5.6.4.サン・パウロ市
サン・パウロ市内には市内電車(ボンディbonde)やバス(オニブスonibus)等の安価な交通機関が利用できる。あらかじめここぞと思うポイントを案内書や仕事仲間から探り出し、市内地図や路線図などを調べての単独行である。独りで出掛けるのは、乗り間違えや迷子になることが多いが、その時の印象がよく残るからである。仲間がいるとどうしても面倒なことは任せてしまうので、そのようなとき思うようにいかないともやもやとした気分も残る。もちろん迷ったときなどはすぐ気軽に尋ねることのできる人がすぐ傍にいた方が楽である。しかし不馴れなポルトガル語で見知らぬパウリスタに尋ねて、不安が解消したときなどは自分自身で解決したというささやかな幸福感に浸ることができる。研究も効率は悪いが似たようなところがある。
アニャンガバウ付近。最初にサン・パウロ市に着いた日、ホテルから散歩がてら行って来たところである。谷間を走る大通りで市内各地からのバスのターミナルである。交通の要点という観点からサン・パウロ市の中心とも言えるのか。この大通りを跨ぐ陸橋がいくつかあり、その内の中心部にあるのがポルトガル語の名称は忘れたが、日系ブラジル人は「日本橋」と呼んでいたかと思う。泊まったホテル側のこの橋の直ぐ傍にゴージャスなサン・パウロ市庁の建物があり、それを含めて谷の斜面がココナットの生える公園になっていた。橋をわたってそのまま真直ぐ行くと、サン・パウロ市の象徴ともいう中央銀行の白い高いビルに行き当たる。この付近には銀行が沢山ある。そのうちの一つで私はドルで支払われた月々の給料をクルゼエイロに両替えした。
ガルボンブエノ日本人町。日本橋をわたり中央銀行に行かず右に曲がると、ガルボンブエノの日本人町がある。ここの町並みに入ると戦前にスリップした感触を受けた。縦書きの看板はともかくも横書きは右から左なのである。後にハワイでも右から左の看板を医院などで見かけたが、ここではあらゆる職種の横書き看板が右左である。いわゆるアラビア語方式である。左から右に書くポルトガル語の長い看板に右左に書いた漢字の日本語には一瞬戸惑いを隠せなかった。「屋しす」、「すまりあふうと」、「マネキ」、…といった具合である。
通行人の半分以上は日系人である。もちろん全部がポルトガル語ペラペラの日系ブラジル人と確かめたわけではない。中には日本語を話せない日系人もいいたであろう。「日本向きみやげ各品」(これは縦書きだった!)という看板の店に入ると、ブラジル特産の蝶翅細工や、鉱石で作った灰皿など小物がところ狭しと溢れている。すしも食べたが結構いける。とうふも美味しかった。ウィスコンシンでは一度マグロの刺身を食べる機会があったが、そのときはハワイ出身者の集まりなのでしゃちこばって食べた気がしなかった。小さなしもた屋風の建物の玄関に「はり、灸、もみ療治」と墨書きの縦書き看板も見受けた。名前は忘れたが映画館に入り、「悪いやつほどよく眠る」(Homen mau, dorme bem)をポルトガル語の字幕付きでみた。もちろん日本語の字幕など私には必要ないが、日ポ訳の勉強になると思い、続けて2回もみてしまった。
パカエンブ−のサッカー競技場。サン・パウロ市には大きなサッカー場がある。当時の私はサッカーがブラジルの国技であることを知らなかったが、誰かと連れ立って行ったのである。多分、最初の下宿にいるときの「医師の卵」の一人ではなかったであろうか。もちろん、サッカーの試合を競技場でみたのはこれが初めで終わりである。現今テレビでお目にかかるが試合の全経過をみているわけではない。サポーターではないのである。入場口でボデイ・チェックを生まれて初めて受けた。両手を高く掲げ、脇の下から両手でたたきながら腰回りまで手探りされ、セルトcerto!の言葉で中に入ることを許された。スタンドはほぼ満員であった。試合はどこと何処がプレイしているのか、どういう試合運びであったのか何の記憶もない。セルトの言葉だけである。最近思い出して、辞書を引いてみたが、「証明済」の意味らしい。要するに物騒な代物を持ち込まないことを確かめたということである。それにしては簡単過ぎる。それでも、試合に大きな動きがあると、爆竹らしきものが鳴り、今様に言えば大きなウエーブが起こり、こちらまで来る。そうすると、立ち上がってまわりに合わせて腰を上下することになる。何故かガードマンらしき人々が止めようとする。どうやら爆竹の音にぴりぴりしている様子である。聞く所によるとピストルを持ち込んでいるやからがいるらしいのだ。どこでも騒ぎたい人はいるらしい。それにしても、入場口でのセルトは何であったのかと不思議な気がする。
博物館、美術館、公園など。週末には博物館や美術館へはよく行ったが、大きな油絵の額が並んでいたことぐらいしか印象に残っていない。ブラジルの歴史を知る機会を得たのは良かったのかどうか。というのは日本に戻って以後、ブラジルの文物に触れる機会がまったくといって良い程なく、私のdead knowledges & languageになっているからである。
ブラジルは1500年ポルトガルのペードロ・アルヴァレッス・カブラールによって発見された。ポルトガル本国から第二回インド貿易の途上であった。今日のバイア州南部で、安全な港という意味でポルト・セグーロと名付けたところで錨をおろした。褐色のインデイオに驚いた由。その後アメリゴ・ヴェスプッチがブラジル調査にやって来て、ポルトガル国王にいろいろの土産物を持ち帰った。その中に羊毛、絹、綿などを染める赤や紫の染料を作るブラジルの木pau-brasilがあった。マメ科の樹木で高さ10〜15メートル、幹の直径0.8〜1.0メートルの赤黒い木質の木である。明礬を付加すると赤色に変化し、赤色染料の原料となる。赤い木pau-vermelhoともいう。リオ・グランデ州北部からリオ・デ・ジャネイロ州の大西洋海岸の森林にかけて繁茂していたという。あっというまに伐採されて、いまでは国名で残っているに過ぎないほどになってしまったという。
ブラジル産業の発展はその後3世紀半の最初はインディオ、後にはアフリカからの強制移民奴隷に大きく依存した。赤い木の切り出し、砂糖栽培などでこの長く続いた奴隷制度がブラジル社会の近代化を甚だしく遅らせた大きな原因の一つであり得ることは否めない事実である。多くのアフリカ奴隷がバイアに陸揚げされた。ビーグル号航海記の終わりで、ダーウインはバイア、リオで見聞した奴隷の悲惨な生活に何も出来なかった自己嫌悪の感情を記している。18〜19世紀は「金鉱」探しの時代である。バンデイラと称する人たちが内陸探検に入ったのである。ブラジルの奴隷制が廃止になったのは実に1850年のことであった。
コーヒーの原産は本来エチオピアであるが、ブラジルのコーヒーはフランス領ギアナからである。18世紀になるとヨーロッパで一般にコーヒーが愛飲されるようになり、オランダ人がジャワ島でコーヒーを栽培して、ヨーロッパに輸出するようになった。オランダ人はさらに南アメリカのオランダ領ギアナにコーヒーを移植したが、それがブラジルに持ち込まれたのでる。金ouroに代ってコーヒーの時代になったのである。時は19世紀の始めのことである。蛇足ながらハワイのパイナップルもギニアからの「隠密的な持ち込み」と聞いた。
街角にバーと称するコーヒー店があり、しばしば仕事を抜け出し飲みに行った。バーモスVamos!といえばコーヒーを飲みに行くVamos tomar cafe!の合い言葉となった。カフェジンニョcafezinhoといって、小さな陶器製のカップにどろどろした濃いコーヒーにどっぷり砂糖を入れて飲むのである。そのコーヒーも運がよければ目の前で大きなフライパンで豆を煎った出来たての香りのよいやつが飲める。砂糖なしでは強烈に苦く飲めたものではない。ミルクを頼んだら、お前はまだ幼児criancaなのかとからかわれた。そういうのは普通のガラスコップなどで飲む代物で、かぎりなく白い液体が眼の前に出て来た。これではコーヒーミルクである。やっぱり苦味が効いた甘いコーヒーcafezinhoの方が、疲れも取れる気分になる。みんなよく飲む。職場にはいると、Vamos!、10時頃になるとvamos!。昼はもちろん食後にvamous!、3時には当然vamous!・・・。熱いコーヒーはがぶ飲みできないから、1回のコーヒータイムに10分以上はかかる。話題は世間話である。いつ仕事をしているのか不思議である。
ブラジルの独立した日は1822年9月7日である。ポルトガル王室がブラジルにやってきたのはナポレオンに攻められて(1807年)、逃げるようにして来たのである(亡命!)。その後ナポレオンが失脚して、本国に戻った国王とブラジルに残った皇太子を守り立てる人々の間で政治経済の様々な問題でしっくりしなくなり、突発的な形でブラジルの独立となった次第である。
サン・パウロの郊外に移民局の仕事仲間で遠足に行ったことがあった。どこであったか忘れてしまったが、車で2時間も内陸方向に走ったのか。林のなかのコッテージでくつろいだ記憶があるが、それよりも林の中を散策した様子が今でもときどき眼に浮かぶ。高い木々を通して差し込む光の何本かの細い線の間をさまざまな蝶が鱗粉をきらきらさせて飛んだり、翅を休めたりしている。大きな蝶もいれば小さいしじみ蝶みたいなのもいた。多様なことおびただしい。我々の話声が止まると、静寂そのものである。そのなかで昆蟲だけが動いている。大学生のとき軽井沢の山林を散策したことがあったが、よく似た雰囲気である。しかし軽井沢には多様な蝶々がこれほど沢山はいなかった。
5.6.5. クリチバ市
パラナ州立大学の生物学教室を訪れた。何階か階段を昇り、入口の左手の掲示板が教室がそこにあることを示していた。ブラジル遺伝学会の開催期間中ということで、人々とゆっくり話しをする機会はを持った。雰囲気的には日本では都立大学の事務室のイメージが残っているが、定かではない。パラナ州はサン・パウロ州の南西に位置する。多分飛行機で行ったと思う。クリーガーさんの母校である。
5.6.6. ポルト・アレグレ市とリオ・グランデ村
多分2泊3日だったと思うが、ブラジル最南端の州、リオ・グランデ・ド・スールRio Grande do Sulへ独り旅をした。結果的に南緯33度まで行って来たが、行きはバス、帰りは飛行機であった。早朝、サン・パウロの長距離バスターミナルからポルト・アレグレ行きの長距離バスで南下した。途中の風景で印象の強かったのは小さな村に必ずといってよい程に場違いなほど立派な教会があることである。強い信仰心の表れなのかとも思った。ちなみにブラジルの宗教は大部分がカソリックである。バスは都会、村落を訪ねるように走り、南下した。バスの乗客は比較的ドレスアップしており、皆静かであった。バスはほどほどの時間に小休止を、昼食には小一時間のストップと事故もなくほぼ1日の行程でポルト・アレグレに着いた。帰りの飛行機の予約を確認してポルト・アレグレに一泊。
翌日は天候は晴れでポルト・アレグレの市内を散策。市内の公園で大きなワニの群に餌を与えている所に遭遇。意外なものに意外なところで出くわした感じであった。リオ・グランデ・ド・スール大学のキャンパスを歩く。サプライズ・ビジットであったので、大学の人とは会う計画もなく、静かなただ住まいの雰囲気を楽しんだ。昼食後バスでリオ・グランデまで大きな気水湖の傍を走りさらに南下し、夕方に到着した。
リオ・グランデは小さな寒村である。大西洋にた小漁村である。なぜそんなところへ行ったのかといえば、ただ私が到達し得た地球の一番南の場所へ行きたかった、というだけである。村とは言え、空港があるので交通の利便さもある。これよりさらに南に向かうとウルグアイ国境である。村は大きな気水湖の海への出口に位置し、眼の前に漁夫の島ilha de marinheiroがある。船着き場のような漁港で夕方ひと休みしていたところ、一人のおじいさんが話しかけて来た。どこから来たのか。日本。どこ? 地球の裏側にある国。水面を指差しながら、この下から来たのか? そうだ。その晩は村で1つという宿に泊まった。トイレ付きだが、戦争中(第二次世界大戦)に疎開したときの父の実家で用を足したときのことを彷佛とさせるものがあった。
翌日は時間があったので午前中は海岸を散策した。いくつか大きな巻貝の殻を拾った。(これらは日本に持って帰ったが、稲毛から酒々井に引っ越したときに見失った)。
こぶしぐらいの大きさで、白色で内側は淡いピンクで気になったので3つポケットに入れたのである。帰りはバスで5分ぐらいの場所にある空港から、ポルト・アレグレ経由でサン・パウロに戻った。昼食の航空食のデザートに小粒ながら1個のりんごがでた。りんごはどちらかというと温帯性の植物である。したがってサン・パウロ以北では高価であまりみかけない果物である。このりんごを食べてブラジル南部に旅行したのだという実感を改めて噛み締めた。
リオ・グランデ空港は草ぼうぼうで、馬が一匹草を食んでいたのには驚いた。それまで利用したのはすべて都市空港であったので、ローカル空港のイメージはまったくなかった。寒村の空港ということで納得したが、降りた人も2、3人、乗ったのは私一人で、何故こんな所に空港がという気持ちがしないではなかった。その後何度かローカル空港を利用する機会があったが、馬が草を食む空港は後にも先にもリオ・グランデ空港だけである。
北部のバイアと較べこちら南部のリオ・グランデは私のささやかな経験にしか過ぎないが気候はマイルドで過ごし易い印象を受けた。ドイツ系の移民が多いとか。田畑で黄金色の稲やなんと言っても緑がある風景は気持ちを和やかにしてくれる。四季のある日本では季節の変化が刺激となり、生活に張りがでることを改めてここブラジルで実感した。バイアの物憂い暑さが一年中続く生活は温帯に住む私にはとうてい長くは続けられない。旅はするものである。それは新しい発見と経験の起爆剤である。
5.7. ブラジルの果物、食物
一番ポピュラーな果物といったら、やはりバナナである。安いしうまい。畠で熟成したバナナは甘くて口腔内でとろりと溶けた。りんごバナナとかいう品種?か。初めて食べたときは感激した。聞く所によると、本人が食べる分は他人の農場のバナナをだまって食べても許されるが、一本でも持ち出すと罪になるという。試す機会はなかったが、神のお恵みか人の御慈悲なのか、ブラジル人の肝っ玉なのか。生活に困ってバナナで飢えをしのいだという話しを聞いた。料理用のバナナも焼いたのを食べたがやはり熟成バナナがうまい。
パパイヤも甘くて美味しかった。赤ん坊の頭ぐらいの大きさのパパイヤを4分割して砂糖を掛けてレモン汁を絞る。これが甘くて美味しいんだ!朝と夜の食後に定番のようにして食べた。当然体重は増大する。その結果は今糖尿病となって現れている!でも美味しかったので後悔はしていない。ウィスコンシン大学のアイスクリームと次の滞在地ハワイのアイスクリーム、マンゴー、ライチ等々も私の生活習慣病に貢献している筈である。
フェジョアーダfeijoadaはマメと豚肉をまぜた料理で、これをバターで炒めたライスにぶっかけて食べるといける。別に豚肉でなければならないわけではない。イカでもサカナでもなんでもよい。ごッた煮である。もともとはアフリカ系ブラジル人の郷土料理と聞く。
シュラスコchurrascoは典型的な骨付き(?)焼肉である。本来は南部のリオ・グランデ・ド・スール州のガウチョgaucho(カーボーイ)がウシを野外で野趣満々豪快に焼き、大きなナイフ(faca)で肉片を切り塩味だけで食べる。おかずはなし。食後に(マテ)茶をパイプ様で吸って飲む。
印象に残っている食べ物として、ピッツアがある。サン・パウロの下宿の近くにピッアリアがあり、そこの鰯ピッツアが美味しかった。夜食によく食べにでかけた。今年{平成15年(2003年)}は久しぶりに外国に出る機会がありイタリーのミラノの大衆食堂みたいなところで食べた野菜ピッツアも美味しかったが、サン・パウロのはそれにも優る味覚であった。
5.8. ブラジル合衆国を去る。
ブラジルの正式な国名はEstados Unidos do Brasilであるが、通称はブラジルという。これはアメリカ合衆国United States of Americaをアメリカというのと同様である。この国に滞在中、キューバからアメリカへミサイルが飛ぶギリギリの状況、すなわち、JF ケネデイがどうにかこうにかフルフチョフを諦めさせるまでのぎりぎりに至る事件が起きた。アデマールが戦争guerraだ!、原爆Bomba atomicaだ!と研究室で新聞を広げて騒いでいたのが印象的であった。新聞もラジオもほとんど眼を通すことも聞くこともない生活で、また目新しい生活に夢中であったためか、私自身はそれほど危機感を持たなかった。のんきと言われればそれまでであるが、情報が遮断された生活はそんなものであろう。新聞ラジオは敢えて努力してまで読み聞きする気がなかったというのが本音である。そのJF ケネデイ大統領を、彼のハワイ訪問でたまたま下宿の前の通りを通過したが、人々の後ろ遠くから小さい顔写真を撮ることに成功した。その後まもなく、彼はダラスで暗殺されるニュースを聞き、なぜなのかと言うにいわれぬ寂しい気持ちになったことを思い出す。40年前のことである。
調査もようやくメドがつき、1962年6月8日サン・パウロを離れ、一路ハワイに向けて飛んだ。サン・パウロ、リオ・デ・ジャネイロ、カラカス(べネズエラ)、パナマ、ロスアンジェルス、そしてホノルルという経路であった。飛んだり降りたりで、あたかも大きなバッタの背に乗ったような具合である。離着陸するたびにそれぞれの土地で特徴のある人々が違った様式の生活パターンを営々と営んでいることを察して、はからずも三島に滞在していた時、夜ふとんの中で読んだ「千夜一夜」に出て来る魔人や魔女が人を乗せてラクダで1年かかるところを瞬きする時間で移動する話しを思い出していた。リオからカラカスへの北行ははからずもアマゾン河を上空から見下ろし、マナオスという都市に思いを馳せた。日本を出る際にブラジルのマナオスで調査をすると聞かされていたのである。結果的にはサン・パウロで、北東移民の調査が比較的効率よく成功したが、タイピングがうまく行かなかった家族から再採血しようと、アンケートに記載のあった行先を訪ね、ブラジルの広大な大地のどこに行ったのか一日を棒に振る結果になったことも何度かあった。また空港労働者のストライキgreveのため、保存期間が長くなる米国へ送る血清を凍らせるドライアイスgelo secoの都合を見つけるのにたいへん苦労したことなど、ブラジル方式が飲み込めないがための気苦労も終ってみれば、まさに「よしよし」である。もしマナオスで調査をすることになっていたら、ひょっとしてアマゾンのジャングルに飲み込まれていたかも知れない。あるいは新しい経験があったかも知れない。誰ぞ知る(ケーン・サーベ、quem sabe)!
カリブ海に面した南アメリカ大陸は断崖で海に切れ込んだようであったか、カラカスには崖にぶつかることなくまず無事に着陸した。このフライトで再び赤道通過証をもらった。給油後はパナマへ向かい、再び着陸。ここの空港の免税品は安価とか。モートン先生はお土産に何本かのアルコールを購入したが、そのうちの一本はホノルルで飛行機を降りた際に彼の小さい息子が滑走路に落として割ってしまった。手こそださなかったが、叱りつけられて男の子はしょんぼりした様子であった。パナマではしばらく待たされたと記憶するが定かでない。空港待合室のエアコンが効いていたように思う。ロスに着いたのは夜10時も過ぎていたようである。ブラジルと比べてアメリカの効率よいサ−ビスに不思議な解放感を覚えたことが印象的であった。