156.第1回ノーベル賞をめぐるドラマ

2022年の生理学・医学賞は、古代DNAによってホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスの交雑を発見したスバンテ・ペーボ博士が単独受賞した。発見そのものの面白さや古代DNA技術の応用範囲を考えれば納得感があり、また進化生物学からの選出という点では意外性のある結果であった。

受賞して然るべき成果は、まだ数多く控えている。そして、各成果に貢献した研究者が3人では収まらないことがほとんどである。そのため「なぜあの研究者が漏れたのか」という議論が起きやすい。この現象は、第1回のノーベル賞ですでに起きていた。本稿では、北里柴三郎が選考から漏れたことで有名な第1回ノーベル賞授与をめぐって展開されたドラマを眺めてみたい。以下の経緯を辿った上で、受賞者を3人に絞らなければならないとしたら、どんな基準がありうるだろうか。

1850年代後半、パリのエコール・ノルマルの副学長ルイ・パスツールは、発酵や腐敗は、古くから信じられていたような自然発生する微生物ではなく、外から入り込んだ微生物の増殖によるという微生物(細菌)原因説を確立した。この時から「細菌の狩人の時代」が始まり、その半世紀、この分野の成果が社会に貢献し始めた頃にノーベル賞の授与が始まった。実社会への貢献を重視するというノーベル賞の性格と、感染症学の発展の時期がうまく重なっていたと言える。

 

病原細菌学の黎明期における主な登場人物

ロベルト・コッホは、ゲッティンゲン大学医学部を卒業後、1872年、当時ドイツ帝国の小さな町ウォルシュタイン(現在はポーランド)の地区医務官として診療を始めた。この地域ではヒツジとウシで炭疽が発生していて、ヒトがかかることもあった。1876年、コッホは警察官からの依頼により死亡したヒツジを検査し、その血液から炭疽菌を分離して、細菌により病気が引き起こされることを初めて明らかにした。

病原細菌学はここから始まった。コッホは1882年には結核菌を分離し、翌年、ベルリンの衛生局医務官に昇進した。ここでコッホの最初の助手となったフリードリッヒ・レフラーは、1884年、ジフテリア菌を分離し、ジフテリアが細菌による病気であることを明らかにした。病気の原因となる細菌の分離方法を確立したコッホは、病原細菌学の父と呼ばれた。

コッホは1665年ベルリン大学教授に就任した。内務省衛生局で緒方正規の助手をつとめていた北里柴三郎は、緒方の留学先だったレフラーへの紹介状をもらって、1886年初めにコッホ研究室に留学した。北里はそれまでコッホ研究室の誰もが失敗していた破傷風菌の培養に取り組み、嫌気性培養の方法を考案して、純培養に成功した。1889年4月に、ドイツ外科学大会でこの成績を報告し、衛生学雑誌に論文で発表した(1)

エミール・フォン・ベーリングは、ベルリンの陸軍大学で軍事医学を学んだ後、ポーランドに軍医として派遣された。彼はジョセフ・リスターが提唱した消毒の概念に感銘を受けており、勤務のかたわら行っていた個人診療の収入で、敗血症の防腐剤処理での治療について研究していた。そして、ヨードホルムが殺菌作用を示すだけでなく、毒も無毒化することを1882年に報告した。軍の衛生当局は伝染病の予防と対策にとくに関心を抱いていおり、彼の才能を認めて、1888年ボン大学薬理学研究所に派遣した。ベーリングは、実験動物によって、その血清が特定の細菌に抵抗性を示す場合のあることを見出した。1889年にベルリンに戻るよう命令され、おそらく彼の希望によると推測されているが、コッホ研究室に移った(2)

 

ベーリングと北里の共同研究

1889年、ベーリングが北里と共同研究を始めた時、ジフテリア菌の分離に成功したレフラーは、北海の近くのグライフスヴァルト大学の教授になっていた。ベーリングはジフテリア菌を用いた動物実験の経験がなかったため、すでに3年間の経験があった北里がベーリングの実験に協力していたと考えられる。

彼らは、1890年12月4日のドイツ医事週報に連名で、「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。これが血清療法の最初の論文となった。その内容は、①破傷風菌で免疫したウサギの血液は破傷風菌の毒素を中和もしくは破壊する、②この性質は血管外の血液および血清にも含まれる、③この性質は安定していて、ほかの動物の体内でも効果的であるため、血液または血清を投与することで画期的な治療効果を得ることができる、④この破傷風菌毒素を破壊する性質は破傷風菌に対する免疫のない動物の血液中には存在しないというもので、破傷風菌についての実験成績の紹介が主体だった。ジフテリアについては簡単に触れただけであった(3、4)

ベーリングは、翌週の週報に単独名で「動物におけるジフテリア免疫の成立について」という論文を発表し、ジフテリアでの動物実験の成績を述べている(5)

この共同研究の最中、北里は、動物に症状を引き起こしているのは細菌が産生する毒素であることを確認していた。その実験では細菌を確実に濾過するために独自の細菌濾過器を考案した。これは、後にレフラーが口蹄疫についての研究で用いて、濾過性ウイルスの初の分離に成功している。また、毒素をラットの腹部に注射するための保定装置を考案していた。もしもラットが暴れて毒素の入った注射器で指を指したら大変な事になるためである。この結果は1891年に衛生学雑誌に「破傷風毒素についての実験的研究」という論文で発表された(6)

フランスでは1888年、パスツール研究所のエミール・ルーと助手のアレキサンダー・エルサンが、ジフテリア菌の実験動物での病原性を詳しく調べ、その毒素についてジアスターゼのような溶解性の物質であることを明らかにしていた(7)

 

血清療法の実用化への歩み

ジフテリアは、当時ヨーロッパでは1万人あたり6、7人が死亡する重大な病気だった。10歳以下では致死率は80%に達し、窒息して死亡することが多いため「首を絞める天使」と呼ばれていた。治療には喉の消毒や気管切開が行われていた。

1891年の暮れから、ベーリングはジフテリアにかかった子どもで治療試験を始めたが、抗血清の品質が不十分で、期待した治療成績が得られなかった。そこで、パウル・エールリッヒに協力を求めた。エールリッヒは植物毒のリシンで免疫反応を詳細に調べており、1890年、コッホが新設の伝染病研究所の所長に就任した際、客員研究員として招聘されていた。エールリッヒは、まず血清の評価方法を考案した。毒力が時とともに低下する毒素ではなく、化学的に安定な抗血清を「標準血清」とし、免疫力の未知な血清については、標準血清の中和に必要な毒素量を定め、この毒素と未知の抗血清とを反応させて試験するという2段階の測定法を完成させたのである。

抗血清の力価を正確に測れるようになると、ベーリングは1894年初め、ヤギで製造した抗血清を用いて、ジフテリアにかかった子ども220名で臨床試験を行った。抗血清の注射を受けた子どものうち、168名が回復した。23.6%という致死率は、通常の致死率の半分だった。とくに、診断後2日目から治療を行った場合には、ほぼ100%が回復した。その年の8月、ヘキスト社はベーリングおよびエールリッヒと契約を結んで、「ベーリングとエールリッヒが合成したジフテリア治療薬」として発売した(2、8)

当初はヒツジやヤギで抗血清が製造されていたが、パスツール研究所のルーは大量の血液が採取できるウマを用いた。ベーリングもウマに切り替え、製造法を改良して高力価の抗血清の製造ができるようになった。

抗血清は完全に新しいタイプの医薬品だったため、その安全性と有効性を保証するために、1895年には政府が承認した血清だけがドイツ帝国内で販売できるようになった。この検査はコッホの伝染病研究所で行われた。

ジフテリアの血清療法は、米国でも1894年には始まっていた。ニューヨークのコーネル獣医大学では13頭のウマで抗血清が製造されていたという。

ベーリングはまもなく、「子どもの救世主」として尊敬されるようになった。一方で、ベーリングは抗血清を無害であると考えていたが、1896年に副作用のあることが明らかになった。女中がジフテリアにかかったため、予防のために子どもに抗血清を注射したところ、死亡したという例が出たのである。ベーリングは「過敏反応」と名付けた。これは異種血清に対するアナフィラキシーの最初の例となった(9)。なお私も、小学校にあがる前にジフテリアにかかり、血清療法で助かっている。

破傷風は、出産時における新生児と母親の死亡の重要な原因であり、普仏戦争(1870―1871)では350名の感染者が出て90%が死亡するなど、戦争の際に問題になる病気だった。しかし、一般にはほとんど関心がもたれていなかった。

破傷風の血清療法が普及したのは、1914年、第1次世界大戦が始まってからだった。開戦初期にフランスのナミュールの陸軍病院には2193名の戦傷者が入院し、27名が破傷風にかかっていて、すべて死亡した。血清療法を導入してからは、1195名の戦傷者で破傷風にかかったのは皆無となった。ドイツ、英国、米国の軍隊でも、破傷風の発生はほとんどなくなった(8、9)

 

副産物として生まれた破傷風ワクチンとジフテリアワクチン

ガストン・ラモンは、パリ近郊のアルフォール獣医学校を1910年に卒業して、パスツール研究所に入り、破傷風毒素とジフテリア毒素の抗血清をウマで製造していた。微量の毒素の注射から、徐々に毒素の量を増やし、最後に大量の毒素を注射した後、全採血して血清を採取するという方法である。第一次世界大戦が始まると、戦線の病院などからの要求で、破傷風抗血清の需要が急速に伸びてきた。ところが、抗血清が雑菌の混入で腐敗してしまう事態がしばしば起こり、ラモンは所長のルーから腐敗防止策を緊急業務として命令された。彼は、牛乳の腐敗防止に用いられていたホルマリンの使用を思いつき、試行錯誤の末、1000分の一の割合にホルマリンを加え、パスツールの殺菌法(56℃、30分加熱)で処理することにより、腐敗を抑えることに成功した(10、11)

しかし、別の問題が生じた。ラモンはジフテリアや破傷風の抗血清の力価を検定するために、細菌濾過器で濾過して無菌にした毒素と抗血清を混合したものをモルモットに注射して、その生死から抗血清の力価を求めていた。ところが、無菌にした毒素が雑菌の混入で使用できなくなることがあったため、毒素液にホルマリンを加えたところ、毒素が無毒になって、力価検定に使用できなくなってしまったのだ。

彼は以前、毒素に適当な量の抗血清を加えると沈降物ができることに気付いていた。これは、抗原と抗体の結合によるもので、目に見えない毒素(抗原)が目に見える沈降物を作るという、当時としては画期的な発見だった。

ホルマリンで無毒となった毒素も、抗血清と混合すると同じように沈降物を作った。無毒になっても抗原性は保たれているのだから、ワクチンとして機能しうる。この発見がきっかけとなって、彼は1920年代、ホルマリン処理によるジフテリアと破傷風ワクチンを開発した。彼が開発したジフテリアワクチンと破傷風ワクチンは現在も、百日咳ワクチンとともに、3種混合ワクチンにして小児に接種されている(11,12)

第2次世界大戦では、フランス軍の将兵は全員が破傷風ワクチンの予防接種を受けてから戦線に送られ、破傷風患者は皆無だった。ラモンの崇拝者で破傷風治療の第一人者だった海老沢功・元東邦大学教授の調査では、日本軍は外傷を受けてから抗血清による治療を受けていて、マーシャル群島での戦闘の負傷兵284名の中14名が破傷風にかかったという(11)。ちなみに、私の叔母は1990年代、破傷風にかかり、その際、医科学研究所の時代から親しくさせていただいていた海老沢先生による血清療法で回復した。

1930年から1953年にかけて、ラモンは延にして155人からノーベル賞候補に推薦されたが、受賞には至らなかった。ネイチャー誌が調査した結果では最高記録である。ジフテリア毒素を発見したルーもまた、1901年から1932年にかけて115人から推薦を受け、受賞に至らなかった(13)

 

第一回ノーベル賞がベーリングだけに授与された経緯

パスツールが死亡した翌年、1895年11月27日、アルフレッド・ノーベルはパリのスウェーデン・ノルウェー・クラブで遺言に署名した。それには、基金を設けて「前の年にもっとも人類に貢献した人」に賞を与えることが述べられていた。ノーベルは翌1896年12月10日に死亡した。

遺言にしたがって、彼の死後5年経った1901年から、ノーベル賞が授与されることになった。選考は3つの段階に分けられ、まず、国際的な推薦システムで候補者の名前をあげてもらい、次にノーベル委員会で検討を行い、その報告に基づいて,カロリンスカ研究所教授会が最終決定を行うことになった。

1901年、各国からは全部で63名が推薦された。選考規定に該当した候補者は43名になった。日本以外はすべて西欧諸国で、ドイツがもっとも多く11名、次にフランスが6名、英国が5名、イタリア、ハンガリー、オーストリア、スウェーデンが3、4名だった。もっとも多くの票を集めたのはイアン・パブロフで33票(大部分はサンクトベルク軍医大学から)、次にベーリングが13票、ロナルド・ロスが13票、ラモン・カハール、ニールス・フィンセン、カミヨ・ゴルジ、ロベルト・コッホが、それぞれ3票以上あった。ルーはジフテリア毒素の分離に対して、エルサンはペスト菌分離に対して、それぞれ一票あった。北里にはハンガリーのブダペスト大学薬理学のボカイ教授からの1票があって、ベーリングとの共同受賞が推薦されていた。

次の段階として、ノーベル委員会による評価が行われ、19名が選ばれて検討された。マラリア研究ではロナルド・ロス、パトリック・マンソン、アルフォンス・ラヴランが選ばれた。ジフテリア研究では、ベーリングとルーが選ばれた。北里はベーリングの共同研究者とみなされた。

委員会の最終報告では、ベーリングの名前はなくなり、賞金を二つに分けて、半分をロスに、残り半分をフィンセンまたはパブロフに与えるよう勧告されていた。ロスは蚊がマラリアを媒介することを発見した功績、パブロフは条件反射などの生理学的研究と言う基礎的研究成果、フィンセンは全身性エリテマトーデスという特定の病気の光線療法という意外な組み合わせになった。基礎と臨床、それぞれの立場を考慮した苦肉の策だったのかもしれない。

ところが、カロリンスカ研究所教授会での最終決定は、委員会の勧告を完全に覆して、ベーリングだけになった。審議の過程は未だ明らかにされていない(14)

なお、第1回ノーベル賞で推薦された候補者のうち、ロスは1902年、フィンセンは1903年、パブロフは1904年、コッホは1905年、ゴルジとカハールは1906年、ラヴランは1907年に受賞した。

 

なぜ北里は共同受賞しなかったか

ノーベル生理学・医学賞委員会の委員を20年間にわたって務めたカロリンスカ研究所ウイルス学教授のアーリング・ノルビーに、彼の研究室に留学したことのある元・国立感染症研究所感染症(現・疫学)情報センター長の井上栄博士が北里が選ばれなかった理由を訊ねたところ、教授会の結論は、「抗血清の治療効果はベーリングが北里と一緒に発表したが、ジフテリアの治療研究を行ったのはベーリングであることは明白である。コッホも北里もベーリングのアイディアに貢献していないというのが大方の認識であるようだ」との回答が寄せられた。しかし、ノーベル委員会の推薦が覆された経緯には言及していなかった(15)

ベーリングはコッホ研究室に移る前から細菌感染の治療を目指しており、血清療法のアイディアは彼から発案されたと推測される。2人の共同実験が始まった1889年、北里は破傷風菌の培養という画期的な成果をあげた直後であり、1891年に発表した論文でも毒素の役割に重点を置いていた。それ以後は結核菌の研究に専念しており、血清療法の研究には取り組んでいない。しかし、北里の破傷風菌の純培養がベーリングの研究の基盤になっていたことは間違いない。

伝染病研究所の志賀潔は、来日したコッホとの会話の一部として、「当時、自分の許でベーリングがジフテリアの研究を続けていたが、常に北里の破傷風研究に導かれて漸次進捗した。今日有効な血清療法があるのは北里の研究に基づいている」というコッホの発言を紹介している(16)

しかし、ベーリングは受賞講演で、レフラーによるジフテリア菌の分離、ルーによる毒素の分離がなければ、血清療法は生まれていなかったと述べ、エールリッヒの協力にも言及していたが、北里の名前はまったく出てこなかった(17)

当時、ベーリングが破傷風よりも広く問題視されていたジフテリアの治療法を開発したことが、社会への貢献を重視するノーベル賞の選考基準に合っていたと言えるだろう。しかし、あらゆる応用の成果は、本稿で紹介したように、さまざまな基礎研究や手法の開発の山の上に築かれるものである。「いかに役に立つか」「社会にすぐに還元できるか」のみを判断基準にして評価することは、基礎科学を弱体化させるだけではなく、結果的に応用分野を弱らせることにもつながるだろう。また、ノーベル賞ばかりが報道されがちだが、選考基準の異なる賞によってさまざまな領域の科学に光を当て、広く知られるようにするべきであろう。

 

文献

 

  1. Kitasato, S.: Ueber den Tetanusbaccilus. Zeitschrift für Hygiene. 7, 225-234, 1989.
  1. Roux, E., Yersin, A.: Contribution à l’ étude de la diphthérie. Annales de l’Institut Pasteur, 2, 629-661, 1888.
  1. Kaufmann, S. H.E.: Remembering Emil von Behring: from tetanus treatment to antibody cooperation with phagocytes. mBio, 8, e00117-17, 2017.
  2. Linton, D.S.: Emil von Behring. Infectious Disease, Immunology, Serum Therapy. American Philosophical Society. 2005.
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  2. Von Behring, E.: Untersuchungen über das Zustandekommen der Diphtherie-Immunität bei Thieren. Deutsche Medizinischen Wochenschrift, 16, 1145-1148, 1890.
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  4. Kaufmann, S.H.E.: Emil von Behring: translational medicine at the dawn of immunology. Nature Reviews of Immunology, 17, 341-343, 2017.
  5. Kaufmann, S.H.E.: Remebering Emil von Behring: from tetanus treatment to antibody cooperation with phagocytes. mBio, 8, e00117-17, 2017.
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  1. E.ノルビー(井上栄訳)『ノーベル賞の真実 ― いま明かされる選考の裏面史―』東京化学同人、2018.
  1. Von Behring, E.: Nobel lecture: Serum therapy in therapeutics and medical Science. December 12, 1901.

https://www.nobelprize.org/prizes/medicine/1901/behring/lecture/

  1. 志賀潔『パウル・エールリッヒ その生涯と業績』冨山房、1952.

 

(雑誌みすず2022年12月号の記事を一部改変して転載)