155.パスツール生誕200年

ルイ・パスツールは1822年12月27日、フランス東部の町、ドールで生まれた。彼の父は、ナポレオン軍の下士官を退役したのち、皮なめし工場を開いていたが、富みを得るより、人間としていかに生きるかを大切にする理想の高い人物だった。パスツールは、高等師範学校(エコール・ノルマル)卒業後、化学者として結晶学でまず、すぐれた業績を残し、ついで発酵の研究から微生物原因説を確立した後、微生物学者として家畜のワクチンに始まり、最後に狂犬病ワクチンを開発し、パスツール研究所を創立した。

2022年は、パスツール生誕200年にあたり、フランスを初め、英国、ドイツ、デンマーク、ポーランド、フィンランド、ギリシャなどで、彼の業績をしのぶ催しが開かれている。

この稿では、パスツール研究所の創立を中心に、微生物学の父と呼ばれる彼の業績とその遺産を振り返ってみる。

 

化学者から微生物学者へ

1857年パスツールは、微生物学の原点と言われる「乳酸発酵に関する報告」という短い論文を発表した。引き続いて、ビール発酵やワイン発酵などに働く酵母が自然に発生するものでなく、増殖する微生物であるという「微生物原因説」を確立した。それまで化学者としての研究に従事していたパスツールは、ここから微生物学者として活躍することになった。

1877年には、農務大臣からの要請で家畜の重要な病気である炭疽と取り組み始めた。獣医学の領域に入って間もなく、1879年、パスツールは偶然放置していた家禽コレラ菌の毒力が低下することを見出し、弱毒ワクチンを開発した。ジェンナーの種痘は自然界に存在していた牛痘(実際にはワクチニアウイルス)を用いたものであり、家禽コレラワクチンが、人為的に開発した初のワクチンである。

これがきっかけとなって、パスツールは微生物を酸素に曝すことで弱毒化することを思いつき、1881年には炭疽菌のワクチンを開発した。その年、ロンドンで開かれた国際医学会議で、パスツールはジェンナーに敬意を表して「ワクチネーション(ワクチン接種)」という用語を用いた。彼は、この際、この用語が1849年にシャルル=パウル・ディデイが梅毒ワクチンに対して最初に用いたものということにも触れていた。1883年には同様の手段で弱毒化した豚丹毒ワクチンを開発した。

狂犬病ワクチンの開発

この頃から彼は、狂犬病のワクチンによる予防を検討し始めていた。それまで彼は病原体を「微生物」と呼んでいた。まだ、細菌の用語が普及する前である。彼は狂犬病の病原体はこれまでの微生物とは異なると感じて、「ウイルス」と呼んだ。天才の直感が働いたのであろう。

狂犬病のイヌのウイルスをウサギの脳に接種して、植え継ぎを繰り返した結果、ウサギに対する毒性が増加して潜伏期が短くなり、最後には6日間に落ち着いた。これを彼は固定ウイルスと名付けた。固定ウイルスを注射して死亡したウサギの脊髄を空気中で約二週間乾燥させると、イヌにほとんど無毒になった。そこで、このウイルスの注射から初めて、徐々に乾燥期間を短くしたウイルスを注射するという、ワクチンを開発したのである。

パスツールは、イヌでのワクチンの防御効果を確認した結果から、ヒトでも同じ効果が期待できると考えた。ヒトに接種するまでには、多くの反対があったが、1885年7月6日、パリのエコール・ノルマルのパスツール研究室に狂犬に噛まれた9歳のジョセフ・マイスターが連れてこられた事で、事態は急展開した。咬まれた傷の具合から狂犬病で死ぬ可能性が高いとみなされたことから、それまでのイヌでの実験結果に基づいて治療を試みるのは正当化されると、小児科医のジャック=ジョセフ・グランシェが判断した。エミール・ルーは強く反対したが、連続12回にわたるワクチン接種が行われ、最後に乾燥前の毒性の強いウイルスが接種された。マイスターは発病することなく無事にアルザスに帰った。

これに続いて10月16日、パスツールの故郷の村から、市長の手紙をたずさえた15歳の羊飼いジャン・バプティスト・ジュピユが連れてこられた。彼は2日前に狂犬に木靴で立ち向かってなぐり殺し、仲間の5人の少年を救い、その際に深い傷を受けた。翌日から治療が始まり、彼は助かった。

パリでは、ジュピユの治療がマイスターの場合よりも有名になっていた。マイスターの治療は夏休みの最中だったためと考えられている。ジュピユが狂犬に立ち向かった勇気ある行動に感銘を受けた彫刻家のエミール=ルイ・トリュフォは、ジュピユが犬を踏みつけている銅像を造った。これは後に、パスツール研究所の庭に置かれた。

10月26日、パスツールはフランス科学アカデミーで、マイスターとジュピユの狂犬病ワクチンによる治療についての有名な論文を発表した。パスツールの名前はまたたく間に世界中に知れ渡った。12月末までに、80人の治療が行われた。同じ頃、米国ニュージャージー州からは4名の子供が到着した。ニューヨーク・ヘラルド紙が旅費の募金を行ったもので、彼らの治療の経過は全米の新聞で報道された。数週後に無事帰国した彼らはニューヨークの知名人になっていた。各国からワクチン技術を習得するために科学者が派遣され、それぞれの国でワクチン・センターが設立された。1886年には、世界の国々から訪れた2682人がウルム街のパスツール研究室で治療を受けていた。

ウルム街の研究室と、そこに設けたクリニックでは、ウサギの脊髄からのワクチンの調製、接種、患者の経過観察など、すべてを行わなければならなかった。

 

パスツール研究所の創立

1886年1月、見知らぬ人から「国の予算ではなく寄付と国際的な基金で、パリにモデルとなる施設を建設するのが私の意図である」として、寄付がパスツールの許に送られてきた。パスツールはこの博愛主義の提案に共鳴し、3月1日、フランス科学アカデミーで講演を行った。これまでに350人を治療して、治癒しなかったのはわずか1人だったと述べた後、「これは、狂犬病の暴露後の予防の始まりである」と結論した。そして狂犬病ワクチン・センターを設立する必要を訴えた。

アカデミーはこの提案に賛同して、直ちに国際的に基金を募集する委員会を設立した。これがパスツール研究所設立の発端となった。世界中から男女を問わず、あらゆる層の人たちから寄付が寄せられた。委員会の報告書には、ロシア皇帝、ブラジル皇帝、トルコのサルタンを初め、警察官の1フラン、郵便局員の0.5フランまでが記されていた。総額2,586,680フランが集まった。土地代、建設費、3年間の研究費にあてて、なお基金として1,022,894フランが残った。

パスツールは研究所の将来像について、狂犬病センターだけでなく、感染症の研究センターと教育センターとする構想を表明した。1887年4月、政府評議会は公益団体の資格を持つ研究所として認可した。1888年11月14日にカルノー大統領出席の下、開所式が行われた。65歳11ヶ月のパスツールは「この完成した壮大な建物は、1個の石にいたるまで、寛大な思いやりの印となっている。」と挨拶した。

開放的になったパスツール研究所

研究所の企画、運営は1887年以後、体調が衰えてきたパスツールに代わって、ルーが取り仕切った。エコール・ノルマルの時代はパスツールが研究を直接監督していたが、新しい研究所では、5つの研究室のリーダーに委ねられた。ほとんどが40代またはそれ以下だった。狂犬病室は、最初の狂犬病ワクチン接種から関わってきた小児科医のグランシェ(44歳)が担当した。最年長のエミール・デュクロー(47歳)が副所長となり、微生物学全般を担当した。微生物学技術室はエミール・ルー(35歳)、応用衛生微生物学室はシャルル・シャンベラン(36歳)、形態微生物学室はエリー・メチニコフ(42歳)が、それぞれ室長となった。医療は、研究とは物理的にも組織上でも切り離された。

1895年、パスツールの死亡後、デュクローが所長となった。しかし、実際はルーとメチニコフが研究のリーダーとなっていた。年齢が若く、しかも主に民間人が研究スタッフで占められたことで、ヨーロッパとくにコッホが所長の伝染病研究所との間で協調関係が生まれた。パスツールの時代は、コッホとの間で炭疽菌の研究について激しい議論が交わされていた。パスツールは実用的な面を重視し、病原体の本体は無視してワクチンの開発に進むタイプだった。一方コッホは純粋主義から現実の問題に取り組むタイプで、炭疽の病原疫学の研究でも、純培養の重要性を主張していた。ドイツ語とフランス語での議論は誤解も生み、コッホはパスツールの炭疽ワクチンを初めほかの細菌ワクチンの信頼性を疑問視していた。狂犬病ワクチンも信用していなかった。

若手のリーダーとなって、両者の関係は改善された。たとえば、パスツール研究所でルーとエルサンは、コッホの助手のレフラーが分離したジフテリア菌から毒素を分離した。病気を起こすのが細菌そのものでなく、細菌が産生する毒素という知見に基づいて、コッホの伝染病研究所では、ベーリングと北里柴三郎がジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を用いた血清療法を開発した。ベーリングは、血清療法の臨床応用に際して大量の抗血清の製造を、ルーの助手のガストン・ラモンが考案したウマを免疫する方式を採用した。両者のこの関係はピンポンに例えられた。

個人的にもルーとメチニコフは、ベーリングと親密となり、それぞれ、ベーリングの2人の息子のゴッドファーザーになっていた。

数カ国語に堪能なメチニコフは多くの国の研究者を迎え入れた。研究所創立時から1916年に死亡するまでに少なくとも20カ国から研究者が彼の研究室にやってきた。山内保(本連載154)もそのひとりで、1907年から10年間、梅毒、眠り病、食細胞機能亢進剤、戦傷における細菌叢などの研究を行い、パスツール研究所のロシア調査団(リーダーのメチニコフほか3名)にも参加していた。

パスツール研究所の黄金期

1896年以来、パスツール研究所の名誉所員になっていたアルフォンス・ラヴランは1907年、マラリア原虫の発見に対してノーベル賞が授与された。彼は賞金の半額をパスツール研究所に寄付して、熱帯病研究室を設置した。翌、1908年にはメチニコフが細胞性免疫の担い手としての食細胞の研究に対してノーベル賞を受賞した。これは、抗体の側鎖説を提唱したパウル・エールリッヒとの共同受賞だった。パスツール研究所創立時にメチニコフ研究室に加わっていたジュール・ボルデは1919年に補体システムの解明に対してノーベル賞を授与された。1903年にチュニスのパスツール研究所所長となったシャルル・ニコルは、1928年に発疹チフスのしらみ媒介の業績に対してノーベル賞が授与された。

ウイーン大学のカール・ラントシュタイナーは、1908年に彼がポリオの患者から分離したウイルスがポリオの病原体であることを、1909年から3年間メチニコフ研究室で行ったサルの実験で確かめた。同じ時期に彼は、ボルデが見出した血清による溶血現象の研究でABO血液型を発見し、その業績により1930年ノーベル賞を受賞した。

 

文献

Patrice Debré (Translated by Elborg Forter): Louis Pasteur. The Johns Hopkins University Press, 1994.

Institut Pasteur: 130 years ago, the Institute Pasteur was under construction. 2017. 11.24

Cavaillon, J.-M., Legout, S. : Duclaux, Chamberland, Roux, Grancher, and Metchnikoff : the five musketeers of Louis Pasteur. Genes & Immunity, 20, 344-356, 2019.

Gachelin, G.: The designing of anti-diphtheria serotherapy at the Institut Pasteur (1888-1900): the role of a supranational network of microbiologists. Dynamis, 27, 45-62, 2007.

Kaufmann, S.H.E. & Winau, F.: From bacteriology to immunology: the dualism of specificity. Nature Immunology, 11,1063-1066, 2005.