38.絹蛋白質を利用した耐熱性ワクチンの開発

796年にジェンナーの種痘から始まったワクチンの歴史を通じて、現在にいたるまで、ワクチンの保存法は地味ながらきわめて重要な課題です。その一端は本連載29回「ワクチンによる感染症の根絶:2.天然痘の根絶」で簡単に紹介してあります。

20世紀に入って冷蔵庫が普及し始めてから、先進国ではワクチンの保存は容易になりましたが、発展途上国の多くは熱帯地域で、しかもワクチンの力価を保つための冷蔵輸送、冷蔵保存といったコールド・チェーンが整備されていません。コールド・チェーンの不備により全世界のワクチンのほぼ半分が失われているという試算もあります。

これまで試みられてきたワクチンの保存法は、主にペプトンやグルタミン酸ソーダなどの保護物質の添加や凍結乾燥の条件の改善によるものでした。私の最初の研究テーマは北里研究所で行った天然痘ワクチンの耐熱性改善でした。そして最後の研究は、東大医科学研究所と日本生物科学研究所で取り組んだ耐熱性組み換え牛疫ワクチンの開発でした。これは天然痘ワクチンをベクターとして、それに牛疫ウイルスのエンベロープ蛋白遺伝子を組みこんだものです。ワクチンの耐熱性は、私の研究人生の最初と最後の課題だったのです。

保護物質としてグルタミン酸ソーダを添加した私たちの耐熱性天然痘ワクチンは、世界保健機関(WHO)の天然痘根絶計画の一端としてネパールで用いられました。一方、国連食糧農業機関(FAO)の牛疫根絶計画では、凍結乾燥条件を改善して耐熱性を高めたワクチンが米国で開発され、それによる根絶が進んだために、私たちの組み換えワクチンは利用されずに終わりました。天然痘は1980年にWHOにより根絶宣言が発表され、牛疫は2011年にFAOと国際獣疫事務局(OIE)により根絶宣言が発表されました。人類が根絶に成功したのは、この2つだけです。そして、いずれの根絶計画もワクチンの耐熱性の改良に支えられたのです。

ところで、最近米国タフツ大学のDavid Kaplanのグループが、蚕の繭糸の繊維状の蛋白質フィブロインを利用する耐熱性ワクチンの作成という、画期的と思われる方法を米国科学アカデミー紀要のonline版(2012年7月9日)に発表しました。

http://www.pnas.org/content/early/2012/06/29/1206210109.full.pdf+html

彼らの方法は次のとおりです。まず繭を炭酸カルシウムの溶液の中で煮沸させてフィブロインを分離し、リチウム・ブロマイド溶液に溶かした後、水で透析してフィブロイン溶液を作ります。これにワクチンを等量加えた後、テフロンでコートした鋳型の中で乾燥させて作ったフィルムを凍結乾燥します。フィブロインのフィルムには数百ナノメーターの小さなポケットができていて、このポケットは水をはじく分子に囲まれています。その中にワクチンのウイルス粒子が閉じ込められているのです。

彼らの論文では、麻疹・ムンプス・風疹の3種混合ワクチンにこの方式を応用した成績として、25℃、37℃、45℃で6ヶ月間保存した場合、いずれの温度でも元の力価の85%以上が保たれていたことが紹介されています。そして、ほかのワクチンや抗生物質など、さまざまな医薬品にも応用できることが述べられています。

32回「ワクチンによる感染症の根絶:5.麻疹」で紹介したように、麻疹の根絶計画は足踏み状態です。とくに発展途上国で、麻疹は小児の死亡の最大の原因のひとつになっていますが、現在の麻疹ワクチンは冷蔵保存しなければなりません。今回の新しい方式がこの問題解決に役立つものと期待されます。