雑誌「科学」2011年8月号に掲載した記事です。科学編集者の了解を得て転載します。野口英世と同時代にパスツール研究所で活躍していた日本人科学者としても興味があります。2011年3月初めには新聞記事にもなるはずでしたが、大震災のために取りやめになりました。
はじめに
私の古くからの友人にFrederick Murphyというウイルス学者がいる。国際ウイルス学会長などを歴任したウイルス学領域の第一人者である(注)。彼は現在、ウイルス発見の歴史について、発見者の写真などを中心に800枚以上のスライドにまとめて同大学のホームページに掲載してきており、http://www.utmb.edu/ihii/virusimages/index.shtmlそれを元にウイルス発見の歴史に関する本を執筆している。
注:Murphyは1976年のエボラ出血熱発生の際に米国疾病管理予防センター(CDC)の特殊ウイルス病原部長として、エボラウイルスの分離にかかわり、彼が撮影したエボラウイルスの写真は危険なウイルスのシンボル的存在になっている(図1)。 (この図は「科学」には掲載していません。写真は彼が予防衛生協会シンポジウム(2009年2月7日)の講師として来日した際のもの。彼が締めているネクタイはエボラウイルスをパターンとしたものです。霊長類フォーラム人獣共通感染症第5回参照)
彼から2010年暮れにメールが送られてきた。その内容は、インフルエンザウイルスは1933年の英国のChristopher Andrewesのグループが発見したものとされてきたが、1918年のスペイン風邪の際にウイルスを発見したという報告がいくつかある。それらを詳しく調べた結果、最初の発見とみなせるもののうち、もっともすぐれたものは、1919年に帝国大学伝染病研究所の所属と思われるT. YamanouchiがLancet誌(注)に発表した論文(1)だった。Yamanouchiは私の親戚だろうから写真をほしいというものであった。
注: Lancetは英国で1823年に創刊された世界最古で、現在ももっとも権威のある医学雑誌のひとつ。
残念ながらYamanouchiは私とは縁もゆかりもない。しかし、インフルエンザウイルスの最初の発見者のひとりとして私と同じ名前の日本人がいたということに興味を抱き、しかも帝国大学伝染病研究所(伝研)は、私が勤務していた東大医科学研究所(医科研)の前身である。
そこで、Yamanouchiのウイルス説が書かれたLancetの論文を検討するとともに、インフルエンザの原因に関する当時の考え方を整理し、その論文が果たして最初の発見に相当するものかどうか検討した。一方、Yamanouchiがどのような人物なのか調査を行った。
1.インフルエンザの原因をめぐる1919年頃の議論
①細菌原因説
19世紀後半、コッホにより炭疽菌をはじめとする種々の細菌がそれまで原因不明とされてきた病気の原因であることが明らかにされ、細菌の狩人の時代となっていた。コッホ門下のRichard Pfeifferは1892年、インフルエンザの患者の鼻から小型の棒状の細菌(桿菌)を発見し、これをインフルエンザの原因と考えてインフルエンザ菌(一般にはプファイフェル菌)と名付けた。動物実験などインフルエンザの病原体という証拠はなかったが、インフルエンザの患者の咽頭に多く見いだされた事実から、当時の学会はプファイフェル菌原因説を受け入れていた。
注:現在はヘモフィルス・インフルエンザ(Haemophilus influenza)の学名が付けられている。この菌はその外側の膜の性状からa~fの6型に分類され、そのうち、b型菌が肺炎の原因となるため、現在、これに対するワクチンが小児や高齢者に用いられている。これは学名の頭文字とb型を組み合わせて、ヒブ(Hib)ワクチンと呼ばれている。
インフルエンザ菌の発見から20数年後、スペイン風邪の流行で、この菌は脚光を浴びた。日本でも大正7年(1918)、北里研究所(北研)は、プファイフェル菌が原因という立場で、この菌のワクチンを製造した。伝研はプファイフェル菌、肺炎双球菌(注)のいずれもが原因とは決めかねるという見解だったが、両方の菌に対する混合ワクチンを製造した。最終的に北研のワクチン248万人分、伝研のワクチン249万人分が接種されたが、流行が終息したのち内務省衛生局の最終的見解は、ワクチンに効果はなかったというものだった(2)。
注:1881年に米国のGeorge Sternbergとフランスのパスツールにより肺炎の原因菌として同時に分離された。現在は肺炎連鎖球菌と呼ばれている。日本では2010年から乳幼児用のワクチンが用いられている。
②ウイルス原因説
スペイン風邪の原因としてプファイフェル菌などの細菌に注目が集まっている中、それまでの細菌よりも小型の濾過性病原体とされたウイルスについての研究も世界各地で行われ 、その中にはウイルスが病原体であることを示した報告もいくつか出された(2, 3)。当時もっとも著名な細菌学者Hans Zinsserは、1922年に出版した有名な細菌学のテキストブック(注)で、スペイン風邪が流行していた時期にウイルスを発見した可能性のある数名の科学者の名前を列記している。それらのうち、Yamanouchiの報告だけを取り上げ、その内容を半ページにわたって紹介している。スペイン風邪のウイルスについての研究の第一人者であるTaubenbergerも最近の総説(4)で当時のウイルス説としてYamanouchiについてとくに詳しい説明を行っている。スペイン風邪について発表されたウイルス説を詳細に調べたMurphyは、Yamanouchiが当時としてはもっとも広範囲な検討を行っていたことに注目したのである。
注:Zinsser(1868-1940)は、米国の細菌学者でこの細菌学のテキストブックの第1版を1910年に出版して以来、1928年まで改訂を繰り返した。彼の死後も別の著者により続けられていて、現在は2010年改訂版が出版されている。
注:Taubenbergerは、スペイン風邪で死亡した人のサンプルから原因ウイルスの遺伝子の配列の一部を1997年に発表し、後にすべての配列を決定した。そして、これにもとづいてスペイン風邪の原因となったインフルエンザウイルスの再構築に2002年に成功している。
この論文は、Prof. T. Yamanouchi, Dr. K. Sakakami, Dr. S. Iwashimaの3名が共著者になった短いものだが、なぜか、所属は書かれていない。その内容は以下の通りである。
43名のインフルエンザ患者の喀痰を集めて、看護婦や友人など24名の志願者で行った実験だった。このうち、6名はインフルエンザにかかって治った人、18名はまだかかっていない人である。このうち、12名にはベルケフェルト細菌濾過器(注)を通過させて細菌を除去したサンプル、残りの12名には濾過しないサンプルを、それぞれ咽頭内に接種した。その結果、インフルエンザにかかったことのない人18名が2-3日の潜伏期で発熱、咳などインフルエンザの症状を出したが、すでに感染したことのある人はまったく発病しなかった。
注:ドイツのハノーバーのベルケフェルト鉱山の珪藻土を主成分にした素焼きの磁器製の細菌濾過器。
一方、細菌濾過器で濾過した血液を6名に、同様に濾過した喀痰を4名に皮下接種した結果、すでに感染したことのある1名を除いてすべて発病した。
しかし、プファイフェル菌を咽頭に接種された14名はひとりも発病しなかった。
これらの結果、出された結論は以下の通りだった。
① インフルエンザは細菌濾過器で除去されない、濾過性ウイルスである。
② 病原体は粘膜への接種または注射で感染する。
③ 病原体はインフルエンザ患者の喀痰と血液中に見つかる。
④ プファイフェル菌はインフルエンザの原因ではない。
⑤ すでにインフルエンザにかかった人、患者の喀痰やその濾液を接種された人は、免疫になっている。
2.スペイン風邪以後のインフルエンザウイルスについての研究
スペイン風邪が人の間で大流行を起こしていた1918年に米国中西部の豚の間でも大規模な呼吸器疾患が起こり、症状がインフルエンザに良く似ていることから、ブタインフルエンザと命名された。(注)
注:このウイルスはその後、古典的ブタインフルエンザウイルスと呼ばれ、現在までブタの間で存続している。これが人、鳥のインフルエンザウイルスと交雑を起こして1998年には、いわゆる新型インフルエンザとなって、世界に混乱をもたらした(5)。
このブタインフルエンザの流行が1928年から1929年にかけてアイオワ州で起きた。ロックフェラー研究所のRichard Shopeは、ブタインフルエンザを発病した豚の呼吸器粘液を細菌濾過器を通過させたサンプルを接種して豚にインフルエンザを起こすことに成功し、豚で見られた病変について詳細な論文を発表した(6)。これがインフルエンザウイルス研究の突破口となった。
一方、英国では1920年代、国立医学研究所でPatrick Laidlawが獣医師George Dunkinとフェレットを用いてジステンパーの研究を行っていた。実験動物ではないフェレットを選んだ理由は、Laidlawがフェレットの飼育場でしばしばフェレットが犬からジステンパーにかかって死亡するという話を偶然耳にしたことからである (7)。
1933年1月に英国でインフルエンザの流行が起きた。すでにShopeの発表からインフルエンザがウイルスにより起こる可能性が示されていたため、ウイルスを分離する試みが国立医学研究所で、Laidlawに加えて、Christopher AndrewesとWilson Smithにより始められた。彼らは患者のうがい液を細菌濾過器を通過させて、ウサギ、モルモット、ラット、マウスなどへ接種してみたが失敗に終わった。そこでジステンパー研究用に飼育していたフェレットに接種してみたところ、フェレットはインフルエンザにかかった。フェレットへの感染実験を繰り返した結果、病原体は細菌濾過器を通過するウイルスであって、フェレットからフェレットへ継代できることが明らかにされた(8)。なおこの実験の最中、くしゃみをしたフェレットからSmithがインフルエンザに感染した。感染を起こしたウイルスは彼の頭文字からWS株と命名され、現在もインフルエンザウイルスの標準株として用いられている。この報告がこれまで、インフルエンザウイルスの最初の発見とされてきた。
3.濾過性病原体としてのウイルスの認識の歴史
Yamanouchiらの報告の意義を理解するために、ウイルス発見初期の歴史を振り返ってみる。1897年、Friedrich LoefflerとPaul Froshは、口蹄疫の病原体が細菌濾過器を通過する微少なものということを報告し、同じ年にオランダのMartinus Beijerinckはタバコの葉の病気であるタバコモザイク病が同様に細菌濾過器を通過する病原体によることを発表した。これが最初のウイルス発見となった。
これ以後、1919年までのウイルス発見の歴史を表1にまとめたが、ほとんどは動物のウイルスだった。人のウイルスは人かサルを用いなければならなかったためである。最初に発見された人のウイルスは黄熱ウイルスだった。1900年にキューバで、米国のWalter ReedとJames Carrolが黄熱患者の発病初期の血液をベルケフェルト細菌濾過器で濾過したものを3名の志願者の皮下に注射したところ、2名が黄熱にかかったという成績である。米国上院の「故ウォルター・リード大佐の業績と発見」という報告書(9)では、「黄熱は牛の口蹄疫と同様に顕微鏡では見えない非常に小さな微生物により起こる」という結論が述べられている(注)。当時、ウイルスについての知見は皆無だったため、それ以上詳しい研究は行われなかった。なお、黄熱ウイルスの研究が進み始めたのは、1928年、米国のAdrian Stokesがアカゲザルが黄熱に感受性があることを見いだしてからである(10)。
注:Reedは1902年11月に52歳で死亡した。彼の業績は黄熱ウイルスの発見だけでなく、死亡者まで出した実験で黄熱が蚊により媒介されることを明らかにしたもので、これらの研究で心身ともに疲れ果てていたと伝えられている。米国政府は彼の栄誉を讃えてワシントンにWalter Reed陸軍医学センターを設立し、それを構成する病院と研究所にも彼の名前を付けた。
黄熱に続いて発見された人のウイルスはポリオウイルスで、オーストリアのKarl Landsteiner(ABO血液型発見でノーベル賞受賞)が1909年に報告した。その内容は、1名のポリオ患者の脊髄乳剤を細菌濾過器で濾過したのち、1頭のヒヒと1頭のアカゲザルに接種した結果、ヒヒだけが6日目に麻痺を起こし2日後に死亡したというものである。(11)。
3番目に発見されたのは麻疹ウイルスである。1912年、米国のJohn AndersonとJoseph Goldbergerは、麻疹患者のサンプルをアカゲザルに接種する実験を行い、発疹が出て14時間後という早い時期の血液を2頭のサルに接種した結果、体温の上昇、発疹の出現が確認できたのである(12)。
Yamanouchiによるインフルエンザウイルスの発見は人のウイルスでは4番目になるが、ポリオウイルスと麻疹ウイルスはサルへの感染実験で発見されたもので、インフルエンザウイルスは人体実験で発見されたウイルスとしては黄熱に次ぐものとなる。
人体実験では、得られた知見は限られていた。口蹄疫など動物を用いた実験では動物での継代もできたが、黄熱やインフルエンザでは不可能であった。黄熱やインフルエンザについてのウイルス学的研究は動物実験が可能になってから進展した。前述のように、黄熱ウイルスでは1928年のStokesのサルへの感染実験の報告から、インフルエンザウイルスでは、Andrewesらのフェレットへの感染実験の報告から現在につながる研究が始まったのである。Yamanouchiの成績が予想通りすぎて信じられないという指摘もあるが(13)、これが当時出されていた見解か現在の視点からのものか分からない。ウイルス発見の初期の歴史では、Reedが黄熱ウイルスの最初の発見者という見解が受け入れられており、山内の報告はReedのものよりはるかに詳細な内容である。Reedの場合と同様に、Yamanouchiの成果はインフルエンザウイルスの最初の発見のひとつとみなすのが妥当であろう。
Murphyは私あてのメールの中で、「Yamanouchiは当時、もっともすぐれた業績をあげており、世界の主なウイルス学者が彼の業績を理解していて高く評価していたことは明らかである。—中略—私がこれまで、1933年におけるChristopher Andrewesらをインフルエンザウイルスの発見者と書いてきたことは、大きな誤りだった。私が調べた限り、多くの書物は同じ誤りをおかしている。」と述べている。
Yamanouchiについての探索
Yamanouchiという人物は大正時代の医学研究者にはまったく見あたらない。MurphyはProf. T. Yamanouchiを伝研所属と推測していたので、まず、当時の伝研の教授のリストを調べてみた。しかし、そのような名前は見つからなかった。そこで、医科研の図書室に依頼してYamanouchiら3名の日本名や経歴、写真などの調査を頼んだ。詳細な検索の結果、以下に述べるような事実が明らかになった。まず、医学博士山内保による「我医学界所見」という6回にわたる連載記事が見つかり、その第1回(読売新聞大正7年(1918 )11月27日号)に以下の前書きがあった。
「博士は明治三十九年東京医科大学(東大医学部の前身)を卒業後英、独の諸大学に研鑽を積み後ち仏国パステール研究所に在りて動物学の泰斗メチニコフ博士(注)の高弟として令名あり。昨年師の逝去後巴里細菌研究所長に挙げられしが最近父君危篤の報に接し帰朝され尚ほ滞京中なり。記者は博士が滞欧十三年間に得たる見識を持ち我現時の医学界に対する所見を敲きて左に連載する事とせり」
注:メチニコフ(E. Metchnikoff)は、白血球(現在のマクロファージ)の食菌現象を発見し、抗体による液性免疫のほかに細胞性免疫の重要性を明らかにした。その成果から1908年ノーベル賞を受賞した。パスツール研究所長をつとめ、1916年に死亡した。
そこで、東京帝国大学一覧の卒業生名簿で確認したところ、明治39年(1906)7月卒業の欄に確かに「山内保」の名前があった。さらにこの名前で検索を進めた結果、以下の記事が見つかった(読売新聞、大正8年(1919)4月1日号)。
「山内博士の新発見、仏国学士院に報告す」(注)「流行性感冒については、北研のプァイフェル氏菌説、帝大及び伝研のその打破説を始め各方面に屢々研究論議されたが右に関し昨秋仏国より帰朝した山内保博士は、旧臘より去る三月末の間医学博士・岩島十三、ドクトル坂上弘蔵氏と協力して専心その研究に没頭し、ー中略—最近その研究を完成し直ちに仏国アカデミーに報告した。そして元来なれば我が国に於て発表さるべきであるが、其の研究の方法は学術上の自由さへ許されぬ国状にあっては、ある一点から非常なる非難を受くべきことを慮んばかって右の方法に依ったといふが、—中略—その結論は大体左の通りで、特にプァイフェル氏菌や連鎖菌等は混合感染で感冒の病原体ではないとのことである。
(一)流行性感冒の原因は濾過性細菌なること
(二)同原因菌は患者の喀痰内に存在すること
(三)同原因菌は患者の血液中にも存在すること
(四)同病潜伏期は二三日なること
(五)同原因菌は気道粘膜を通過感染すること
(六)免疫性の存すること
(七)プァイフェル菌、肺炎菌、連鎖菌等は単に混合感染にして感冒の病原菌に非らざること」
注:1919年6月30日付けのフランス学士院報告には、会員のパスツール研究所のEmile Rouxから紹介されたLancetの論文の要約が掲載されている。Rouxは、ジフテリア菌が作る毒素の精製に成功し、これがジフテリアの重い症状の原因であることを明らかにしたことで有名であり、この成果が北里柴三郎とEmile Behringによる抗毒素療法の開発につながった。なお、Rouxはパスツールの最大の研究協力者のひとりで、パスツール研究所の創立者のひとりでもあった。
さらに、以下の記事も見つかった(東京日日新聞大正9年(1920)3月25日号)。「細菌学界の権威者・医学博士山内保氏は一昨年来流行感冒について研究していたが、此程其研究の結果を英国のランセット雑誌に発表した。同氏は流行感冒の実験を兎とか其他動物に於てなす事は体質の異る上より効果が薄いとなし、看護婦や門弟友人ら百人余人を試験材料に使って二カ年間研究を続けた。其結論は流感菌の喀痰を鼻腔咽喉の粘膜に付着すれば二三日中に発熱し発熱して流感となりー後略」
ここでLancetの論文の著者が、山内保、坂上弘蔵、岩島十三の三名だったことが明らかになった。Murphyから依頼されていた山内の写真は、友人のフランス人科学編集者の協力で、パスツール博物館から彼がメンバーとして加わっていたパスツール研究所のロシア調査団(注)の記念写真(図2)が送られてきた。
注:この調査団メンバーは、Elie Metchnikoff(パスツール研究所長)、Etienne Burnet(梅毒の研究、後にチュニスのパスツール研究所長)、Alexandre Salimbeni(コレラの血清療法などの研究)と山内の4名であった。1911年、ロシアでの結核とペストの調査を主に行い、1908年に報告されたツベルクリンの皮内試験を疫学調査に初めて応用してロシアでの結核の状況を調べ、一方、キルギス草原で発生していたペストが草原のネズミの間でのペスト菌感染の持続によることを指摘している。
一方、坂上弘蔵については、星製薬が製造したワクチンについての記事(東京朝日新聞大正7年(1918)11月16日号)の中で、「星製薬細菌部主任ドクトル坂上弘蔵氏の創成になり・・・」という文言が見つかった。ここで坂上弘蔵が星製薬に所属していたことが明らかになった。私は、当時、ワクチンは伝研と北研だけで製造していたと思っており、星製薬がワクチンの製造を行っていたことは初耳だった。星製薬は星一(はじめ)が明治39年(1906)に設立したもので、当時最大の製薬会社であったが、大正5年(1916)に民間で最初のワクチン製造・販売を始めていたのである(14)。坂上は英国の有名な細菌学者Almroth Wright(注)の元での留学から帰国したところだった。
注:第一次大戦の際に腸チフスワクチンの大規模接種を行い、その功績でSirの称号を与えられた。スペイン風邪が流行した際には、肺炎球菌、インフルエンザ菌、仮性ジフテリア菌、葡萄状球菌、連鎖状球菌の5種を混合した感冒ワクチンを開発した。星製薬が製造していた感冒ワクチンはこれだった。なお、ペニシリンを発見したAlexander FlemingはWrightの弟子。
岩島十三については、ついに手がかりとなる資料は見つからなかった。
山内が実験を行った場所が果たしてどこだったのかが、最後に残された問題だった。「東京大学百年史」の過去の教員(教授、助教授、技師)のリストおよび「東京帝国大学一覧」の各部局概要に山内保の名前は見あたらなかった。大正8年頃の伝研の職員名簿と履歴書は保管されていなかった。こうして、山内保が伝研に所属していたことを確認できる資料は見つからなかった。もっとも、スペイン風邪については細菌説にもとづく研究に専念していた伝研で山内が実験を行ったことは考えられない。同様に北研が実験場所になった可能性も皆無であった。また、前述の読売新聞(大正9年4月1日号)で、日本では彼の研究結果は受け入れられないことが述べられていることからも、伝研や北研が実験場所になったことはありえない。
細菌濾過器など細菌学実験のための最新の設備を備えていた研究施設は、伝研、北研以外には星製薬細菌部だった。Lancetの論文の二番目の著者としての坂上はここの主任ドクトルである。したがって、実験場所は星製薬細菌部と考えて間違いないであろう。 山内のその後の消息については、新聞に掲載された転居通知などから医院を開業していたことが分かった。恐らく実験を行った頃にはすでに開業しており、そのためにLancetには所属が書かれていなかったものと考えられる。
おわりに
スペイン風邪が流行した時代はウイルス発見の歴史の初期であり、しかも人体実験に依存した研究で得られた成果は限られていた。Murphyからのメールで、山内保という人物がインフルエンザウイルスの最初の発見者のひとりとして大きな貢献を果たしたことを初めて知り、彼の人物像と研究の背景の一部を明らかにすることができた。当時の日本の医学界は北里柴三郎を初めとするドイツに留学した人たちで占められており、米国で成果をあげた野口英世だけが例外的存在であった。パスツール研究所で活躍していた山内保が、日本帰国後に行ったインフルエンザがウイルス感染によることを示した研究が当時もっとも評価されていたことに驚きと喜びを感じている。
謝辞
山内保について詳細な調査を行っていただいた東大医科研図書室の諸氏、パスツール研究所での山内の活動状況を調べていただいたGill Dilmitis(元Director of OIE Publication Department)及び星製薬細菌部についての資料を提供していただいた星薬科大学・福井哲也教授と星製薬・竹下一夫取締役部長に感謝申し上げる。
文献
1. T. Yamanouchi et al. : Lancet, 1, 971 (1919)
2. 内務省衛生局編:流行性感冒。内務省衛生局 (1922)
3. C. Nicolle & C. Lebailly: Comptes Rendus de l’Academie des Sciences, 167, 607 (1918)
4. J. Taubenberger et al., Antivir. Ther., 12, 581 (2007)
5. 山内一也:科学, 79, 589 (2009)
6. R.E. Shope: J. Exp. Med., 54, 349 (1931)
7. C.H. Andrewes: J. Pathol. Bacteriol., 51, 145 (1940)
8. W. Smith et al.: Lancet, 1, 66 (1933)
9. J.R. Kean: Scientific work and discoveries of the late Maj. Walter Reed. Senate, 57th Congress Session. Document No. 118. (1903)
10. A. Stokes et al.: Amer. J. Trop. Med., 8, 103 (1928)
11. K. Landsteiner & E. Popper: Zeitschrift Immun. Exp. Therapie, 2, 377 (1909)
12. J. Anderson & J. Goldberger.: Amer. J. Dis. Child. 4, 20 (1912)
13. G. Kolata: ‘Flu’. Farr, Straus and Giroux (1999)
14. 星製薬株式会社細菌部:最新ワクシン及血清療法(1918)
15. A. Hess: Arch. Intern. Med., 33, 913 (1914)
16. Y. Hiro & S. Tasaka: Monatsschr. Kinderheilk., 76, 328 (1938)
参考資料
「科学」では触れていませんが、山内保のパスツール研究所での研究と帰国後の動静についてのメモを添付します。野口英世と同時代に行われた彼の研究活動をうかがい知ることが推測できます。山内保の子孫が見つかれば、さらに詳しいことが分かるはずです。なにか手がかりが得られればと願っています。
研究内容
1.梅毒の動物実験 Levaditiとともに、チンパンジーに梅毒を接種、病変、スピロヘータの増殖などを観察、発病までの潜伏期について発表。ウサギでの実験的角膜炎、さらにウサギとチンパンジーに継代。
Levaditiとの共著、Soc. Biol. Compt. Rend. 1908で発表。 (Levaditi:フランス人医師、フランクフルトの実験治療学研究所でエールリヒと働いたのち、パスツール研究所で1910年研究室主任。)
2.梅毒の診断法 臨床診断に有用と評価された。同じ頃、野口英世も梅毒の研究に従事。
3.アトキシルの作用
志賀潔がエールリヒの研究室で数百種の色素剤のトリパノソーマへの効果を調べ、1つのヒ素化合物がマウスでトリパノソーマの増殖を抑えることを見つけ、トリパン・ロート(トリパン・レッド)と命名。しかし、睡眠病の患者には効果がなかった。一方、英国でヒ酸とアニリンを加熱した際にできる化合物が毒性が低いことからアトキシルと命名していた。
アトキシルの治療効果(ウサギの実験的梅毒で)について1908年にLevaditiと論文を発表。
1910年にはアトキシルの作用について2編の論文を発表。
学位論文
1. 「大日本博士録」第2巻
【学位】医学博士・授与日付・大正2年2月13日・論文提出・東京帝国大学医科大学教授会審査。
【論文】学位請求論文題目。
(1)動物體内ニ於ケル「アトキシル」ノ「トリパノゾーマ」ニ働ク作用ニ就テ(獨文)
(2)異種ノ血清ヲ注射シタル動物ニ於ケル末梢神経電気興奮性低減ニ就テ(佛文)
(3)「アナプイラキシー」ノ研究報告(獨文、エ,ペーピック共著)
(4)黴毒ノ潜伏期ニ就テ(佛文、シー,レハヂチー共著)
(5)血清内ニ於ケル抗蛋白消化醗酵素ニ就テ(獨文)
2. 「日本博士録」第1巻
大正2年(1913)2月13日「アトキシル」ノ「トリパノゾーマ」ニ働ク作用(東大)
3. 「日本医学博士録」 審査大学ト授与年月:大正2年2月 東大
主論文:アトキシルのトリパノゾーマに働く作用
帰国後の研究
インフルエンザ以外には純粋痘苗研究(皮膚に病変を作らない精製痘苗)が分かっているだけ。
1922年からは東京・麹町区平河町6丁目5番地で糖尿病、動脈硬化などの診療。医院の広告をしばしば新聞に掲載している。