35.新刊書:「ウイルスと地球生命」岩波科学ライブラリー

上記の著書が刊行されたので紹介させていただきます。病原体としてのウイルスではなく、地球上の生物と共生しているウイルスという視点からまとめたものです。目次、まえがき、あとがきの一部を転載します。

目次

まえがき

序章 あなたはウイルスに守られて生まれてきた

1.ウイルスはどのようにして見いだされか?
微生物が病気を起こす — ウイルスが見つかるまで
最初のウイルス発見 — 口蹄疫
人の最初のウイルス — 黄熱ウイルス
ウイルスの本体が分かるまで

コラム:ウイルスという呼び名

2.ウイルスは生きているか?
ウイルスは「生物か無生物か」論争
生物とウイルスは何が違うか
細菌とウイルスの間に位置するミミウイルスの発見
ミミウイルスがきっかけになった生物の新分類の提唱
生命体としてのウイルス

3.人のウイルスはどこから来たか?
進化とともに人に受け継がれたウイルス
農耕・牧畜社会で家畜のウイルスは人ウイルスに進化した
現代社会で新たに出現する人ウイルス

4.生物界を動きまわるウイルス
陸のライオンと水のアザラシを殺すイヌジステンパーウイルス
アシカのウイルスが豚へ
植物界から動物界に移動するウイルス

コラム:イヌジステンパーウイルス

5.病原体だけではないウイルスの意外な役割
ハチの共生ウイルスは幼虫の発育の場を提供する
「覚悟」ウイルスに感染した働きバチ
生存競争を左右するウイルス
宿主の遺伝子となったウイルス
人の進化を推進したウイルス
ヒトの進化を推進したウイルス
ウミウシに光合成遺伝子を持ち込んだウイルス
植物に耐熱性や干魃耐性を与えるウイルス

コラム:豚内在性ウイルスと異種移植

コラム:ウイルスを食べるウイルス

6.病気を治すウイルスの利用
ウイルスと遺伝子治療
ガンと闘うウイルス療法
細菌を食べるウイルス — ファージ療法

7.広大なウイルスの世界
地球上には膨大な種類のウイルスが存在する
ウイルスはシロナガスクジラ七五〇〇万頭、一〇〇〇万光年
海のウイルスと地球環境
ウイルス世界探索の始まり

コラム:メタゲノミクスによる人のウイルス探索

あとがき

文献

まえがき

ウイルスと言えば、誰でもすぐにインフルエンザやポリオなど数多くの病名が頭に浮かんでくるように、ウイルスは病気を起こすものとみなされている。ところが最近、ウイルスが人の胎児の保護に働いていることを初めとして、いくつもの重要な役割を果たしていることが明らかになってきている。これまでとはまったく異なるウイルスの存在意義を考えてみよう。

ウイルス学の歴史を振り返ってみると、一八九七年、牛の間で広がっていた口蹄疫の原因として顕微鏡では見えず細菌濾過器も通過する病原体(ウイルス)の最初の発見に始まる。ウイルスという名称は紀元前から漠然と病気を指す言葉で用いられていたのだが、ここで科学としてのウイルス学が始まったのである。ウイルス学はウイルスを病気の原因という視点から取り上げてきた。まず人の重要な伝染病の原因として黄熱ウイルス、ポリオウイルス、麻疹ウイルスなどが発見され、これまでに人の病原体としてのウイルスが数多く明らかになっている。家畜でも同様に口蹄疫ウイルスを初めとして多くの家畜伝染病のウイルスについて研究が行われ畜産の振興に貢献している。さらに最近ではエボラウイルスや鳥インフルエンザウイルスのように野生動物から人に重い病気を起こす人獣共通感染症のウイルスに公衆衛生の面から強い関心が寄せられている。一方、植物ではタバコモザイク病など栽培植物に病気を起こすウイルス、魚では水産業に被害を及ぼしている養殖魚のウイルスについて研究が進んでいる。

このように、われわれが知っているウイルスを眺め直してみると、そのほとんどは、病気の原因になるもので、しかも人と直接または間接的に関連のあるものに限られている。例外は細菌のウイルスすなわちバクテリオファージで、これは基礎ウイルス学や分子生物学の重要な研究手段となっている。

二十世紀に病原体としてのウイルスについて著しく進展したウイルス学は二十一世紀が始まる頃から新しい展開を始めている。二〇〇〇年にはある種のレトロウイルスが人の胎児を守っていることが明らかにされた。病気の原因とみなされてきたウイルスが人間の存続に重要な役割を果たしていることが示されたのである。二〇〇四年には細菌の機能の一部を持った巨大なウイルスの存在が報告され、ウイルスは生物ではないとしてきた見解に新たな議論を引き起こしてきている。さらに驚くべき事実は、二〇〇三年に発表されたヒトゲノム(人の全遺伝情報)の研究の成果の中でヒトゲノムの九パーセントはヒト内在性レトロウイルス、三四パーセントがレトロトランスポゾン、三パーセントがDNAトランスポゾンだったことである。トランスポゾンとは生物の間を自由に移動できる因子であり、その大部分を占めているレトロトランスポゾンは数千万年前に感染したレトロウイルスの祖先の断片とみなされている。さらにDNAトランスポゾンと共通の遺伝子構造を持ったウイルスの発見が二〇一一年に報告された。このように見ていくと我々が持っている遺伝情報の約半分はウイルスに関連したものということになる。これらの事実はウイルスが単に病気の原因だけではあり得ないということを示している。その結果、ウイルスを病気とは別の視点から眺め直すようになってきた。そうした議論の中でとくに注目されているのは霊長類が誕生した時にレトロトランスポゾンの爆発的増加があったことである。これからレトロトランスポゾンすなわちウイルスの祖先が持ち込んだ遺伝因子により霊長類が生まれたことが推測され、ウイルスが生物の進化の推進に重要な役割を果たしてきた可能性について関心が高まってきている。一方、十九世紀終わりには海洋には膨大な数のウイルスが見つかり始め、二十一世紀に入ってからは、海洋のウイルスが地球環境たとえば二酸化炭素の蓄積、雲の形成にかかわっている可能性が明らかにされてきている。人間の世界を超えて広く地球規模の視点からウイルスの生態を理解することがこれからの重要な課題と見なされるようになった。

ところで、ウイルスは三〇億年前には存在していたと考えられている。最古の猿人は七〇〇万年前に現れ、現生人類(ホモ・サピエンス)が生まれたのは二〇万年前に過ぎない。これだけ異なる時間軸での地球上の出来事を比較するものとして生命の一年歴というのがある。地球が誕生した四六億年前から現在までを一年に置き換えたもので、これによると最初の生命が誕生したのは二月末、ウイルスの誕生は五月初めになる。現生人類の誕生は十二月三一日午後十一時三七分で、一年が終わる最後のひとときとなる。われわれとは比べものにならない長い間存続してきたウイルスが地球上にどれくらい存在するのだろうか。これまでわれわれが関心を抱いてきたウイルスのほとんどは陸地の生物に寄生するウイルスであるが、二〇世紀終わりから、海がウイルスの巨大な培養槽であることが明らかになってきた。海には地球上のウイルスの大部分が生息していて、その数は天文学的なものになることが分かってきたのである。生物の骨組みといえる炭素の量で比較すると海に含まれるウイルスの炭素の総量はシロナガスクジラ七五〇〇万頭分の炭素量に匹敵するという試算もある。三〇億年の間に蓄積されてきたウイルスの多様性も計り知れない。ウイルスはまさに地球上で最大の多様性を持つもっとも数の多い生命体といえる。

しかし、これまでに出版されているウイルスに関する書籍で、このような視点からウイルスの存在を解説したものは海外も含めて皆無である。そこで、人を中心とした視点ではなく、生命体としてのウイルスの視点から本書をまとめてみた。ウイルスのこのような新しい見方にいささかなりとも関心が持たれることを期待している。

あとがき

私がウイルス研究の世界に入ったのは一九五五年、北里研究所で天然痘根絶のための天然痘ワクチンの耐熱性改良に取り組んだ時からであった。一九七〇年代には国立予防衛生研究所(予研)で麻疹ウイルスの研究と麻疹ワクチンの国家検定に従事するかたわら、麻疹ウイルスの祖先とみなされている牛疫ウイルスのウサギ感染モデルを用いた発病メカニズムの研究を行い、この研究は一九八〇年代に東大医科学研究所で始めた組み換え牛疫ワクチンの開発につながった。天然痘と牛疫は有史以来人類にもっとも大きな被害を与え世界史にも影響を及ぼしてきた代表的なウイルス感染症であるが、天然痘は一九八〇年に世界保健機関から根絶宣言が発表され、牛疫は二〇一一年国連農業食糧機関と国際獣疫事務局により根絶宣言が発表された。人類が根絶に成功したウイルス感染症はこの二つだけであり、幸いにも私はその両感染症の根絶にいたる過程を体験することができた。一方、予研での麻疹ワクチンの検定や研究ではサルが重要な実験動物であった。サルは野生のものであり人への致死的感染を起こすウイルスを数多く持っていることがきっかけとなって人獣共通感染症のウイルスが新たに私の研究対象に加わった。こうして病原体としてのウイルスは、半世紀にわたる私の研究人生のパートナーであった。

医科学研究所を退官した後、一九九五年からはインターネットによる連続講座「人獣共通感染症」を始め、エボラウイルス、BSEなど多くの動物由来感染症の情報を提供してきた。これは二〇一〇年一八一回で終了したが、その際に連続講座の読者から届いた一つの質問に引きつけられた。「細菌に善玉があるようにウイルスに善玉はあるのか」というものであった。それまで、まったく考えたことがないウイルスの側面である。それから文献を調べているうちに、二〇〇〇年に発表されたヒト内在性レトロウイルスが人の胎児を守っているという報告を見つけた。これがきっかけとなって全く新しい視点で眺めたウイルスの側面を「ウイルスと人間」(岩波書店二〇〇五年)で簡単に紹介した。その後、ヒト内在性レトロウイルスだけではなくヒツジの内在性ヤーグジークテウイルス、寄生蜂のポリドナウイルス、植物に耐熱性を与えるChTウイルスなど、哺乳動物、昆虫、植物などに共生し、これら宿主の生存を助ける働きを担っているウイルスの存在が明らかになってきた。

二〇〇九年から二〇一〇年にかけて雑誌「現代化学」(化学同人)に連載した「ウイルス世界への旅」では、善玉としてのウイルスに加えて生物の進化を推進するウイルス、地球環境に影響を与える海洋のウイルスなど、病原体としてだけではなく生命体としてのウイルスの地球上での生態を紹介してきた。これらの内容をさらに充実させて出来上がったのが本書である。