第31回 放医研での遺伝性リスクの調査研究(09/28/2007)

放医研での遺伝性リスクの調査研究.

放射線医学総合研究所(放医研)での遺伝研究部の研究業務は「放射線のヒトへの遺伝性影響」であると私は理解していた。より具体的に言うと、広島・長崎の原爆被爆生存者に生まれた子どもや孫に放射線の遺伝影響があるのかどうかを明らかにすることである。長年に亘るこの調査研究は広島・長崎のABCC-放射線影響研究所で行われ、被爆線量と遺伝性影響の大きさの関係を新生児から熟年者までの調査で統計的に有意な効果はみつからないという結果が今日でている。

それでは「放医研で何を調査研究するのか、したのか」ということが課題になる。私が放医研に入所した昭和33年(1958)には奇しくも国際連合科学委員会の第1次総括報告書が採択され、原水爆実験のフォールアウトの遺伝的危険が強調された。まさに未知の恐怖に人類は恐れ慄いたのである。放医研設立のきっかけは焼津の漁船「第五福竜丸」が昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で米国が行った水爆実験によるフォールアウトを被ったのが引き金となったと私は理解している。漁師の久保山愛吉さんが死の灰を被り死亡した。それに水揚げしたマグロは被爆により放射性物質が体内に蓄積し放射線をだす始末で、すべて廃棄する羽目に至った。雨が降ると外出を避け濡れないない工夫をするなど、当時は皆本当にに恐れ慄いたのである。

このような社会的状況を背景に、遺伝研究部が最初に行った特別調査研究は遺伝実験でよく使われるショウジョウバエにガンマ線を照射して生殖細胞(精原細胞)の突然変異率がどう変化(増加)するかについてであった。いわゆる「線引き」実験で、放医研の放射線影響実験の原型となり、今日でも基本的にはこのパターンに様々な修正を加へて行われている。その規模は53万本の雄X 染色体を調べたものである。この大規模実験の遺伝リスク評価への寄与は幾つかあるが、放射線量と突然変異率は直線関係にあること、倍加線量DDがほぼ0.3グレイであることが確かめられている。当時は放射線の急照射と緩照射による突然変異率の違いは知られていなかったので、その補正をすると今日受け入れられている緩照射での1グレイに相当する。

次に行った「特別研究」は昭和48年(1973)にスタートした特別研究「低レベル放射線の人体に及ぼす危険度」の遺伝担当で10ヵ年計画であった。遺伝研究部が担当したのは「放射線による遺伝障害の危険度の推定に関する研究」だある。この研究のポイントは(1)霊長類の実験系としてヒトへのリスクへの外挿するに有用なデータを備える、(2)細胞レベルで遺伝子突然変異、染色体異常を検出することによって低線量(5ラド)の遺伝障害を定量化しようと試みる、ことなどである。私はこの特別研究には関与しなかった。既にヒトの遺伝について研究していたからであり、生物実験に馴染みの少ない私は異端な存在であったようだ。当時の遺伝研究部の様子からみると、「遺伝リスク研究は基礎が大事」に目が向けられ、その成果をヒト遺伝障害とどう結びつけるかについてはあまり議論がなかった。当時の中井斌部長は実験にヒトに近いサルを用いることでこのギャップを埋めようとしたのかも知れない。一つには遺伝研究部の研究がショウジョウバエや酵母などの小さい生物で行なわれていることで、その成果が人間の放射線障害とどう関わりがあるのかを問われたため、それなら人では実験できないがそれに近いサルでやろう、ということになったようだ。そこで、カニクイザルを使用する話が決まり、霊長類実験棟を作るなどで、筑波の霊長研の当時所長であった本庄重男先生や寺尾恵治研究員と知己を得ることになったのは思いがけないことであった。

今日のようにゲノム解析が進展した時代ではショウジョウバエや酵母、バクテリアなどで見つかった遺伝現象の多くがヒトでも確認されているが、当時は知る由もない。諸生物の進化上のつながりを風評程度の理解で済ましていた気配がある。当時欠けていたことはショウジョウバエなどで成果をヒトでの放射線障害の評価にどう結びつけるかを、真剣に検討討論しなかった。また、当時の放医研の研究員に流布していた「基礎研究が大事」という考えには間違いではなかったのだが、放医研は行政機関(科学技術庁)の付属(調査)研究所であり、大学付置研究所ではなかったことも、研究の考え方の上で研究員と霞ヶ関の間にずれがあったのではなかろうか。最も研究者が直接評価されるのは論文の質と量であることは世の常である。それらは学会で評価される。部長さんは行政と研究の狭間で苦労されたのであろう。

当時の私も放射線の遺伝影響あるいはリスクについての考えは漠然としていたし、この特別研究が目標とする「放射線の人体に対する遺伝影響」に果たして該当して実行可能な研究は何であろうかと思い悩んだのも確かである。もっとも私自身、放射線の遺伝影響を調査研究するのに、調査研究可能な思考モデルすら浮かばなかったからである。人類遺伝の研究をしていたから、研究業務を真面目に実行していたとは思えない。

国連の1958年報告でいう遺伝リスクはMuller HJがいう遺伝障害genetic damageであり、これは集団がある条件で平衡状態ならゲノムあたりの総突然変異率の2倍だという仮説が一般に受け入れられていた。したがって放射線被ばくを受けた集団は(ゲノムあたりの)突然変異率が上昇すれば遺伝障害もそれに比例して増えるというモデルが必然的に演繹される。したがって、モデル生物実験で放射線誘発突然変異率を求めれば、それで遺伝的危険は評価できるではないか?と暗黙のうちに受け入れていたとしか考えられない。事実はそれほど簡単なことではなかったのである。

放射線による遺伝リスクに関する資料は数年置きに出た「国連科学委員会報告書(UNSCAR 1958,1962,1966,1972,1977,1982,1986,1988,1993,2001)」、何年かに置きの「アメリカ学士院報告書(BEAR-BEIR)」と「国際放射線防護委員会報告書(ICRP)」、それに米国学士院(NAS)が設立した広島・長崎の「原爆傷害調査委員会 (ABCC)、後に放射線影響研究所(RERF)の調査研究報告書」を主体とした厖大な報告書、論文やデータが放射線医学総合研究所の図書室に集積しつつあった。この中から遺伝リスクに関する資料を抜き出すにしても、確かな作業仮説がなければ手の施しようがない。遺伝リスクに関する何か手掛りをと、まずABCC資料を調べたが、これは被爆生存者とその子どものデータで、被爆線量健康障害についてのデータソースであることが分かった。生物実験での実測値に相当するわけである。そうすると実測値を説明する期待値を考えればよい。それには適切なモデルを考えてそのモデルに表れるパラメータを生物実験から推測すれば、実測値と期待値を比較してモデルの妥当性が検討できるのではないか!

そこで始めたのがUNSCARレポートの遺伝報告を読むことであった。そこで気付いたいことは、Genetic EffectsとHereditary Effectsの二つの用語が使われているのである。日本語訳はどちらも遺伝影響である。最初のうちはこの区別は気にもしなかったが、結局、Geneticは遺伝的、Hereditaryは遺伝性、特に区別必要のない場合は遺伝と訳すことにした。Geneticは個体発生の遺伝学であり、主に体細胞がその主役である。

Hereditaryは親から子どもに伝達する(あるいは子どもが親から継承する)遺伝子の動態についての遺伝学で、その主役は生殖細胞である。この二つの区別を特に強調しないときは遺伝とすればよいであろう。放射線の遺伝リスクは被ばく者の子どもさらには孫と後世代への影響をさすのであるから、これは遺伝性影響である(後に放医研では継世代影響という用語が使われた)。ひばく者が晩年になって発症する疾患、とくにがんは遺伝的影響で、放射線の身体的影響として別のカテゴリーで報告されているのもこれで納得した。

以後、遺伝性影響の資料を読むことにした。そのうちこれは重要と思われる資料は勉強を兼ねて翻訳した。翻訳は手間が掛かるが、分からないところは調べることになるし、読むだけより分かり易い文章を工夫し、パソコンに打ち込むため指も使うので、理解が進むような気がした。なによりも終わった後で翻訳文が残るので、仕事をしたという実感が残るのがうれしかった。その後、放医研でUNSCEAR報告の翻訳作業が本格化して、何回か「遺伝性影響」の項を担当した。この作業は定年後も続いた(放射線の遺伝的影響、独立行政法人 放射線医学総合建久所監訳、2003.㈱実業公報社)。

同時進行でBEAR(1956)、BEIR-1(1972)、BEIR-III(1980)、BEIR-V(1990)、BEIR-VII2 (2005)それにICRP(1928,1934,1955,1959,1966,1977a,b,1985,1991,2007?)の遺伝性リスクの項にも丁寧に眼を通した。

1984年に放医研に総括安全解析研究官組織が発足し、放射線健康リスク評価研究が始まった。しかしこれは主に環境因子によるリスク研究で、遺伝のことは無関心ではなかったかも知れないが全く手をつけなかった。放射線リスク評価にしても調査研究を可能とする骨格すら示されなかったのには失望した。

その頃であったか、何年であったか忘れてしまったが、松平寛通先生が所長になられたのが1988年なので、それ以後であったと思うがKrishnaswami Sankaranarayanan教授(サンカラさん)が放医研に来られた。お名前はその頃のUNSCARの遺伝性影響の項をまとめられておられたことで知っていたが、直接お会いしたのはこの時が始めてであった。先生はショウジョウバエ実験集団遺伝学の泰斗であったProf Theodosius Dobzhansky に実験放射線集団遺伝学のトレーニングを受け(1960年初期)、訪日の頃はICRPの専門委員の一人であり、UNSCEARの遺伝性影響についての主査をも兼ねていた。第一研究棟3階の遺伝第4研究室にこられて、何をお互いに話したかすっかり忘れてしまったが、私の研究バックグラウンドと遺伝性リスクの調査研究についての私の考え方などを開陳したのではないか。サンカラさんは背の高いインド人のベジタリアンで、物静かに話しに耳を傾ける紳士である。住所はオランダのライデンでライデン大学の教授とのこと。話は弾んだが、別の研究室にも行かなければならないとで、そのときは別れたが、翌日再びやってきて、君ともう少し話したいという。そして、実は今度ICRPの第1専門委員会で「多因子性疾患のリスク推定」についての報告書をまとめるための課題グループを設けることになったのだが、そのメンバーの一人として参加してもらえないだろうか、集団遺伝学とコンピュータに馴染みのあるメンバーが必要なので、どうだろうかといわれた。肝心の英語力で若干の不安はあったが、良い機会と思いOKした。今考えてみると、定年まであと数年を残す年齢で、私なりに放医研での仕事をまとめることができる舞台がセットアップされたようなもので、幸運であったと思う。

1993 年の終わりにICRP課題グループはスタートしたのだが、それまでに今1度サンカラさんは水戸で原子力研究所主催の原子力安全に関するするシンポジウムにこられた。シンポジウムの内容はほとんど覚えていないが、最後の日光へのバスツアーに同行した。華厳の滝の前で撮った写真をみると、雪景色と氷柱が写っているので、時期的には冬であった。

放射線によるヒト遺伝障害:1958年のUNSCER報告書が出てからおよそ35年が経過していた。その間、放射線による遺伝障害をどうやら過大に評価したものではないかということがおぼろげながら推測されるようになっていた。往時はマラーHJ Mullerのような放射線遺伝学の大学者が提唱した作業仮説に異議を唱えるにはよほどのデータの蓄積と勇気がなければ難しい雰囲気であった。サンカラさんとこの話題に触れたとき、「放射線による遺伝性影響hereditary effectsはゼロではないが、統計的に有意にはならないのではないか」という話になった。すでに広島・長崎の被爆者の子どもたちについてのデータも被爆線量に正比例するが、これは5%水準で統計的に有意でない。実験データとヒトの遺伝性疾患の有病率のデータからこれを支持するモデルがまとまれば、この新しい仮説はマラーの(帰無)仮説に取って代わるのではないか。しかし、そのとき(1993年)サンカラさんは一寸苦笑いして、「Nori、この対立仮説が支持されるようになったら、我々は仕事のポストを失うことになる」と首をすくめた。現実は厳しい!サンカラさんはこの(2007年)半年前から、大学から自宅に移り仕事をしていると伝えてきている。自ら実証される羽目になったのである。放医研でも遺伝性リスクの調査研究は最近すっかり鳴りを潜めたと聞いている。やはり世の中は水面下で変ったのである。
遺伝性リスクは単位線量当たりのリスクで計算され、それは

      単位線量当たりのリスク=P×{1/DD}×MC×PRCF

の公式から求める。Pは遺伝性疾患の有病率、DDは倍加線量、MCは突然変異成分、PRCFは潜在的回収可能係数である。Pはヒトの遺伝性疾患の有病率で、優性、劣性,伴性、染色体性、複合疾患それぞれで求める。DDはマウス実験から求めたもので放射線誘発突然変異率が対照群の自然突然変異率の2倍になる線量のことで、1グレイという値がよく知られている。MCは突然変異成分で、突然変異率の変化に伴い有病率が変化する関係を表す係数で、いずれの相対的変化で表す。この係数も遺伝様式によって違う値をとる。複合疾患では2%以下というのが、ICRP課題グループで得た新しい価である。PRCFは潜在的回収可能係数で、これは真に生じている障害と実際に観察できる障害のギャップを埋めるために工夫された係数である。これらのパラメータを、遺伝様式や実験手法などの諸々の要因に配慮して代表値を推測する。そして単位線量当たりで、遺伝性疾患の有病率がどのくらい増えるかということで、遺伝性リスクを評価する。具体的な数値については関心のある方はICRP Publication 83「多因子性疾患のリスク推定」、日本アイソトープ協会http://www.jrias.or.jp/を参照されたい。厖大なデータを整理し活用するには一種の緊張感と忍耐力がいることが、この作業に参加して知らされた。