(11/15/03)
ウイルスと現代社会
フランスのパスツール研究所を支援する団体として「パスツール研究所支援協会」というのがあります。この協会の主催 により、11月5日に日仏会館で「境界なき感染症!病気は時間・空間・種の壁を越えて」という講演会が開かれ、パスツール研究所の細菌学のムハメド=ヘイール・タハ(Muhamed-Kheir Taha)博士が「さまざまの病原体と生体のかかわり」、私が「ウイルスと現代社会」という講演を行いました。
以下はその際の講演原稿をもとに整理してみたものです。なお、エマージング感染症の背景など、本講座でこれまでにとりあげた内容は割愛してあります。
今年の春、全世界に大きな衝撃を与えた重症急性呼吸器症候群SARSは未知の新型のコロナウイルスが原因とみなされています。一方、昨年、米国で大きな広がりを示したウエストナイル熱は、1930年代に分離されたウエストナイルウイルスによるもので、1999年に突然米国大陸に出現したものです。
このような新興・再興感染症の原因としてのウイルスが社会に与える影響があらためて認識され、ウイルスについての関心が急速に高まってきています。しかし、一般の人の間ではウイルスについて十分な理解が得られているとは思えません。
ウイルスは動物や植物などの細胞の中でのみ子孫を増やすことができる究極の寄生性微生物とみなせます。そのようなウイルスの実態、そしてSARSのようなウイルス感染症が出現してくる背景となっている現代社会について、お話してみたいと思います。
(1)ウイルスの起源
ウイルスがどのようにして生まれたか、その起源については、オーストラリアの偉大な免疫学者でウイルス学者でもあったマクファーレン・バーネット(Macfarlane Burnet)が1940年代に3つの仮説を提唱しています。なお、バーネットは細胞免疫学の樹立の業績に対してノーベル賞を1960年に与えられています。その後、議論はほとんどなく、1994年に「Evolutionary Biology of Viruses, Raven Press」で、スティーブン・モース(Steven Morse)がバーネット説について、あらためて詳細な解説を加えています。なお、モースはエマージング感染症という名称の提唱者で、ProMEDの創立者です。モースの解説を参考にして、この問題に触れてみたいと思います。
バーネットの説の第1は、ウイルスは病気の原因となる大きな微生物(たとえば細菌)が退化して生まれたものというものです。しかし、この微生物の退化説は最近ではほとんど否定的になっています。第2の説はDNA生物が出現する以前のRNAワールドの時代の面影を残したものという考えです。地球ができたのが46億年前で、一番古いDNA生物が出現したのは38億年前といわれています。それまではRNAの世界と考えられています。現在の生物はすべて遺伝情報としてDNAを持っていますが、ウイルスだけは例外でRNAを遺伝情報としているものが数多くあります。たとえば、エボラウイルス、ニパウイルスなど、エマージングウイルスのほとんどはRNAウイルスです。そこで、これがRNAワールドの遺物ではないかというわけです。第3の説は、細胞の遺伝要素の一部が細胞から飛び出したものという考えです。ウイルスはさまよえる遺伝子というわけです。この説が現在ではもっとも受け入れられています。とくに白血病などの原因となるレトロウイルスにはガン遺伝子があり、これに相当するものが動物の染色体に見つかります。
(2)ヒトのウイルスは動物由来
人類の祖先は100万年くらい前にアフリカに出現し、現在の人類ホモサピエンスが出現したのは20万年くらい前と考えられています。地球上にネズミが出現したのはおよそ6000万年前、ウシやブタの祖先が出現したのは5400万年前と考えられています。これらの哺乳類は人類よりはるか以前から地球上で生活していたわけです。人類が誕生する以前に、これらの動物にウイルスは寄生していたと考えられます。ホモサピエンスがアフリカからメソポタミア、インダス地域などに出てきて農耕生活を始め、家畜の飼育などにより動物と接触するようになったことで、動物のウイルスがヒトに感染し、ヒトの進化とともにウイルスがヒトに適応してヒトの間で広がるようになったと推測されています。
たとえば、麻疹ウイルスは今から8000年くらい前にヒツジやヤギから感染して、ヒトに適応した結果、ヒトの間でだけ増えるようになったものと推測されています。天然痘ウイルスは4000年くらい前に、ウマかウシからヒトに感染したものが、ヒトに適応して、ヒトにだけ感染するように変わったものと推測されています。
最近の例では、エイズの原因であるヒト免疫不全ウイルスがあります。これには2つのタイプ、HIV-1とHIV-2があり、エイズの最大の原因はHIV-1です。これは1930年代にチンパンジーからヒトに感染したと推測されています。チンパンジーからヒトに感染し、ヒトの間でひそかに広がっている間に現在のHIV-1になったということになります。HIV-1はもはやチンパンジーのウイルスではなく、ヒトのウイルスです。一方、西アフリカなど限られた地域ではHIV-2によるエイズも起きていますが、このウイルスはチンパンジーではなく、別のアフリカ産サルである、スーティマンガベイから20世紀のある時期にヒトに感染したものと推測されています。
現在、人獣共通感染症として動物由来ウイルスが問題になっていますが、ヒトの間でのみ存在しているウイルスも、もとは動物由来であってヒトに完全に適応したものと考えられます。
(3)究極の寄生性微生物であるウイルス
ウイルスは核酸としてDNAまたはRNAを持っています。核酸には遺伝情報が含まれており、この情報にしたがってウイルスは自分の子孫を複製できます。細菌は単一の細胞からできた微生物で細胞膜に包まれています。細胞の中には遺伝情報としてのDNAのほかに、タンパク質の合成に必要な代謝機構が含まれています。栄養分などは細胞膜を通して外界からとりいれます。細菌が増殖するのは、細胞分裂によるもので、これで子孫が増えていきます。一方、ウイルスには細胞膜はなく、代謝機構も持っていません。遺伝情報としての核酸といくつかのタンパク質だけです。ウイルスは子孫を作るための遺伝情報を持っていますが、その情報にしたがって子孫を作るための代謝系は、ウイルスが寄生する細胞に依存しています。しかも、細胞膜がないため、寄生している細胞の中で急速に子孫を増やすことができます。
ウイルスが細胞内に侵入すれば、子のウイルスが急速に増えてきます。試験管内で培養した細胞で調べてみると、ポリオウイルスの場合、1個の細胞の中に侵入した1個のウイルスは条件がよければ、10時間くらいの間に10万個くらいの子のウイルスを産生します。身体の中では天文学的な数のウイルスが短時間で産生されることになります。
ウイルスは生物か無生物かという議論が時にあります。私は、ウイルスは究極の寄生性微生物とみなすべきと、考えています。
(4)ウイルス学誕生以前に成功したウイルス感染症の予防
古くからもっとも恐れられていた病気に天然痘と狂犬病があります。これらはいずれもウイルスによる急性感染症です。
天然痘の予防は1790年にジェンナーが種痘を開発したことに始まります。彼はウシの間で起きていた牛痘にかかったことのあるヒトは天然痘にはかからないという話にヒントを得て、ジェイムス・フィップスという名前の少年に乳搾りの女性の腕にできた牛痘の病変の膿を接種したのですが、これが種痘の始まりでした。ジェンナーはその後、フィップス少年に天然痘患者の皮膚病変のサンプルを20回も接種してみて天然痘にならないことを証明してみせたのです。
種痘は急速に世界中に広がっていきました。しかし、当時は種痘を受けたヒトの皮膚の病変の膿をそのまま、別のヒトに接種していました。多くの場合、赤ん坊から子供に接種しており、「腕から腕へのワクチン接種」と呼ばれていました。そのために、種痘だけでなく、ほかの病気を移すこともありました。最悪の例としては、梅毒が移されたこともあります。
この問題を解決したのは、イタリアのナポリのネグリという名前の医師で、1805年にウシの皮膚で天然痘ワクチンを作る方法を考案したのです。しかし、これが諸外国に広がったのは1864年にフランスのリヨンで開かれた医学会議での発表の後でした。
1870年頃のニューヨークでの種痘の写真がありますが、ウシが真ん中に立っていて、そのまわりを種痘を受ける人たちが取り囲んでいます。ウシから直接、ヒトに接種されていたわけです。
この後、牛の皮膚病変の膿を集めて乳剤とする方法になりました。私が50年ほど前、大学を出て北里研究所に入所した頃、このようにして牛のお腹の皮膚で天然痘ワクチンを作っていました。WHOの天然痘根絶計画で威力を発揮したのも、この150年以上前に開発された古典的な方法で作られた天然痘ワクチンでした。
ジェンナーの時代、微生物の概念は生まれていませんでした。微生物の概念を提唱し、微生物感染の予防の道を開いたのはパスツールでした。彼は1879年には、ニワトリコレラ菌の病原性を弱めたものでニワトリの感染予防できることに成功し、これにワクチンという名前を付けました。ワクチンはラテン語で雌牛を意味するVaccaに由来しています。ジェンナーがフィップス少年への接種に用いた乳搾りの女性は、Blossom(花)という名前の雌ウシから牛痘に感染していました。ワクチンという名称は、ジェンナーの業績をたたえたものでした。
この成功に続いてパスツールは狂犬病ウイルスについても病原性を弱める試みを行いました。最初はサルを用いたのですが、これは成功しませんでした。そこで、ウサギに接種する方法に変えて、90代、ウサギからウサギに植えついだものをワクチンとして、1885年に狂犬病のイヌに咬まれたジョセフ・マイスターという名前の少年を助けるのに成功しました。パリにあるパスツール研究所の庭にはマイスター少年に狂犬がかみついている像があります。
振り返ってみると、天然痘と狂犬病の予防に成功した時代、まだウイルス学は生まれていませんでした。
(5)ウイルス学のはじまり
ウイルスが初めて発見されたのは1898年、牛の口蹄疫とタバコモザイク病の2つでした。その30年ほど前から炭疽菌、結核菌など細菌が続々と分離されており、細菌の狩人の時代が始まっていました。ドイツのフリードリッヒ・レフラー(Friedrich Loeffler)はジフテリア菌の分離に成功して、有名になっていました。
ウシの口蹄疫は現在でももっとも重要な家畜伝染病です。19世紀の終わり頃、口蹄疫はヨーロッパの畜産に大きな被害を与えていましたが、これも細菌による病気と考えられていました。そこで、ドイツ政府の命令でレフラーは原因の細菌の分離を試みたのです。口蹄疫は名前が示すようにウシの口やひづめに水疱をもった潰瘍を作る病気で、その水疱のサンプルを健康なウシに接種した結果、同じ病気を作るのに成功したのです。しかも、そのサンプルを細菌は通過できないフィルターを通しても病気を起こすことを見いだしました。細菌よりも小さい濾過性の病原体が体重200キロもある子ウシを発病させる驚くべき活性を示すと考えたのです。ここから現在のウイルス学が始まったといえます。
細菌は顕微鏡で見ることができますが、ウイルスは細菌の数十分の一以下と小さく、電子顕微鏡でなければ見ることができません。ウイルスの存在は動物に病気を起こすかどうかで、間接的に調べていたわけです。現在では動物のかわりに、試験管内で培養した細胞を破壊するかどうかで見ています。どちらにしても、動物または細胞に対する病原性がウイルスの指標になっています。
一方、1970年代に生まれた、遺伝子工学によりウイルスの遺伝子やタンパク質の構造を調べることが可能になりました。物質としてのウイルスの研究が可能になっているわけです。しかし、動物や細胞への病原性は現在でもウイルス研究の基本的手段です。
(6)天然痘根絶に続くエマージング感染症の認識
1980年、WHOは天然痘が全世界から根絶されたことを高らかに宣言しました。天然痘はウイルスによる感染症で、有史以来、人類を悩ませてきました。エジプトのカイロの博物館にあるラムゼス5世のミイラには天然痘の皮膚病変とみなされるものがあります。天然痘根絶は人類が自らの力で感染症を根絶した最初の例です。微生物学の最大の成果です。
実はジェンナーは種痘を始めた時に、これを広めていけばいずれは地球上から天然痘を根絶できるだろうと論文の中で述べていました。彼の予言が200年後に現実のものになったわけです。
しかし、現実には1981年にはエイズがひそかに世界中に広がりはじめていました。その後、さまざまな感染症が起きてきました。そこで、1993年、WHOは全米科学者協会と合同で、エマージング感染症への警告を出しました。
これらは新しく出現したもの、または古くから存在していたものが、急速に広がり始めたもので社会的に大きな衝撃を与えているもので、一般にエマージング感染症と呼ばれています。発生地域を広げ米国で1999年に突然出現したウエストナイル熱はアフリカ、ヨーロッパなどでは古くから存在していましたが、アメリカ大陸で見いだされたのは、これが初めてであって、20世紀最後に出現したものです。SARSは21世紀に初めて出現したエマージング感染症になりました。
(7)伝統的ウイルス学手段により解明されたSARSの原因ウイルス
WHOは2003年3月15日にSARSの発生を発表し、発生地域への渡航延期の勧告を行いました。それと同時に国際協力研究ネットワークを結成しました。WHOは新型のインフルエンザの発生に備えてインフルエンザ対策ネットワークを作っており、それがSARS研究ネットワークになりました。そして、国際研究協力により1ヶ月後には新型コロナウイルスが主な原因であるとの結論に到達しました。
これはこれまでにない画期的な成果です。そこにいたった経緯を振り返ってみたいと思います。
CDCでは試験管内で培養したヴェーロ細胞に患者のサンプルを接種した結果、5日目には細胞の破壊を見いだしました。これは細胞変性効果と呼ばれるものでウイルスの増殖を示唆しています。なお、ヴェーロ細胞は安村美博・獨協医科大学名誉教授が1960年代に分離した細胞です。研究予算が乏しい時代、細菌の汚染を防ぐためのステンレスのキャビネットの代わりにリンゴ箱を用いて分離したという逸話があります。これがエボラウイルス、ニパウイルスなど、多くのエマージングウイルスの分離に貢献しています。
この細胞変性効果が見られた細胞を電子顕微鏡で観察したところ、球形で周囲に太陽のコロナのような構造を持つコロナウイルス様の粒子が見つかりました。また、患者の血清の中にはこのウイルスと反応する抗体が存在することも明らかにされました。ここで、コロナウイルスが原因と疑われたわけです。同様の結果はドイツとホンコンのグループからも同じ時期に得られました。
一方、これより前にパラミクソウイルスの一種であるメタニューモウイルス原因説も出されていました。2種類のウイルスが候補として浮上したわけです。この問題に決着をつけたのはオランダで行われたカニクイザルへの接種実験でした。コロナウイルスが接種されたサルでは肺炎の初期病変が見つかりましたが、メタニューモウイルスでは病変は見つかりませんでした。なお、このサルの実験を行ったオランダのアルバート・オスターハウス(Albert Osterhaus)教授は、2001年にヒトメタニューモウイルスを分離した人でもあります。
以上はすべて伝統的なウイルス学の手段です。一方、このコロナウイルスの遺伝子解析も急速に進められました。4月初めには全部の遺伝子配列が明らかにされました。その結果、これが未知の新しいコロナウイルスであることが明らかになりました。すなわち、伝統的ウイルス学の手段と先端的な遺伝子工学の両方により原因ウイルスの解明が行われたわけです。
(8)最大のバイオテロリストは自然
これはNatureの論説のタイトルです。SARSは自然が最大のバイオテロリストであることを示したというわけです。野生動物それぞれに固有のウイルスがいくつも存在しているはずです。我々が知っているウイルスは氷山の一角にすぎません。ウイルスの生態についてはほとんど分かっていないのです。