6.3. Department of Genetics, University of Hawaii at Manoa
Honolulu 14, Hawaii, U.S.A.
ハワイ大学はマノア渓谷(渓谷といっても箱庭的な規模である)の扇状地にあり、夏、裏山のヌアヌ・パリに懸る雲が谷を駆け下り、大学のキャンパスにシャワーを降りまくことがよくある。その結果大きな幅の虹の出現となる。かなりの速さで降りて来るので消えるのも早い。授業の替わり目にキャンパスを駆け抜けるときなどびっしょり濡れることもあったが、それでも10メートルほどの近くで見る虹のインパクトは強烈である。虹をみる位置では雨は上がっている。最初は感激して急いで廊下から写真を撮ろうと焦り取り損ねたきとがあった。たまたま傍にいた LH Snyder教授が、いつでも写す機会があるよと慰めてくれた。夕方イーストウエストセンターの上に大きな二重の虹を見ることもあった。この虹に因んでハワイ大学のフットボールチームをrainbow ballという。最初は感激したが、次第にまたかという程度になる。
LH Snyder教授はDr. CW CottermanのPh D教授であるが人類遺伝学の先駆者でもある。PTCに対する味盲が遺伝することを証明した人として知られている(Snyder LH, Ohio J Sci 32:436-440, 1932)。 デユポンという企業研究員AL Fox (Science 73: 14, 1931)が一寸した過ちで薬をこぼしたところ、空中に散布したPTCを苦く感ずる者とまったく感じない人がいることを発見した。まさにserendiptyによる遺伝的多型の発見である。Snyder & Cottermanは両親とその子ども達を調べてそれが劣性遺伝をすることを示した。その際に用いSnyder’s ratioは当時学生であったCotterman先生のアイデアであると当人からコーヒーを飲みながら聞いた。Bernstein F(1930)がABO血液型の集団データから遺伝様式として3複対立遺伝子説を提唱してから僅か1年足らずの頃である。このケミカルに対する感受性の遺伝子として、昨年3つのSNPのハプロタイプが7番染色体長腕にマップされた(Kim U-K et al,, 2003, Science 299: 1221-1225)。PTC研究の歴史は薬品感受性遺伝子のゲノムへのマッピングのアプローチの基本を示していると言えよう。
Morton先生は新設の遺伝学部長としての着任で、Biomedical Research Buildingの1階に仮住まいと相成った。廊下を挟んだ両側の数室が実験室兼研究室で、学部長室の入り口には秘書の金城さん(アメリカ式のフアーストネームYoshiの方が呼び易かった)が陣取り、その他いずれはコンピュータの入る部屋、それに小会議室、これが遺伝学部のハコモノである。私はモートン先生の実験室の一隅に陣取ることになった。とはいえ、調査で使用した機材やデータはサンパウロからハワイ宛ての船便で発送したのだが、予定どおりに到着しなかったのでしばらくはラボの立ち上げもままならないことになった。私の多くの書籍などの私物も便乗させてもらったので落ち着かないこと。現実は厳しく予期しなかった港湾ストライキgreveのため、結果的に6ヶ月以上も遅れる破目となった。ブラジル人によれば日常的なことで驚くにあたらない (Puxa vida!) と言っていたが、正直閉口した。
Prof. NE MortonのグループにポストドクのDr Ming-P Mi(通称MP)が加わった。彼はWisconsin大学でProf Stone(ウシの育種研究者)の下でPh Dをとったほやほやで、量的遺伝が専門であった。コンピュータプログラミングの私の良き先生であり親友でもある。その他、モートン先生と私の後1ヶ月ぐらいしてブラジルからMr. Henlique KriegerとDra. Eliane Azevedo、がラボに現れた。2人はサンパウロのラボで一緒に仕事をした仲間である。エンリッヶは私と同じくPh Dを目指す「学生」であった。しばらくしてCDCのコンピュータが一室にはいると、お守役の人やプログラマーが数人加わりラボも賑やかになった。
学部にはその他、細胞遺伝学のDr. Smithと彼の学生が1名(日系人)、イギリスのCavendish Lab, CambridgeからきたDr. JA Hunt。彼はVH Ingramに師事し、ヘモグロビンのアミノ酸配列の先駆的研究をした人である。オーストラリアからはウシのトランスフェリンの多型を調べていたDr GC Ashtonの顔もあった。私が滞在した3年間でこの陣容の他に非常勤講師をはじめテクニカルアシスタントにいたるまで、増えこそすれ減ることは無かった。それらの人々は変動もあったが、順次増えて行った。
9月の新学期までの3ヶ月間は夏期講習があるので多くの非常勤講師がアメリカのメインランドからやって来る。それらの先生は聞く所によると2ヶ月ほどの講義の後、ハワイでのサマーバケーションを楽しむのが慣例だという。メインランドから来る学生も同じスタイルだとか、しかしハワイ出身の学生はサトウキビ工場などでのアルバイトに精を出して学費を稼ぐという。砂糖の精製工場の仕事は体力的に相当きついらしい。
ハワイは太平洋の点、太の「ヽ」に相当する(大西洋には「ヽ」がない)という。それにしても地球上でこれほど人口の多いところで、ほぼ600Kmも他の陸地から地理的隔離の状態にある場所は他に例をみないであろう。それをさほど感じさせないのは航空機のおかげである。アジア、アメリカ、オーストラリアへの中継点の役割を果たしているので、人の往来は賑やかである。結構優れたあるいは知名度の高い学者の講義やセミナーをしばしば聴講できるのはハワイ大学の特徴の一つでもあろう。大学の構内にあるイーストウエストセンターはその名の通り東西の掛け橋の基点として象徴的な建物である。
Morton先生は新しい遺伝学部のセットアップとブラジル調査の解析に多忙。私はコンピュータを利用するため、FORTRAN言語なるものの講習会出席や、ブラジルで考案したMating type Frequencyのモデルを血液型データで確かめるべく、どう解析を進めていくかを連日Morton先生とのデスカッションに明け暮れていた。それにしても1963年頃から16〜32Kメモリ−のコンピュータでプログアムを書いた生物関係の日本人研究者は木村資生先生と丸山毅夫さん(それに当時在米の集団遺伝学者)の他あまり居ないのでは?
6.4. 授業!
秋になると新学期がはじまる。ウィスコンシン大学での有機化学は滑走路をいつまでも走り続け、ギリギリのところでどうにか飛び上がって合格した。今度は生化学である。それも週3回の講義を2セメスターもとらなければならなない。1年間はブラジルでポルトガル語に浸っていたから、英語は相変わらず駄目である。しかし2年も外国生活を過ごしたことで、緊張感は無いわけではないがやはり緩んでいた。Cotterman先生から「生物を學ぶなら化学をしっかり勉強しておかなければならない」といわれていたのである程度は覚悟はして勉強した。分厚い教科書には辟易したが、これはウィスコンシンでの人類学の学部コースHuman Evolutionですでにお馴染みである。しかし3人の講師による講義の英語にはやはりついていけなかった。酵素反応の公式などの数式が出てくるのはまだよかった。かなわないのはよく似た有機化合物の命名法で、これはもう暗記するしか他なかった。前期の単位は何とかBであったが、後期の授業では代謝サイクルに関与する酵素やコファクターの名称をすべて容積の小さい脳に整理整頓して詰め込まなければならなくなった。もちろん用語のスペリングも覚えなければ答案に書くことができない。飽和状態を越えるともう後は真っ白。勉強のやり方が悪かったのか、結果はC。 Morton先生は苦い顔をして「安田は研究で成果を上げているから…」とかなんとかの手紙をGraduate School宛てに書いてくれて、まずは退学になることは免れた。あとで聞いたのだが、受講講義の成績の平均点がBなら、OKとのこと。ウィスコンシン大学はすべての学科でB以上でないと自動的に退校という仕組みだとか。勉強が出来ない者は去れとか、強烈な選抜がかかるのである。私はまさに低空飛行で落第をタッチアンドゴーと地で行きなんとか墜落は免れた。
そういえばハワイに着いたその年の11月22日に大統領J F Kennedyがダラスでオープンカーでパレード中に暗殺されたというニュースが飛び込んできた。丁度、授業中であったが、ただちに中止。黙ってショックを隠すような雰囲気で皆静かに引くように教室を離れて行ったのが印象的である。 1ヶ月ほど前に来布した大統領の顔がまだ消え去っていないこともあろう。あの時大統領は、空港からS Beretania St.を経由してハワイ大学へイーストウエストセンターを訪ねたのだと思うが、真宗教会の前を通過して行った。そのとき遠くからではあったが写真を撮ることに成功した。オープンカーは結構速くあっと言う間の一瞬で走り去ったが、たくさんの人々の間にレイを掛けた大統領の首が写っていた。道端で沖縄の人たちが歓迎の歌と踊りを披露していたが、果たしで大統領は聞いたのだろうか。翌日の新聞で大統領が沿道の市民から多大の歓迎を受けたことが写真入りで報道された。警備はすごくうるさく前日からドミトリ−の中や周辺をチェック、当日は2階建てのドミトリ−の屋上やそれとわかる人がここかしこに立っていた。前準備のわりには大統領はあっと言うまに走り去って往ったというのが偽わりのない印象である。そのとき休講になった時間は後に講師の先生から学生達に相談があって、きちんと補填講義が行われた。学生の毅然とした態度は日本の学生のそれとずいぶん違うような気がした。
6.5. Genetic Seminar
単位の一つとしてGenetic Seminarに出席した。学生は何人いたかは覚えていないが、勉強した知識の理解とプレゼンテーションの訓練でもあった。最初のセミナー担当の先生はL Beckman教授でスエーデンのUmeaから来られた。後に雑誌Human Heredityに論文を投稿したときeditorをされており、はからずも再度お世話になった。ゲル電気泳動法が開発され、それにより酵素の遺伝的多型がドンドン見つかり始めた頃である。何をしゃべろうかと考えて、相談に伺ったところ、LDHの多型についてはどうかと、Sciense誌のMarkert CLの論文を示された。これを読んで、分からないところは引用文献で調べること、さらに基本的なことで疑問があったら教授に聞きにきなさい、とのアドバイスを受けた。貧弱な化学の知識、つまり私の知識としての化学は実験で裏打ちされていないから、渡された論文をみてもわかったとしても明確でないのだ。これは数学の本を読むとよりはっきりする。わかった、わかったと思って読んで行くと、いつしかわからなくなり、どう考えてもその先がよめなくなる。いい加減な理解で読むから不明瞭な内容、つまりゴミが貯まるため分からなくなるのである。私の化学はこれが数頁になるだけで状況はあまり変わらない。ゲル電気泳動法などの手法については覚えるしかないが、なぜゲルなのか電圧や温度などになると教科書に書いてあることを暗記せざるを得ない。「読書百辺意自ずから通ずる」というが、確かに繰り返し読む程に少しずつわかって来るから妙である。5回ほど繰り返し読み直してわからないところは先生に聞きに行った。英語に弱いから聞くのにも勇気がいる。説明がよくわからないときは、適切な文献を教えてもらう。結局、一つの論文を読むのに20近い引用論文やテキストを読むことになった。学生仲間で討論するのが一番よいのであろうが、ここでも英語の聞き取りが駄目なので結局論文を探して読むのが手っ取り早い。この訓練は今でも役立っている。新しい事柄を勉強するには最新の論文をともかく読む。分からない点は引用文献を探してそれを読む。今日大抵の論文は手に入る。仕事は先輩の肩に乗ってするのだから、必ず関心のある分野の始まりの知識に遭遇するまで文献を遡る。一回読んでわからなければ最低3回読めば内容が見えてくる。時間がかかるが、私は今でもこのやり方をする。
セミナーは大学内公開である。発表当日、会ったこともない人が何人か来ており、どうなることか不安である。しかし、十分準備したという自信?でプレゼンテーションを始めるが、単語を並べるばかりと相成った。それでも出席者は静かに聞いてくれた。恐らく私の英語に辟易したのか。いくつか質問があったが、基礎的な事柄で困ることはなかった。先生方の質問やコメントはさすがに私の理解の「不完全燃焼」な点をついており、なるほどと納得させられる。終わりのころ「フィンガープリントとは何か」と生化学遺伝を勉強している者には常識と思われ事項の質問があったが、うまく(英語での)説明ができずに立ち往生してしまった。残り時間が少なかったせいか担当教授が助け舟をだしてくれたが、冷や汗をかいた。恐らくよそのデパートメントからの参加者であったのだろう。後でポストドクのMPさんが「よかったよ」と言ってくれたのでほっとしたのを覚えている。しかし、それからコーヒータイムのデスカッションで私の英語の言い回しを真似して時折茶々を入るようになったのにはまいった。それだけに皆にインパクトを与えたのだと、自分勝手に納得。
Genetic Seminarは一学期に一回のプレゼンテーションで、あとは他数人の学生の発表を聞き、討論に参加するという仕組みであった。どの出席者からも忌憚のない質議や討論が行われた。その中で沈黙を守るのはむしろ居たたまれない雰囲気で、何のためにセミナーに出てきたのか、質問でないのはプレゼンテーションが理解できなかったのか、あるいは質問できないほど不勉強なのか。スピーカーもオーデアンスも誰もがセミナーにメリットがある筈だという雰囲気なのである。さすがにgive and takeのお国柄である。年に秋と春の二学期で3年間単位を取ったから、合計6回発表したことになる。毎学期、担当の教授が代わるので私に割り当てられる論文も多様な領域からであった。教育という観点から当然なのであろうが、私には集団遺伝学の論文紹介が割り当てられることはなかった。Researchで当然カバーされてるとの理解である。