第34回 ライデン再訪-再びブタペストへ(1/29/2008)

ライデン再訪: 1992年11月16日から11月24日までの一週間、再びオランダ、ライデンを訪ねてサンカラ先生と共にブタペストへ飛んだ。まずはサンカラ先生のご自宅に落ち着いた。4軒が一つの建物で横に並んだうちの1つが彼の家である。庭もあり、奥様の好みとかで、バラを主とした草木が植えられていた。晩秋の雨で前回の訪問時とはまた違った趣であった。
成田からスキポールまでの旅は長い。上空から見下ろしたシベリアの大地は灰白色でぽつんぽつんと光がわずかに人の営みを表わしているようで、季節がら凍て付いた広漠な大地が飛べども往けども続いているように思えた。飛行機は相当速いはずだが、光のスポットの動きは遅々たるものがあった。機内はおやすみということで僅かに非常灯だけで、機外の気温を考えると地上1万メートルの空間をイスに座った形をとり、超高速で飛んでいる自分を想像して思わず滑稽なわが身を省みて不思議な気持ちになった。
今回のブタペスト訪問での用件について打ち合わせをした。私の用務はDr. Tusnady Gが考案した疾患の多因子モデルについて理解することと、そのモデルに従って開発された計算機プログラムの扱い方について開発に携わったDr Michaeletzky Gから教授してもらうことであった。結果を言うと、遺伝リスクの評価には使えないことがわかったのであるが、これは後にDR. Chakuraborty Rとの議論の末はっきりしたことである。
ブタペストへ飛ぶ一日前に、デルタ・エクスポへサンカラ先生とご一緒に訪ねた。そこはオランダ北部のゾイテル計画と並ぶオランダ屈指の治水土木工事で、オランダ南西部のライン川の河口を洪水から守るダム建設事業の経過(デルタ計画)の展示場である。
1953年2月1日夜、オランダ南西部を大洪水が襲った。北海の水位の上昇により、67箇所の堤防が決壊したのだ。1,835もの人命が奪われ、破壊家屋は4,700戸に及び、牛馬も20万頭以上が犠牲になったという。2月の極寒の真夜中の出来事だから、その惨状は想像しただけでも目を覆いたくなる気持ちになる。
これを受けて1958年にデルタ法が設定されてデルタ計画を実施することとなった。巨大なダムを建設(14個のダム)して、北海の干満とライン川、マース川、スヘルデ川とを切り離す大掛かりな工事である。最も難関であった工事は1986年に完成したオーストテルヘルダムであった。水深40メートルの急流をせき止め、しかもせき止めるだけでなく、水門の開閉で水流の調整、潮の満ち干を可能にするハイテク技術を駆使した工事であった。このダムは巨大な航空母艦の甲板に立ったような気分 (もっとも私は航空母艦に乗った経験はない) で、そのどっしりとした感覚はこれなら大洪水はものともしないであろうと感じた。自然とのバランスを保つために、この事業では新しい開閉式ダムが開発されている。ダムの一つは大風による高波の恐れがある場合には閉鎖される。それによって牡蠣の養殖場は被害を受けず、川の水の新鮮さと牡蠣に必要な適度の汚濁とを守るよう工夫されている。ふと諫早湾の干拓事業で造られたダムのことに思いを馳せた。
オーストテルヘルダムにはデルタ・エクスポがあり、ダム計画、その建築過程、そしてその機能についての展示がある。フイルムショウがあり、1953年の大洪水にはじまり、1986年の大工事の完成祝賀式典の模様が映しだされて終わった。フランス、イギリス、ベルギーなどの近隣諸国から多くの大統領や首相、王族が参列するなかで、ベアトリックス女王の手で水門がついに閉じられる場面でショウは終わった。観客席からは拍手が起こったのは印象的であった。

再びブタペストへ: スキポールからフェリヘジ空港へのフライトは快適であった。途中、ドイツ人の若者が気さくに誰にでも声をかけていた。私のところへも来て、窓の外を指差して、アルプス山脈の山頂が見えると教えてくれた。なるほど白い雲から浮き上がった冠雪した山頂がいくつか進行方向右側の窓からみえた。多分フランスかドイツの領空を飛んでいたのであろうか。それから如才なく、どこから来たのか、どこへ何しに行くのか、英語で問いかけてきた。ほどほどに答えてから、こちらもご挨拶代わりの質問をした。旅行を楽しんでいるとの答えが返ってきた。
Dr. Czeizel AEの教室員が空港に出迎えてくれた。白いものが積もるほどではないが降っており、寒かった。しかし、今回はブタのダニューブ(ドナウ)川ほとりの一ホテルを予約してくれたので、一先ず一安心した次第である。
Dr. Tusnady Gの所属する数学教室はハンガリー科学アカデミーの建物の中にあり、翌日そこでDr Michaeletzky Gと彼の助手?とも落ち合うことになった。サンカラ先生と私はホテルから歩いて鎖橋chain bridgeを渡り科学アカデミーまで行くことになった。初対面の挨拶をした後、私はツナーディ先生と2人講義室に隔離(?)され形で、彼の考案したモデルについての説明を拝聴することになった。彼の英語の分かり難さは私に負けないくらいであることがわかり、最初はお互いに理解できない点は確認をとりながら話を進めたが、次第に間合いを取る時間が長くなって行った。それでも何とか理解したのは「ポリジーン多因子性疾患モデルに含まれるパラメータをハンガリーの遺伝性疾患(主に新生児の先天異常)のデータに当てはめて推定する」のが目的であることであった。彼の数学の専門は知らないが、数学者によくある結論が出るたびに確信を持った断言を下していたのは、学部で数学を学んだ私には理解できることであったが、生物学的な観点から考えると、断定し過ぎるとその例外がでた場合はどう扱うのかなど考えられるところが多々あり、ちょっと待てよと言いたくなることが結構あった。語学のハンディもあり、お互いに次第に寡黙になってしまった。「生物に例外あり」と、「数学的厳密さ」とはどちらもうまくつき合わすことができなければモデルは役に立たなくなるし、また理解し難くなってしまう。気をつけなければならない。
彼の名はGaborで姓はツナーディで、姓名の呼び方は日本と同じでツナーディ・ガボアである。教室の前の廊下にハンガリー科学アカデミー出身の優れた業績を上げた学者の写真とその人物の姓名が書かれていた。その中にカトウという姓があったので、日本にも「加藤」という姓氏があるがこの人は日本人かと訪ねたところが、かれはマジャール人(ハンガリー人はマジャール人の子孫である誇りを持っている)であるという。カトウはハンガリーリでもよくある姓の一つであるとのこと。カシオのカード電卓(made in Japan)を日本からのスーベニヤとしてガボアさんへ謹呈した。
翌日はDr Michaeletzky Gと彼の助手の2人から、計算機プログラムの利用法を学ぶことになった。当方としては、ポリジーン多因子モデルのパラメータに妥当な数値を与えて、特に突然変異率が(放射線被ばくにより)2倍になったとき、他のパラメータは変化しないとして、突然変異率が倍化後の子ども世代でポリジーン性疾患の発生率がどの位増えるのか、またどのくらいの世代をかけて新しい平衡状態に到達するかが知りたいのである。昨日のデスカッションで、プログラムの目的が遺伝リスク計算ではないこと、それに私がようやく疲れが出てきた為に「こっくりさん」が始まってしまい、サンカラ先生に眠気覚ましに肩を叩かれることも度々であった。ガボアさんのモデルもサンカラ先生は理解し難いようであり、結局細部にわたった内容についての意見の疎通が出来なかったのは残念であった。Dr Michaeletzky Gは穏やかな人でこちらの要望に合わせたプログラムを開発することを約束してくれた。
数学とプログラムのレッスンが一段落した後、ハンガリー国立公衆衛生研究所人類遺伝部へ移動して実際にメデカルデータを集めている人たちから現場の話を拝聴することになった。ツナーディの意向(影響力?)はここでも強力なようで、各人の発表についてこと細かくコメントを付けていた。現場の人たちの話はやはり面白いし、分析する人間にとても大変役に立つことがあり、細かい点で得ることがあり、また分からない点についての再確認もした。その後時間があったので、サンカラ先生と共にハンガリー放射線防護研究所へ表敬訪問をした。突然の訪問であったが、快く迎えてもらい所長(残念ながら名前は失念してしまった)室でしばらく国連や国際放射線防護委員会の遺伝リスクの活動についてしばし歓談をよろしく過ごした後、来客名簿に署名して退室した。
Dr. Czeizel AE教授のご好意で、ブタの王宮の近くにあるハンガリー国立美術館を鑑賞する機会を得た。地上階(日本の1階)ではゴシック式の木彫物やルネッサンス期の石彫物。1階(日本の2階)は19世紀の絵画と彫刻などで、ハンガリーが世界に誇る画家ムンカーチ・ミーハイMunkacsy Mihaly(1844-1900)やパール・ラースローPaal Laszlo(1846-1879)らの作品があった。後期ゴシック、後期ルネッサンスやバロック美術などが展示されていた。2階には20世紀の絵画彫刻などがあった。総じて暗い感じの絵が多い印象を受けた。これもハンガリーの気候風土を反映しているのであろうか。Dr. Czeizel AE教授は医師の眼で、作品(絵画?)をみると作者に精神疾患の徴候が推察できる作品がいくつかあるといっておられた。
国立オペラ劇場にも招待されて観劇した。上演されたのが何であったかもう記憶にないのが残念であるが、内部は華麗で重厚な黄色の別世界が広がっていた。2階席で開演の前に写真のフラッシュを光らせたら、フラッシュ写真は駄目との注意を受けて恐縮した。サンカラ先生はあまり興味がなかったようで、折角の招待だからねとか言っていた。場所はアンドラ-シ通りのダニュウブ川よりからおよそ400m進んだ左側である。ネオルネッサンス様式の壮麗な建物でハンガリーが誇るヨーロッパ有数のオペラ劇場の一つだという。リストやマーラーがこの劇場で活躍したと聞いて、彼ら大音樂家が急に身近に感じる気持ちになった。
ツナーディ先生のご自宅へ午後の半日お伺いした。バスでいったのは覚えているけれども、彼の家はペストのどこかである位置感覚は残っているのだか、どの位バスに揺られていたかさっぱり忘れた。ツアイツエル教授との共同研究を始めた動機や先天奇形のポリジーンモデルを開発した経緯などをざっくばらんに話してくれた。奥様からローカルのお菓子をご馳走になり、和やかな一時を過ごした。コヴァーチ・マルギット女性陶芸家の話がでて、一頻りセンテンドレの美術館の話がはずんだ。コヴァーチ・マルギットがハンガリーの庶民の心に暖かく沁み透っている様子が伺えた快い時間が過ぎた。