人獣共通感染症連続講座 第159回 中世の黒死病はペストではなくウイルス出血熱

(9/2/04)

中世の黒死病はペストではなくウイルス出血熱

14世紀にイタリアで発生した黒死病はボッカチオのデカメロン、カミユのペストをはじめとして、多く語りつがれています。これは現在では腺ペストであって、ネズミが媒介するペスト菌により起きたものと考えられています。

英国リバプール大学動物学名誉教授のクリストファー・ダンカン(Christopher Duncan)と社会歴史学の専門家スーザン・スコット(Susan Scott)は教会の古い記録、遺言、日記などを詳細に調べて「黒死病の再来」(Return of the Black Death , Wiley, 2004)を出版しました。彼らの結論では、黒死病はペスト菌ではなく出血熱ウイルスによるものであり、今でもアフリカの野生動物の間に眠っていて、もしもこれが現代社会に再び出現した場合には破局的な事態になりかねないと警告しています。その内容をかいつまんでご紹介します。

1347年10月イタリアのシシリー島に発生した黒死病はヨーロッパの最南端のこの場所から北上し、3年経たないうちに3500キロメートル離れた北極圏に広がりました。この発生だけでヨーロッパの全人口の約半分が死亡したと伝えられています。しかし、この発生は逆戻りすることはありませんでした。

1377年には黒死病が北イタリアに持ち込まれるのを防ぐために、ベニスで海上検疫が始められました。最初は30日間の検疫でしたが、間もなくそれでは短すぎるということが分かり40日に変更されました。これが現在の検疫の始まりです。検疫は英語でquarantineですが、これはイタリア語の40に由来するものです。

検疫制度が重要であることは1629年10月にミラノに黒死病が到達した時に明らかにされました。1630年3月にミラノでカーニバルが開かれた際に検疫の条件を緩和したのです。その結果、黒死病が再発し、最盛期には1日3500人の死者がでました。

1665年から66年にかけては、ロンドンで黒死病の大流行が起こり、ピーク時には1日に6000人が死亡するという事態になりました。その際の社会の衝撃は1772に出版されたダニエル・デフォー(ロビンソン・クルーソーの著者)の「A Journal of the plague year」生々しく語られています。なお、これのハイライト部分は「ロンドン・ペストの恐怖」という表題で和訳されています(小学館1994)。

ところで、著者らは英国の古い記録を詳細に調べて、この発生について興味ある考察を行っています。この際の症状は嘔吐、鼻からの出血、皮膚の突然の内出血、昏睡などです。解剖の結果では胃、脾臓、肝臓、腎臓の出血など、さまざまな病変が見いだされています。また、1656年から57年にローマとナポリでの解剖例では全身が黒ずんだ内出血に覆われ、腹腔をはじめ内臓が黒くなっています。これらの症状や解剖の結果は、これまでに信じられている腺ペストとはまったく異なっています。死亡は急速で、その前に内臓全体に壊死が起きている点が特徴的で、著者らはこれらがエボラ出血熱、マールブルグ病などウイルス性出血熱にきわめて似ているという意見です。

同様の病気は紀元前430年にアテネで起こり、古代医学での最大ミステリーのひとつとされています。当時のアテネの作家のツキディデス(Thucydides)はペロポネス戦争の歴史の著者として有名ですが、彼自身この病気にかかって回復しています。彼はこの病気についても書いていますが、それによれば激しい頭痛、目の炎症、喀血、咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱などが見られています。アテネの人たちはこの病気が伝染することをはっきり理解していて、病人との接触をさけ、家族や友人の埋葬にも立ち会わず死体は道路や寺院にそのまま放置されたと述べられています。

この症状も黒死病に似ていて、腺ペストとは違うと本書では指摘しています。そして、黒死病が腺ペストによるものではないとの立場を受け入れれば、これは市民社会が生まれて以来、起きていたエマージング感染症のひとつに過ぎず、この原因ウイルスは今でも動物集団の中で眠っていて、2000年以上の間に時々黒死病を起こしていたものとみなされると述べています。