64. 新しいエマージング感染症、中東呼吸器症候群MERS(マーズ)

最初の発生

2012年6月中旬、サウジアラビアの小さな都市ビシャーに住む60歳の裕福なビジネスマンが発熱、咳、血痰、息切れが1週間続き首都リヤドに次ぐ大都市のジッダの病院に入院した。直ちに集中治療室に入れられたが、11日目に肺炎と腎臓障害で死亡した。

患者のサンプルはオランダ・ロッテルダムにあるエラスムス大学メディカル・センター(EMC)に送られた。入院直後に採取した痰をLLC-MK2細胞(アカゲザルの腎臓由来)とVero細胞(ミドリザルの腎臓由来)に接種した結果、ウイルスが分離された。血液からは分離されなかった。分離ウイルスのゲノムを解析したところ新しいタイプのコロナウイルスと判明した。当初、このウイルスはヒトコロナウイルスEMC(HCoV-EMC)と呼ばれた(1)

9月にはカタールに住む49歳の男性が同様の症状で英国の病院に入院した。分離されたウイルスの遺伝子の塩基配列はHCoV-EMCとほとんど同一だった。なお、この患者は回復した。11月にはカタールで1名、サウジアラビアで4名の患者が見つかり、そのうち2名が死亡した(2)

ウイルスの特徴

コロナウイルスによる致死的肺炎は、2003年世界29カ国・地域で発生し8000人あまりの患者、約800人の死亡を引き起こしたSARS(サーズ)に似ていたため、分離ウイルスは当初はSARS様コロナウイルスとも呼ばれていた。しかし、遺伝子構造がSARSコロナウイルスとは大分異なっていたため、2013年5月に国際ウイルス命名委員会はMERSコロナウイルス (MERS CoV)と命名した。コロナウイルスにはαコロナウイルス、βコロナウイルス、γコロナウイルスの3つの属があり、MERS コロナウイルスとSARSコロナウイルスはともにβコロナウイルスに属している。αコロナウイルスには人で風邪を起こす229Eウイルスがある。γコロナウイルス属にはシロイルカコロナウイルスとトリコロナウイルスと動物に感染するウイルスだけがある。

当初、MERSコロナウイルスはSARSコロナウイルスと同じ受容体(アンジオテンシン変換酵素2、ACE2)を介して感染すると考えられていた。しかし、ACE2に対する抗体はMERSコロナウイルスの細胞への感染を阻止しなかった。MERSコロナウイルスの受容体はSARSの場合と異なり、ジペプチジルペプチダーゼ4(DPP4)**ということが明らかにされた。DPP4はセリンプロテアーゼの一種で多くの哺乳類、コウモリ、サル、家畜などに分布している。そのため、異なる動物種の間で容易に感染を起こすおそれが指摘されている(3)

*血圧の制御を行う酵素ACEの相同体。
**T細胞などでは分化マーカーのCD26として発現している。

コロナウイルスは桁外れに大きなRNAウイルスで、そのゲノムのサイズはほかのRNAウイルスの2〜3倍と大きい。ウイルスは複製される際に変異を起こしやすく、さらにコロナウイルスの間での組み換えもしばしば起きている。SARSコロナウイルスもコウモリのウイルスがハクビシンなどの野生動物で感染を繰り返している間にほかのコロナウイルスと組み換えが起きて出現したと推測されている。MERSコロナウイルスでも変異が心配されているが、現在のところ韓国で流行しているウイルスのゲノムは中東の流行ウイルスとほぼ同じで、人の間で広がりやすくなるような変異は起きていない。

MERSの感染源

2013年11月初め、サウジアラビア・ジッダの大学病院の43歳の入院患者でMERSが疑われた。患者は10月初めに飼育している9頭のヒトコブラクダのうちの数頭が鼻水を垂らしているのに気がつき10月末に彼が発病するまで、1日おきに3時間かけて病気のラクダの鼻面と鼻孔にハーブの治療薬を塗っていた。またラクダのミルクを飲んでいた。ラクダから感染した疑いが出てきたため、サウジアラビア保健省が調査したところ、2頭の若いラクダの鼻のぬぐい液でMERSコロナウイルスの遺伝子断片が検出された。英国とドイツに送られたサンプルでの詳しい検査により、患者はラクダから直接感染したと考えられた。ラクダの血清は2回にわたって採取されていて、その間にMERSコロナウイルスの抗体価が上昇していたことから、ラクダがウイルスに感染して間もないことが推測された(4)
ヨルダン、サウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、エジプトで家畜についてウイルス抗体調査が行われ、ヒトコブラクダでMERSコロナウイルス抗体が見いだされた。また、と畜場で集めた110頭の外見健康なヒトコブラクダの鼻ぬぐい液を調べた結果、4頭(3.6%)でMERSコロナウイルスの遺伝子が検出されたが、と畜場の従業員179名でウイルス抗体を持った者はいなかった(5)
こうしてMERSコロナウイルスの感染がラクダから起きていることが推測されたが、ラクダが自然宿主とは考えられなかった。SARSコロナウイルスの自然宿主としては、キクガシラコウモリが疑われていることから、MERSコロナウイルスでもコウモリが自然宿主と推測された。2012年10月と翌年4月の2回にわたって米国コロンビア大学などのチームはコウモリについての調査を行った。最初の調査では、第1号患者の家から12キロ以内と勤め先から1キロ以内のコウモリをカスミアミとハープトラップで捕獲し、2回目はさらに広範囲の地域で捕獲を行った。全部で96匹のコウモリを捕獲し、のどと腸のぬぐい液、血液などを採取し、コウモリは放した。これらのサンプルのうち、1匹の糞便からMERSコロナウイルスとまったく同じ塩基配列のウイルス断片が見つかった。しかし、調べられたのは190塩基だけで、これはコロナウイルスの約3万の塩基のごく一部であるため、コウモリが自然宿主という結論とはみなされていない(6)

*コウモリ捕獲用の装置で、四角のフレームの中に縦糸が張ってあって、これにコウモリがひっかかる。

韓国での発生

2015年2月のWHOの報告では、MERS発生国は中東10カ国(エジプト、イラン、ヨルダン、クエート、レバノン、オマーン、カタール、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、イエメン)、アフリカ2カ国(アルジェリア、チュニジア)、ヨーロッパ8カ国(オーストリア、フランス、ドイツ、ギリシア、イタリア、オランダ、トルコ、英国)、アジア3カ国(マレーシア、フィリピン、北朝鮮)、米国の計24カ国だった。患者の85%以上はサウジアラビアが占めていた。

5月20日韓国で最初の患者が報告された。68歳の男性で5月4日にカタールを経由してバーレーンからソウルの南80キロあまりの牙山(アサン)市に帰国していた。5月11日発熱、咳が出始め、翌日地元の診療所に行き14日と15日も受診したが医師は診断ができず、彼が5月初めにサウジアラビアとアラブ首長国連邦に行っていたことは知らないまま、ソウルの南60キロの平沢(ピョンテク)市のセントメリー病院を紹介した。しかし症状が改善しないため5月17日彼はソウルに行き小さな病院を受診し、そこでX線検査により肺炎が疑われ、ソウルにある韓国最大の病院のひとつ、サムスンソウル病院を紹介された。翌日受診したところ、医師は彼が中東からの帰国ということを知ってMERSを疑い、彼は隔離され、検査の結果5月20日にMERSと診断された。最初の受診から8日後で、4つめの病院だった。
ソウル大学校の公衆衛生教授は、病院の混雑した環境が弱点と指摘しており、その面でセントメリー病院はウイルスの拡散に理想的だったと述べている。ニューヨークタイムズ紙は6月9日と10日の2回にわたって韓国の病院システムを取り上げ、読者から寄せられた韓国の病院に入院した際のさまざまな経験も紹介している。そこで強調されているのは、患者の家族が患者の身の回り一切の世話をしなければならないことである。そのために、病室には家族のための小さなベッドがあり、一般的な6人部屋だと12名が一緒に眠り、1個だけの洗面台を使用しているという。(7,8)
6月13日WHO調査団(疫学、リスクコミュニケーション、ウイルス学、臨床管理、感染症対策、公衆衛生などの専門家)は、ひとりの旅行者から短期間に大きな発生となった理由をいくつか挙げた。韓国のほとんどの医師にとってMERSの発生は予想外で知識も欠けていたこと、病院の救急室の超過密状態と多くのベッドが置かれた病室、患者がいくつもの病院を回るドクター・ショッピングの習慣、多くの知人や家族が患者面会に訪れること、などである(9)
6月14日現在、確認された患者は145名、うち14名 (10.1%) が死亡している。

ワクチンと治療薬

ワクチン開発の動きは見受けられない。SARSではワクチン開発が10年以上にわたって行われてきた。米国ではウイルス粒子表面のS蛋白質遺伝子DNAをプラスミドに組み込んだDNAワクチンが開発され第1相臨床試験が行われたが、中断しているらしい。病気が制圧されたためであろう。また、コロナウイルスに対するワクチンにより成立した免疫は、感染防止ではなく、むしろ病状を悪化させるおそれがあるという問題を抱えている(10)。そのため、MERSに対するワクチンは人ではなく、人への感染源になるラクダに対して開発する方が現実的との見解も出されている (11)
一方、治療または暴露された場合の発病防止のために、MERSコロナウイルスのS蛋白質に対するモノクローナル抗体の開発がハーバード大学と中国の2つのグループで行われている(12)。しかし、ワクチンの場合と同様に、抗体が症状を悪化させる問題が出てくる可能性がある。

 

エマージング感染症としてのMERS

21世紀に最初に発生したエマージング感染症はSARSだった。そして、同じ仲間のウイルスによるMERSが出現した。ロンドン大学インペリアルカレッジ疫学教授クリストファー・フレーザー(Christopher Fraser)は、感染症の激しさを決める要因として次の4つをあげている。①病気はどれくらい重症になるか。②人から人にどれくらい容易に広がるか。③症状が出現するどれくらい前から感染を広げるか。④ワクチンや治療薬で予防または処置できるか。どの要因が該当しても大きな混乱は起こりうるが、世界的脅威になるのはほぼすべての要因が揃った場合に限られる。
SARSはあっという間に全世界に広がったが、空気感染はスーパースプレッダーが関わった集団で見られただけだった。SARSでとくに重要な点は、第3の要因が欠けていたことである。周囲に感染を広げるようになるのは症状が現れたのちで、そのためウイルスが広がる前に検疫・隔離ができたのである。MERSも同様に症状が出てから隔離することで広がるのを防ぐことができる。しかも人の間での伝播力はSARSの場合よりも弱いようである。SARSのような国際的広がりは起こりにくいと考えられるが、人の間で広がり続けると、変異が進んで広がりやすくなるおそれは否定できない(13)

文献

1. Zaki, A.M. et al.: Isolation of a novel coronavirus from a man with pneumonia in Saudi Arabia. N. Engl. Med., 367, 1814-1820, 2012.

2. European Center for Disease Prevention and Control: Severe respiratory disease associated with a novel coronavirus. 19 Feb. 2013.
http://ecdc.europa.eu/en/publications/Publications/novel-coronavirus-rapid-risk-assessment-update.pdf

3. Butler, D.: Receptor for new coronavirus found. Nature. 495, 149-150, 2013.

4. Memish, Z.A. et al.: Human infection with MERS coronavirus after exposure to infected camels, Saudi Arabia, 2013. Emerg. Infect. Dis., 20, 1012-1015, 2014.

5. Chu, D.K.W. et al.: MERS coronaviruses in dromedary camels, Egypt. Emerg. Infect. Dis., 20, 1049-1053, 2014.

6. Memish, Z.A. et al.: Middle East Respiratory Syndrome coronavirus in bats, Saudi Arabia. Emerg. Infect. Dis., 19, 1819-1823, 2013.

7. Sang-Hun, C.: MERS virus’s path: one man, many South Korean hospitals. New York Times, June 8, 2015.
http://www.nytimes.com/2015/06/09/world/asia/mers-viruss-path-one-man-many-south-korean-hospitals.html

8. Ingbar, H.: Amid MERS outbreak, readers reflect on South Korean hospitals. New York Times, June 9, 2015.
http://www.nytimes.com/2015/06/10/world/asia/amid-mers-outbreak-readers-reflect-on-south-korean-hospitals.html

9. WHO: WHO recommends continuation of strong disease control measures to bring MERS-CoV outbreak in Republic of Korea to an end.
http://www.wpro.who.int/mediacentre/releases/2015/20150613/en/

10. 山内一也、三瀬勝利:ワクチン学。岩波書店、2014.

11. Weintraub, K.: Why a MERS vaccine won’t be easy. May 23, 2015.
http://news.nationalgeographic.com/news/2014/05/140523-mers-vaccine-camels-virus-flu-saudi-pandemic-science.

12. Schnirring, L.: Two MERS antibody studies may quest for treatment. April 28, 2014.
http://www.cidrap.umn.edu/news-perspective/2014/04/two-mers-antibody-studies-may-help-quest-treatment

13. Young, E.: The next plague: How many mutations are we away from disaster? New Scientist, May 6, 2015.