162.新刊書『インフルエンザウイルスを発見した日本人』

本連載34回で紹介した山内保のインフルエンザウイルス発見について、10年あまりの間における思いがけない出会いから、資料が集まり、8月初めに岩波書店から上記の本を刊行することができました。https://www.iwanami.co.jp/book/b629840.html岩波書店:インフルエンザウイルスを発見した日本人

私の国立予防衛生研究所時代の同僚、加藤茂孝博士による書評と合わせてご紹介します。

 

(書評)加藤茂孝

推理小説のようなワクワク感があった。まるで、ウイルス学における森鴎外の「渋江抽斎」だった。

 

一人の医学者の名前山内保(T.Yamanouchi)からから始まり、彼の経歴や家族関係、教育歴、留学したパスツール研究所での研究内容、メチニコフなど優れた研究者との出会いと交流、日本に帰国後に短期間で成し遂げたインフルエンザがウイルスであることの的確で優れた証明。それなのにそれをどこで研究したのかの場所さえ、また彼の写真さえすぐには分からなかった。それが10数年かけて、多くの人々の協力で、疑問の一つずつが、少しずつほぐされて行き、時には突然予期していなかったルートと結びつき答えが得られて、山内保の生きいきとした実像が明らかにされて行く。

 

江戸時代の武鑑に度々現れる渋江抽斎の蔵書印に興味を抱いた森鴎外が、彼の実像や子孫を公務や執筆の合間を縫って探し当ててゆく過程とほとんど重なっている。鴎外も保も東大医学部を卒業し、一方はドイツに他方はフランスに留学している経歴も似ている。今でも名前が残っている鴎外に比べ保は優れた業績にもかかわらず、なぜ今まで無名だったのか?

 

中学の時に読んだ鴎外の渋江抽斎は中学生には余りの詰まらなさに途中で読むのを諦めてしまった。それが自分が70歳を越えて、改めて読み直したところ、なんと面白い作品で、鴎外の最高傑作ではないかと思った。この保の事も、中学時代だったらそれほど感動しなかったかもしれないと思う。しかし、著者の70年におよぶウイルス学の研究と世界と繋がる交友関係を背景にしたこの著作は、著者の長い時間の流れと人生が詰まっている事を強く共感した。ほとんど著者の史伝小説と言っても良いと思う。T(保) とK(一也)の二人の山内がこの本の主人公であると言っても良い。20世紀初めの微生物学の初期黄金期の様子が研究者の体温と共に豊かに簡潔に描かれている事だけでもこの本の価値は高い。

 

推理小説的史伝と微生物学発展の初期黄金期を書いたという二重の意味で多変素晴らしい著作である。ゲノム時代しか知らない若い研究者にも予想外の知的興奮をあたえるであろう。

(2023.8.13)