5.3. 移民局
白壁の続く路を行くとガードマンが2人いる小さな入口が左手にみえて来る。
チ−コの運転するボックスカーは止まらずに会釈だけで通り抜け、殺風景な小さな中庭のすみに車が止まる。仕事人は三々五々と建物の中へ急ぐ。9時ごろであろうか。今日の仕事の始まりである。車の常連はモートン先生、H.クリーガー、E.アゼベ−ド、J.セレーナ、G.マッケイ、それにB.プルーマの6名である。仕事場ではすでにA. フレイレ・マイアとD.フレイレ・マイア(この2人は私が帰国して放医研に勤務してだいぶたった後に学振の招きで放医研に来た)のほか7、8人のブラジル人のテクニシャンが作業の準備に取りかかっている。H.クリーガーはクリチバ大学の院生、E.アゼベ−ドはバイア大学医学部出身のMDである。この二人は後にハワイ大学でPh.D.を取った。私とは4年間のおつきあいすることになった仲である。J.セレーナ、H.ゲ−ル、それにB.プルーマの3人は血液型のタイピスト、すなわち検査技師で、アメリカからの出稼ぎと観光をかねて、プロジェクトに参加した。2人のフレイレ・マイアはナモラードスnamorados(婚約者)の仲でプロジェクトが始まってまもなく結婚したcasamento!男女関係の変遷を表わすポルトガル語はconhecidos、amigos, gostardos、namorados、queridosと進行状況によって使い分ける。 A.フレイレ・マイアはDr. N. フレイレ・マイアの弟で、兄の方はブラジルの新進の人類遺伝学者として遺伝的荷重に関して近親婚の調査研究を精力的に行っていることで当時国際的にも知られはじめていた。もちろんモートン先生がこの方面の世界的権威であったのは言うまでもない。
ラボの規模は2つのインタビュールーム、身体検査室、採血室、処置室、それに2つ比較的大きな実験室(血液型判定室)−レッドラボとグリーンラボ、データ処理・研究室である。子ども数が4人以上の核家族を移民局の受付登録名簿から選び出し、必要なインタビューをした。:たとえば集団構造に関しては、家族歴、出身地、行先、近親婚の有無、性別、年令、人種、各人の出生地など、など。情報の精度を期するため、父親、母親別々の部屋でインタビューを行い、後に家族全員一つの部屋に集めてデータ内容の整合性を確かめた。その後身体検査(身長、体重、手足の畸形の有無、皮膚の色、髪毛の色、形状、甲状腺肥大など)を行い、採血、採唾液を行った。乳幼児などの手首はまるまるとしていて、検査に必要な量の血液を得るのがたいへんであったが、家族との対話や赤ちゃんのあや仕方、採血など E. Azevedo, MD の腕は確かであった。PTC味盲型、非味盲型の検査も調査した。唾液サンプルを用いて、ABO分泌型と非分泌型の判定や一部の血液サンプルで血沈などの検査も行なった。
採血した血液は血清と血球とに遠心分離機で分離して、血清は冷凍保存、血球はヘパリン(抗血液凝固剤)処理をして冷蔵庫に保存した。血清はある程度サンプルが溜まった頃に、アメリカ本土のいくつかのラボに空輸して多型を調べた。当時は電気泳動法が開発されて間もなくであり、血清タンパク質の遺伝的多型の調査が盛んになり始めた頃である。赤血球膜の多型は現地のラボで、採血の翌日に調べた。レッドラボとグリーンラボのそれぞれの責任者はアメリカからの検査技師達であった。ここでもタイピングミスをチェックするために同じサンプルを別々のラボで行う2重体制をとった。Dr. A. Freire-Maia は家系図のチェックを主として行ない、Mr. H. Kriegerはデータ処理一般と諸々の事務的な作業を担当した。安田は学生ということで、すべてのセクションでトレーニングを受けるべし、とのことであった。このときの私の身分はハワイ大学バイオメデカルセンター遺伝学部の院生であった。これはモートン先生がブラジルに来る直前にハワイ大学の教授に昇任して遺伝学部長として転職されたためである。この話しはウィスコンシンを離れる少し前に聞かされた。「ハワイへ行くことになったが、Norikazuはどうする?」と尋ねられたときは、予想外のことでびっくりした。日本を出発したときにはブラジルからアメリカに戻ってウィスコンシン大学でPh.D.を取るつもりであったからである。現実には選択の余地はほとんどなく、否応もなくハワイへ行くと答えざるを得なかった。もっとも木村先生から、「モートン先生は人類集団の統計・集団遺伝学を勉強するには最適任者である」と聞かされていたこともあって、その場でYES!と積極的な返事をした記憶もある。ブラジル滞在中の勉強については、ハワイ大学のgraduate researchに登録して単位を稼ぐことになった。評価はもちろんモートン先生の考えで決まる。
当時の実験ノートをみると、いろいろのことを勉強したことが読み取れる。顧みると、私の研究生活で「ナマモノ」に触れる「調査実験」をしたのはこの期間だけである。赤血球抗原のタイピングが一番主要な作業であった。必要な抗体(血清)はすでにウィスコンシン大学でテストを済ませてあった。(13名から成る)ウィスコンシンパネル、たとえば安田の血清に対する血球反応は、A1(+), A(+),B(+), M(+), N(+), S(-), s(+), C(+),D(+), c(-), E(-), e(+), K(-), k(+), Fya(+), Lea(-), Leb(+), Lua(-), Lub(+), Jka(+), Jkb(+), Dia(-), Js(-), P(-)がそれである。ブラジリアンパネルも人の重複はあるが20名についてテストを行ない、実験条件(主に温度と実験者の熟練度など)の相違などをチェックした。PTC味盲も8段階の希釈液(沸騰水を冷やしたもの(スコア0)から2の羃乗で濃度を濃くした(スコア8迄)パネル)を用いてタイプした。私はスコア8で苦味を感ずることが分かった。ちなみに私は分泌型であったので、唾液から血液型を知ることができる。
慣れない外国語(英語+ポルトガル語)を使いながら、さまざまな実習をした。血液学、免疫学、臨床など全く無知の私は、なんでもみて、ためそうという気持ちでラボの中を動き廻った。知識も必要だが、現象を実技とマッチさせながら、理解して行く過程は興味深かった。ABO抗原は常温でも判定できるが、P抗原は摂氏4度がよい。前者は凝集反応での判定が比較的明確だが、後者は微妙である。重要なことは、ものごとはいつも本に書いてある通りにいかない微妙なことが多々あることである。たとえば常温と言ったって、具体的に何℃なのかわからない。緯度の相違、ラボが海抜どのくらいの位置にあるのか。そんなことはテキストに書いてない!テストを繰り返し行って確かめるしかない。 細かい点でも、たとえばA2B型をB型と判定ミスする状況がある。B抗原の存在でA抗原の反応が弱くなるとか。すでに知られていることでも、通り一遍の勉強では見落としてしまう。現象にぶつかって初めて改めて知識を確認するわけである。生理食塩水テスト、ク−ムステスト、フクシンテストなど凝集反応の方法などいろいろ勉強し、現場で確かめた。多くの場合、事実が先行して、理屈はあとであった。事実については考えられるエラーや偏りを徹底的に絞り込んだし、既存の論文をよく調べて理屈を考える習慣がついた。論文にはノウハウは書いてない! 実験科学では自分の作業仮説に対するデータの適合度をしっかりチェックすることも大事であろう。
モートン先生は当然ながら免疫学の専門家ではない。しかしながら、当時出版されたばかりの血液型学の名著、Blood Group in man, 3rd ed. RR Race & R Sangerを片手に実験、勉強をしておられた姿の印象は強烈である。これを読むようにと言われて、何度も繰り返し読んだ。実際にタイピングを始めると、論文や教科書に書いてある通りには行かないことが多い。それが技術上の問題なのか、サンプル側の問題なのかに判断を迫られる。技術上の問題が確信を持って排除できるなら、これはニューファインデングの糸口となる可能性が高くなる。モートン先生は疑問が生じると気さくに誰にでも問いかけた。多くの場合、すでに彼なりに考えを煮詰めた後の質問なので、私にとってはむしろ大なり小なり気の付かなかった新事実につながる解釈となることが多かった。話し合うことで、それまで気付かなかった事実や知識がわかり、それが次の実験に発展することが度々であった。解決のつかない問題は、しばらく時間を置き、また繰り返し討論した。こちらも次第に問題の要点に気付き、深く考えるようになる。後で考えるとプッシュされていたのであるが、こういうプッシュは苦にならない。デスカッションに乗せられていた!
数学のテキストは多くの場合証明が書いてないことが普通である。したがって、読み流すだけでは数ページも行かないうちに何のことかわからなくなり、ストレスが残る仕儀となる。自明の証明も含めて丹念にチェックして行くことで、一冊の本を読み終える頃には充足感と次ぎのステップのテキストに取りかかることになる。この訓練を続けられる人は「数学者」になれるのだろう。したがって、良き先生と静かな部屋と読むべきテキストのカルキュラムがセットされれば、あとは本人の能力と根気が不可欠である。そういう意味では私は途中でにっちもさっしも行かなくなった方のひとりである。生物科学は数学と違ってむしろ例外を探すところがあるので、自分が勉強していることに向いているかどうかを知るのはなかなか難しいのではなかろうか。
一日の仕事が終わると、日々集まるデータを目の前にして、統計あるいは集団遺伝の問題もこのような雰囲気の中で解決に向けてのデスカッションが行なわれた。さまざまな遺伝様式の血液型の集団データから、それぞれの遺伝子頻度を求める工夫が必要である。最初は個々の血液型ごとに解析的な式を案出していた。Ceppellini R et al., Ann Hum Genet 20: 97(1955)の論文から遺伝子カウント法を精力的に研究したのも、情報の豊富なデータを目の前にしてである。これは後にALLTYPEというコンピュータプログラムにまとめて学位論文の一部とすることができた。当時モートン先生は分離比分析のモデルを拡張していたようで、そのお手伝いもした。家族あたりの子ども数の分布にいくつかの理論分布を仮定して、核家族データから分離比分析を行なっていろいろなモデルの妥当性を検討するものである。この結果はハワイに行き、間もなくでモートン先生が論文にまとめた。
インタビューによるアンケート用紙から家系図を描き、子どもの近交係数を求めた。このようにして求めた家系図近交係数と夫婦それぞれの出生地間距離との関係を調べた。これは G. Malecot(1955)の距離による隔離の理論を確かめる目的である:距離が離れるほど、親縁係数は一次元空間では指数関数的に減少するという。夫婦の親縁係数は子どもの近交係数であることに注意すれば夫婦のそれぞれの出生地間の距離と子の近交係数の実測値の関係を調べることで、マレコ−の理論が検討できる。距離は地図上で求めたが、地図のスケールキロメートルkmとブラジルで一般に使われるレグアleguaという尺度の換算(1 legua=6 km)が必要であった。
サンプリングの偏り、タイピングエラ−などが少なければランダムサンプルの個体集団のハーデイ・ワインベルグ平衡からのずれから、近交係数を求めることができる。核家族のデータでは一家族に複数の子どもがいるため、単純にそのうち一人を選び、核家族数の子どもの集団を生成して近交係数を求める方法が考えられるが、如何なものか。そこで両親の交配型が遺伝子頻度と親縁係数のパラメータで表すモデルが作れればそれに超したことはない。モートン先生との長いデスカッションの後、Tudor House でそのモデルを思い付いたのである。