(8/5/04)
本講座156回「米国の屠畜場に関する書物」で「Slaughterhouse blues(屠畜場ブルース)」をご紹介しました。これの和訳が今回河出書房から出版されました。タイトルの決定は出版社の権限であり、ショッキングなものになっていますが、内容は非常にしっかりしたものです。監修者として私の解説を最後につけましたので、その部分をご紹介します。
解説:「ジャングルの時代」からの警鐘
二〇〇三年十二月、アメリカでBSEが発生し、アメリカからの牛肉の輸入が禁止された。そして、日米間でのBSE安全対策についての議論が始まった。屠畜場はBSE対策のもっとも重要な標的であるが、アメリカの屠畜場の実態についてはエリック・シュローサーの「ファストフードが世界をくいつくす」に簡単に述べられている程度で、私たちはほとんど知らない。
私自身、一九六〇年代初めにカリフォルニア大学留学中に実験用の牛の血液をもらいに近くの屠畜場に何回か通ったことはあったが、現在の屠畜場の状態についての知識は皆無であった。そこでインターネット検索した結果、屠畜場を主題にした書籍二冊が見つかってきた。ひとつは一九九七年に出版されたGail Eisnitz著のSlaughterhouse: The shocking story of greed, neglect, and inhumane treatment inside the U.S. meat industry(屠畜場:米国の食肉産業における貪欲、怠慢、非人道的処置のショッキングな物語)である。これはまだ和訳されていないと思うが、アメリカの食肉検査法(一九〇六年制定)と人道的屠畜法(一九五八年制定)の違反の実態とそれに伴う食肉汚染の危険性について告発したものである。もうひとつが本書Slaughterhouse Bluesである。これはカンザス大学の文化人類学教授のドナルド・スタルと社会地理学教授のマイケル・ブロードウエイが十五年以上にわたって行ってきた食肉、養鶏産業についての調査結果をもとに、アメリカの食肉産業の実態とそれが社会にもたらしている影響をきわめて正確に分析して問題点を指摘し、将来への提言を行ったものである。
本書のタイトルは直訳すれば「屠畜場ブルース」であるが、「だから、アメリカの牛肉は危ない!」というショッキングなものになっている。これは本書を読んで得られる率直な感想を表現したものであろう。
序章はスタルの大学と同じカンザス州のガーデンシティ郊外にある世界最大の屠畜場でのルポルタージュから始まる。ここでは一週間に三万頭、一時間に四百頭を屠畜するという。日本で最大の芝浦屠場での牛の処理頭数は年間三万五千頭であるから、一週間で芝浦屠場の一年分の牛を処理していることになる。そして、この屠畜場での作業はベトナムや中南米からの移民によって支えられている。
かってカリフォルニア州知事選挙に立候補したこともある社会正義派の作家アプトン・シンクレアは一九〇六年に「ジャングル」という世界的名作を出版した。(和訳は「ジャングル」の書名で前田広一郎訳、春陽堂世界名作文庫、一九三二年;木村生死訳、三笠書房世界文学選書、一九五〇年の二つがある。ただし前者は社会主義的部分が伏せ字になっている)これはアメリカン・ドリームを追ってリトアニアからアメリカに移住し、シカゴの精肉工場で働いた若い夫婦の物語である。この本を読んだセオドア・ルーズベルト大統領は最初、そこに書かれていた過酷な労働条件、非衛生的な作業実態を信じなかったが、実際に調査して事実であることを知り、食肉検査法と純正食品・医薬品法を成立させた。なお、「ジャングル」の初版本ではあまりにどぎつい内容が削除されて三十一章になっていたが、元の原稿が偶然に見つかり三十六章すべてを含めたオリジナル版(The Jungle: The Uncensored Original Edition, See Sharp Press)が二〇〇三年に出版された。
ところで、著者らは現在の精肉産業は近代化されてきているが、三十年ほど前からこのジャングルの時代に戻ってきていると指摘する。現在、屠畜場の労働はジャングルの時代の東ヨーロッパからの移民に代わってメキシコ、グアテマラからの移民やベトナム、ソマリアなどの難民によって行われている。施設は近代化され、その結果ベルトコンベアでの食肉処理のスピードはジャングルの時代を上回るものになり、労働条件も悪化しているという。
米国農務省の二〇〇二年の統計では、全米での牛の飼育数は九千五百万頭で、年間に販売された頭数は七千三百万頭になっている。そのうちの三千六百万頭が食肉用に屠畜されているものと推測される。豚の年間販売数は一億八千万頭、肉用鶏の年間販売数は八十五億羽となっている。日本での家畜の飼育数は農林水産省の平成十四年度の畜産統計では、肉牛二百八十万頭、乳牛二百七十万頭、豚一千万頭、鶏二億八千万羽(採卵鶏一億八千万羽、ブロイラー一億羽)となっている。厚生労働省の平成十三年度の屠畜数では、牛百二十五万頭、豚千六百三十万頭、鶏六億七千万羽である。
日本とは比べものにならない巨大なアメリカの食肉産業の八十%は四大企業によって占められている。牛の場合だと、一日二交代制で八時間の間に三千頭あまりの牛が処理されていく。豚ではアメリカ三番目の企業で、一日一万六千頭が処理される。鶏では一分間に三十五羽のスピードになるという。それだけのスピードで食肉検査も行われていることになる。ちなみに芝浦屠場の一日平均処理頭数は牛三百五十頭、豚千二百頭である。
著者らは少数の大企業の支配のもと、自動化された食肉工場の実態を調査し、それにもとづいて食肉の安全性、食品供給システム、社会環境問題などを詳細に分析し、その集大成として本書が生まれた。
著者のひとり、スタルはこの調査活動が評価されて二〇〇一年、ガーデンシティの名誉市民の称号を与えられた。もうひとりの著者、ブロードウエイは一九九〇年代終わりに、アメリカ最大の精肉業界がかかわる裁判で、専門家としての証人の役をつとめている。
本書では、健全な農業を維持するためには、きれいにパックされてマーケットで売られている食肉がどのような工業的システムで生産されているのか、生産者や食肉処理工場の従業員はその実態を消費者に伝え、消費者はその生産方法の変更を要求できるようにしなければならないと提言している。
欧州連合では、BSE発生の広がりを受けて一九九〇年代半ばから「農場から食卓」までをキイワードとした食の安全対策が立てられてきた。日本でもBSE発生を契機に屠畜場での全頭検査と特定危険部位の除去を初めとした安全対策が実施され、食品安全委員会が設立された。これらの一連の行政対応で国内産の食肉の安全対策はできてきたとみなせる。日本向け牛肉の最大の輸出国であるアメリカでの生産現場の実態も同様に理解しなければならない。本書はそのための重要な手がかりになるはずである。