集団遺伝学 第3回 遺伝子プール

2 遺伝子プール

前回の講座で、生きている生物の基本単位である遺伝子についての研究の歴史のあらましを列挙した。 遺伝子の研究は大きくわけて(i)機能、(ii)物理的位置、(iii)化学構造、の三面から行われてきている。 これらの視点は遺伝子を(i)抽象的なメンデル因子、(ii)実存的な染色体上の座位、(iii)化学的なDNA構造、としてとらえている。

2.1 遺伝子、遺伝子型、表現型

エンドウマメの茎が長い、あるいは短いという個体の形質を表現型 phenotype という。 またメンデルが交雑実験で明らかにしたように、形質(表現型)は二親から伝えられた2つの因子によって決る。 これを遺伝子型 genotype といい、それぞれの因子を遺伝子 gene と呼ぶ。 違う遺伝子型が同じ表現型となることもある。 ちなみに、遺伝子 Gen(英語でgene) という用語はヨハンゼン WL Johannsen(1909) が付けたものである。

すでに自明のことであるが、遺伝子は親から子に伝えられる。 一方、遺伝子型は個体の表現型を決める。

モデル的に表わせばその流れ図は次のようになる。

          P                       遺伝子・・・>遺伝子型・・・>表現型

                                         ・

                                         ・

                                         v

          F1                    遺伝子・・・>遺伝子型・・・>表現型

                                        ・

                                        ・

                                        v

          F2                    遺伝子・・・>遺伝子型・・・>表現型

                                       ・

                                       ・

                                       v

 

ここにP、F1、F2はそれぞれ親世代、子世代、孫世代をあらわす。

もうおわかり頂けたと思うが、一個体には二親から由来した2個の遺伝子がある。 もっと詳しく説明すると、これら2つの遺伝子は特定の染色体上の特定の位置(座位 locus)にあり、対立遺伝子 allele と呼ぶ。 集団遺伝学ではしばしば、特別に区別する必要がない限り、gene, allele, locus を同じ意味で用いる。

親から由来するのは通常、遺伝子単独ではなく物理的な特定の染色体である。 ヒトでは母親から23本、父親から23本、合計46本の染色体が子どもに伝えられる(これを2倍体生物という)。 それぞれの親の23本の染色体をゲノムということがある。 二親からの2組みのゲノムには子供の表現型を決める情報が詰まっているのである。

1860年にパスツールがバクテリアで「いのちあるものは生命から生じる」という生物学の公理ともいえる原理を示したが、ゲノムにはそのいのちの情報が詰まっているのである。 コンピュータの言葉で言えば、与えられた環境で生物体の表現型を決めるメインプログラムがゲノムに組み込まれている。 これは驚くほど環境に対して弾力性のあるプログラムである。

2.2 個体と集団

岩波国語辞典第五版(892頁)によると、(1)アの項で「人間」とは社会生活をするものとしての(人格を中心に考えた)人、とある。 人間は1人で生きているのではなく、グループあるいは集団で生きているのである。 もっとも、社会生活とまで言わなくても生きているどの生物にも親がいる筈だから、生物は常に集団生活をしているとも考えられる。

特定の座位に注目すると、1個体には2つの(対立)遺伝子がある。 2つは同じであっても、違っていてもよい。 エンドウマメの例では茎の長さを決める遺伝子、長い因子(A)と短い因子(a)がある。 遺伝子型としてはAA,aaとAaが考えられるが、実際にある。 前者の2タイプはホモ接合、後者はヘテロ接合という。

数学的な集合の定義は「ある要素の集まり」とはなはだ漠然としたものである。 ある要素=遺伝子と置き換えると1個体はこれはこれで2つの遺伝子の集合を形成している。 人びとが集まればこれは集合というより集団で、この集団は一つの遺伝子の集合を形作ることになる。

この遺伝子の集合には一つの大きな特徴がある。 それは1個体の一対の遺伝子は二親から由来していることである。 すなわち、両親が交配している。 したがってここで扱う集団は、全体として一つの繁殖社会をなしている同じ種の集まりで、「メンデル集団」と呼ばれている。 このとき遺伝子の集合を「遺伝子プール」という。

お解り頂けたと思うが、ここでは染色体上の物理的な特定の位置、座位の遺伝子の集合を遺伝子プールと定義した。 本節の最初に述べたように、遺伝子の機能、位置、構造の3つの側面からみることができるから、遺伝子プールの要素としての理解はいずれからでもよい。

遺伝子プールを考えるにあたって、古典集団遺伝学では最初の2側面、機能と位置、をほぼ同一視している。 多くの場合、遺伝子プールの要素はメンデル因子であるが、それは座位であることも、一本の染色体あるいはゲノムであることもある。

分子集団遺伝学ではそれは遺伝子DNAであり、あるいはその一部の断片であり、コード領域でもその隣接配列、あるいはSTSやESTも問題の取り上げ方次第で遺伝子プールの要素と考えることができる。

重要なことは遺伝子プールの要素は「交配」により生じたという特徴である。

2.3 交配

それでは交配について若干検討してみよう。 植物では交雑、動物では交配、バクテリアでは接合、人では結婚と言い方はいろいろであるが、これはずばり言って,SEX,である。 これによって次世代の遺伝子プールが形成される。 この時、突然変異、選択(淘汰)、浮動(サンプリングによる変動)などがあって、通常は親世代とはわずかながらも違った遺伝子プールが子の世代となる。 この営みが進化の原点である。

以上の説明では交配によって子ができることを前提にしているが、これはとりもなおさず生物「種」の定義となっている。 それでは交配しても子のできない種の違う生物には遺伝子プールの考えは使えないのであろうか。

この問題については本講座ではあまり触れない。 しかしより一般的に考えると、近年日常的に行われるようになった、ヒトとマウスの細胞雑種を作ること、DNAの雑種形成、組換えDNA技術、さらにはDNAの塩基配列やタンパク質配列の比較(アライメント)等も交配とみなせよう。 アライメントはまさにコンピュータの仮想現実の方法ともいえるが、実験の出来ない進化過程を研究する一つの手がかりになろう。 生物ならアライメントのできる基本のDNAの塩基配列があるという作業仮説は興味深い。

2.4 メンデル集団の例

人はメンデル集団である。 地球上の男女のカップルは普通子どもを生むと考えられている。 大きなメンデル集団である。 実際には調査の都合である国家や民族に区分した集団を調査することがしばしばである。 これらは隔離集団のこともあるが、いずれも(部分)メンデル集団である。 さらに細かく分割することもある。 たとえば日本人を出生地の都道府県別に分ける場合がそうである。 この様に分割された部分集団の全体を考察する必要があるとき、集団に構造があるという。

集団に構造があると、子どもは必ずしも二親の属していた部分集団に属するとは限らない。 それは人の移動で起こるが、結果的に遺伝子の移動 migration である。 これも進化の一要因である。

2.5 対立遺伝子の数

メンデルが実験に用いたエンドウマメの7形質では、それぞれ2つの純系を用意したので、一座位の対立遺伝子の数は2つであった。 メンデルの法則が再発見された1900年に発見された、ヒト集団のABO血液型では対立遺伝子が3つあることを、後にベルンスタインが統計的方法で明らかにした。

一遺伝子座に2つ以上の対立遺伝子があるときこれを複対立遺伝子があるという。 モルガンらはショウジョウバエの眼の色素を決める一連の複対立遺伝子(w座位)を研究している。

ここで、複対立遺伝子は集団レベルの概念であることを注意して置きたい。 通常(2倍体の)1個体の対立遺伝子は2種類が限度である。 集団の各個体にそれぞれ違う対立遺伝子があれば集団として複対立遺伝子数が3以上になる。 したがって、実務的にいって、集団の大きさがNなら、その集団の複対立遺伝子数は最大2Nを越えることはない。

ヒトβグロビンには3つのエキソンがあり、それぞれの塩基数はほぼ150である。 したがって、450の塩基(0.45kb;1kbは1000塩基)がβグロビンというタンパク質を決定している。 正常なβグロビンを決める450の塩基はそれぞれ4種類の塩基(A,T,G,C)のうちの1つとユニークに決っているが、DNAの複製の際に他の3つのどれかに変わる。 つまり突然変異を起こすことがある。 たとえば第6コドンの第2塩基でAがTに置換すると鎌状赤血球症遺伝子となる。 このような変化が450部位で独立に起き得るとすると、考えられる対立遺伝子の数は4**450=約10**270となる(**はべき乗。emailで化けるのを恐れるのでこのような記号を使う)。 コドンの縮退を考慮したとしても可能なペプチドの数は実務的にも無限大ともいえる数である。 現実には2ヶ所以上の塩基が変化することもあるし、イントロンや5’隣接領域、3’隣接領域の突然変異もある。 それでもβグロビン遺伝子の大きさは1.6kbと小さいほうである。 大きなジストロフィン遺伝子では2400kbもある。

したがって分子集団遺伝学では(複)対立遺伝子数を無限大としたモデルが工夫されている。 これを無限アレルモデルと言うことがある。 このモデルの特徴については後ほど述べることにする。

ヒト遺伝子(遺伝子座)の数は、ミトコンドリアゲノムで37、核ゲノムでは65,000~80,000と推定されている。 (核ゲノムの)個々の遺伝子の大きさは、もちろん大きな相違があるが、平均して10~15kbである。 これらが平均して25-30kbの間隔をおいて核ゲノムの中に散在している(Strachan & Reed,1996: Human Molecular Genetics ,BiosSci Pub ,p159)。

したがって、基本的には個々の遺伝子座毎に遺伝子プールを考えることが可能である。 我々のゲノムが恐ろしくなるほどの変異、あるいは情報のポテンシャルとして持っていることが伺われる。 この情報のポテンシャルは乗換え、交配などの生物の本質的な現象や環境の作用を通じてさらに増幅する。

「十人十色」というが、人は皆ユニークなアイデンティティを持っているといえよう。 人のための集団遺伝学を勉強しようではないか。

ここまでの演習問題は次回の講座の前に出します。 トライするのは皆様次第ですが、これまでのところの復習とチェックのつもりで気軽に試みて下さい。