誌の枠組み、内容の改定などについて話し合いを持った。Jap J …がJpn J…と変わったのもこの後であったと記憶している。ブラジルで知己をえた Professor Ademar & Dertia Freire-Maia夫妻が日本学術振興会のグラントで私を訪ねてきたのもこの頃で、私は筑波にも案内して浜口先生のお世話になった。つくば市がブラジルの首都ブラジリアと同じく、人工的に計画され短い期間に作られた都市だということでアデマール夫妻は関心をもったようである。