狂犬病から回復した最初の例
狂犬病に感染した場合、直ちにワクチン接種と免疫血清の投与を行うことで発病を防ぐことができます。狂犬病ウイルスは神経を通って脳に運ばれるまでに時間がかかるため、それまでに最初は免疫血清が、ついでワクチンによる免疫がウイルスの脳内での増殖を阻止すると考えられています。
一旦発病した人は、治療法がなく、助かることはないとされてきました。ところが、米国ミルウォーキー州で2004年に狂犬病にかかった少女がワクチンや免疫血清を使わず、治療だけで回復した例が出て、かなりの話題になりました。人獣共通感染症連続講座176回では、「狂犬病を発病した患者の最初の回復例」として紹介しました。
ところで、今年出版されたBill WasikとMonica Murphy が共著の“Rabid: A Cultural History of the World’s Most Diabolical Virus”(狂犬病のような:世界でもっとも悪魔的なウイルスの文化史)という狂犬病の歴史を中心とした本を読んだところ、その中でミルウォーキーの回復例の詳細が紹介されていました。WasikはWired誌やHarper誌の編集者、Murphyは彼の妻で獣医公衆衛生の専門家です。人獣共通感染症の記事と一部重複し、また若干食い違うところもありますが、最新の情報として要点をまとめてみます。
2004年10月、ミルウォーキー州のウイスコンシン小児病院に15歳のハイスクール生徒ジーンナ・ギーズ(Jeanna Giease)が入院してきました。小児感染症の専門医ロドニー・ウイロビイ(Rodney Willoughby)が診察したのですが、疲労感、嘔吐、視野撹乱、精神錯乱、運動失調などの症状を示しており、脳の感染症を疑ったのです。症状は急激に悪化し唾液過多、左腕のけいれんなどが出現してきました。両親の話では、入院する4週間前、教会でのミサの最中に飛び込んできて窓にぶつかって落ちたコウモリをつかまえて外に出してやった際、左手親指を咬まれたということでした。狂犬病以外の原因を疑っていたウイロビイは、狂犬病の可能性を否定する目的で患者のサンプルをアトランタの疾病対策予防センター(CDC)に送りました。アメリカではコウモリから狂犬病ウイルスに感染することがしばしばあるためです。
翌日の夕方、CDCから結果が届きました。ウイルスは検出されなかったが血液と髄液で狂犬病ウイルス抗体が陽性でした。髄液抗体陽性は脳内での狂犬病ウイルス増殖の間接的証拠です。コウモリに咬まれたこと、特徴的な臨床経過、ほかに可能性のある病気は見当たらないことを併せ考えて、ジーンナは狂犬病と診断されたのです。
ウイロビイ医師は、狂犬病ウイルスは炎症を起こさず脳の細胞を破壊していないこと、その代わりに脳からの指令ネットワークを阻止して、その結果として心臓の活動や呼吸といった根本的な機能を破壊していると考えました。そこで、「狂犬病と神経伝達物質」「狂犬病と神経防御」といったキーワードで文献検索した結果50編以上の文献が見つかり、それらをもとに治療方針を最終的にまとめたのです。それは、狂犬病は基本的には神経伝達を冒す病気であって、神経細胞に大きなダメージを与えるものではなく、免疫系が狂犬病ウイルスと闘うように治療することが重要というものでした。
そして神経内科医、感染症専門医、麻酔医などのチームで治療を始めました。麻酔薬ケタミンには、ラットの実験で狂犬病ウイルスの阻止効果が見られたという論文があったので、ケタミンの静脈注射で昏睡状態とし、抗ウイルス薬のアマンタジン、鎮静剤を与え、途中からは抗ウイルス剤リバビリンも投与しました。7日間昏睡状態が続いた後、血液と髄液について狂犬病ウイルス抗体を調べたところ著しい上昇が認められました。患者の免疫系がウイルスと闘っていることが推測されたのです。そこで、麻酔薬の量を徐々に減らしていきました。脳波の所見が改善しはじめ、瞳孔が光に反応するようになりました。麻酔薬を止めてから3日目には下肢の腱反射が出現し、徐々に回復して1ヶ月後には集中治療室から一般病棟に移り2005年1月1日に車いすで退院しました。
年とともに運動機能は改善し、カレッジで生物学を専攻し、2011年春には卒業しました。
彼女は現在、YouTubeに数多くの自作のビデオを掲載して、世界初の狂犬病からの回復者として狂犬病対策の重要性を説いています。http://www.youtube.com/watch?v=VT7yoyKbYu0
ビデオでは、彼女と両親の説明が聞け、入院当時の転げ回る激しい症状から、退院したのちのリハビリの状況なども見ることができます。何人もの狂犬病患者の症状のビデオもあり、本のサブタイトルのように、悪魔的といえる症状が見られます。狂犬病患者の症状を見た医師はほぼ皆無なので、貴重な映像と思います。カレッジ卒業式を紹介したFOXテレビの番組では、一度は完全に麻痺した左手で卒業証書を持ち右手で学長に握手している様子が写されています。ウイロビイ医師も登場して経緯や感想などを述べており、CDCの狂犬病専門家チャールズ・リュプレック(Charles Ruprecht)のコメントなども聞くことができます。また、彼女はFacebookにJeanna Rabies-survivor Gieseのaccountを持っています。http://www.facebook.com/rabiessurvivor
ウイロビイの治療法はミルウォーキー・プロトコールとして、その後、6例の成功例があるそうですが、医学論文として報告はされていません。一方、失敗例は少なくとも2例が報告されています。この方法が本当に有効なのかどうか、議論はまだ続いているようです。CDCのリュプレックは、「我々は予防にもっと努めなければならない」「このプロトコールはすでに感染してしまった患者には望みを与えてくれる。しかし、最善の看護でも神経系の障害なく回復するチャンスはきわめて少ない。」とコメントしています。