東京大学医科学研究所(医科研)では家畜群霊塔と書かれた石碑の前で毎年、動物慰霊祭が行われています(図1)。この石碑は大正3年(1914)6月13日に医科研の前身である伝染病研究所(伝研)の所長・北里柴三郎が建立したもので、碑文は増上寺の77代大僧正・堀尾貫務(87歳)が書いたものです(図2)。この年の10月末に、伝研は北里が知らされないまま内務省から文部省へ抜き打ち移管されたため、北里はこの移管に反対して11月5日に辞職し北里研究所を設立しています。したがってこの石碑は北里の辞職直前に建立されたことになります。日本で動物実験を最初に行ったのは北里なので、この石碑は日本で最初の動物慰霊碑とみなされます。当時の伝研では南京ネズミ、モルモット、ラットなどの実験動物が用いられていましたが、この石碑は家畜を対象としたもので、大正10年の写真(図1)では家畜群霊祭となっています。ジフテリアや破傷風などの免疫血清製造のために馬を、痘苗(天然痘ワクチン)製造のために牛を多数用いており、これらが主要業務であったためと推測されます。
(余談ですが、南京ネズミとはどういったネズミなのか興味があったので、医科研実験動物研究施設時代に一緒だった田中愼先生にお聞きしたところ、次のことが分かりました。日本産マウスの研究をライフワークにされている理研の森脇和郎先生がコペンハーゲンのペットショップで見つけ、赤痢菌発見者でもある伝研の志賀潔が南京マウスの特徴として記載していた斑紋を確認されました。現在、理研で近交系のJF1/Msf(図3)の名前で保存されています。
https://database.riken.jp/sw/ja/JF1_Msf/cria315s1ria315u100000000639i/
驚いたことにこれは、パンダマウスという名前でペットショップで売られているそうです。)
大正11年には釜山の朝鮮総督府獣疫血清製造所に動物慰霊碑が建立されました。この製造所は終戦の3年前に家畜衛生研究所と改名され、現在は韓国国立獣医科学検疫院の釜山支院となっていて動物慰霊碑だけが当時のまま残っています。この家畜衛生研究所の官舎で生まれ育った日本実験動物協会の大島誠之助氏から同氏が最近撮影された写真を頂いたのですが、その石碑の碑文は「一殺多生・南無阿弥陀仏・秋の風」となっています(図4)。ここは当時もっとも重要な家畜伝染病であった牛疫の対策のために設立された施設だったため、多数の牛を救うために犠牲になった牛の慰霊を意味する碑文と考えられます。この言葉は、由来は明らかではありませんが、軍国主義のもとで一殺を正当化するために当時しばしば用いられていたことから、中国大陸に侵攻が始まっていた時代を反映したものとみなせます。
家畜の慰霊に始まった動物慰霊碑は日本独自の動物福祉の象徴的存在になっている。1960年代、カナダのグエルフ大学では日本にならって石碑の前で実験動物のためのメモリアルサービスが行われていました(図5)。しかし、2010年8月に東京で開かれた国際獣医免疫研究会で古くからの知人である同大学のBruce Wilkie教授に訊ねたところ、このサービスを始めた教授が退職したのちは行われていないとのことでした。日本では古くから行われていた牛馬の慰霊の伝統的習慣がそのまま、現在につながっているのです。
2009年10月にパリで獣医学教育に関する国際獣疫事務局(OIE)の会議が開かれ、そこで動物福祉の問題も取り上げられました。会議の後、郊外にあるアルフォール獣医大学で開かれた懇親会に出席した際、この大学での家畜を用いた実験がヨーロッパでの動物福祉の歴史で大きな役割を果たしたことを思い出しました。それは1863年に行われた動物実習で、当時エーテル麻酔の技術は生まれていたにもかかわらず、馬に対して麻酔を行うことなく、60種類以上の外科的処置が施されていたことが引き起こした波紋です。このニュースが英国の新聞で取り上げられ、英仏の関係が険悪であったことも加わって激しい非難の声があがったのです。そして、これがきっかけで動物実験への関心が高まり、1867年に世界初の動物虐待法が英国で制定され、動物の生体解剖を行う者はライセンスを獲得し毎年内務省に報告書を提出することが義務づけられました。これが、現在の動物福祉へとつながったのです。
ところで、動物実験における動物福祉では、いわゆる3R (Reduction, Replacement, Refinement)が原則となっていて、マウスなどの実験動物をはじめサルにも当てはめられています。一方、家畜福祉については、英国の家畜福祉協議会(注)は農場の家畜に対して以下の5つの自由を提唱しています。
1.飢えと渇きからの自由:健康と活力維持のために新鮮な水と餌の補給
2.不快からの自由:適切な環境の確保
3.痛み、傷害または病気からの自由:予防、迅速な診断、処置
4.正常な行動を行う自由:十分なスペース、適切な施設、同種動物との触れあい
5.恐れと苦痛からの自由:精神的苦しみを避ける条件と処置の確保
注:英国政府が1979年に設立した諮問委員会。2011年4月にスコットランド・ウエールズ環境・食糧・農村地域省の家畜福祉委員会(Farm Animal Welfare Committee)に改組されました。
この原則は農場での家畜を対象としたものです。一方、医学の種々の領域で豚が利用されています。さらに、クローン技術など生殖工学の進展により、最近では難病、移植、再生医療などの研究のために遺伝子改変豚の作成が進められています。iPS細胞から人の臓器を作成する場合にも豚を用いることが検討されており、最初の段階として膵臓細胞を作成する技術の開発が始まっています。これらの研究用の豚に対して、3Rの原則をそのまま当てはめることには疑間があり、農場の家畜と同様に5つの自由の原則をそのまま当てはめることも難しいかもしれません。OIEの動物福祉作業部会でも家畜福祉の検討が行われていますが、実験動物としての家畜に関しては、まだとくに見解は出していません。動物福祉の歴史に深くかかわってきた家畜が、動物福祉の考え方に新しい問題を提起していることを認識しなければなりません。
(LABIO 21, 2010年4月号に加筆)
参考資料
山内一也「異種移植」河出書房新社、1999