第39回 過ぎ去った人々-1 (2008/06/23)

過ぎ去った人々-1。今年(2008年)で学部を卒業してから丁度50年になる。これまでの研究生活について、お合いした諸先生や共同研究者との触れあいを含めて述べてきた。しかし、その根底になる研究への関わりは学問をするというより、むしろ「調査研究」に過ぎなかったと思えるようになった。はからずも遺伝学の勉強を始めたのも、科学技術庁放射線医学総合研究所(放医研)の研究員として採用されたことによるが、そこで与えられた業務内容が「放射線の遺伝性影響の調査研究」であった。放射線も遺伝学も知らない学部の数学科出の人間に何をやれというのであったのであろうか。当時の放医研は創立してから1年足らずで、いろいろの分野の「専門家」が集められていたが、誰もが実際に行う研究については暗中模索であった。研究所は稲毛に建てるということが予定されていたが、まだ影も形もなかった。早速、内地留学という形で三島の国立遺伝学研究所に派遣されて、そこで木村資生先生にお会いしたことで私の一生の仕事が決まった。木村資生先生により集団遺伝学を知ることができたが、その表面を知ったに過ぎない。多くは先生の名著「集団遺伝学概論」からであったが、発刊後に一部謹呈いただき、ほぼ一年かけて読了した。どの程度理解したかのかとにかく、遺伝研滞在一年後ぐらいの素人が、集団遺伝学の真髄がわかるはずもなく、境界値が特異点となるフォッカー・プランク微分方程式の解を求める数学ですら四苦八苦した。今から思うと、遺伝学の知識なしに遺伝子頻度の数値モデルがわかる筈もない。それでも数学を用いて遺伝現象を数学を用いてここまで表現された木村資生先生には脱帽した思いであった。メンデルの法則を本当に分かったと自覚したのは、正直いって放医研定年退職後、知識を整理するために始めたこのフォーラムの一つ「集団遺伝学講座」をまとめていた最中のことである。ちなみに「集団遺伝学講座」は木村資生先生の集団遺伝学概論を中心に、それと丸山毅夫さん、太田朋子さんの仕事の一部を私なりに整理したものである。

ウィスコンシン大学のモートン博士(Dr. Newton E. Morton) のところへ、留学することが実現したのも木村資生先生の紹介であったし、丸山毅夫さんと知己を得たのもウィスコンシン大学遺伝医学部であった。アメリカの大学に留学できたのでさえ思いがけなかったが、さらにブラジルサンパウロでの一年間の滞在は、まさに人生において何が起こるか分からない。アデマール・フレイレ‐マイア博士、E. エリア-ネ博士、E. クリーガ博士の3人は現地でモートン先生のプロジェクトに参加した人たちで、アデマールア・フレイレ‐マイア博士はデルチア夫人と共に後に放医研に訪ねてきた。このお二人は後に筑波大学の浜口教授の研究室へ案内した記憶がある。

外国語は英語すら儘ならないところへポルトガル語をしゃべらなければならない破目になり、ウィスコンシン大学での最初の一学期間、ポ語強化授業コースをとれということに相成った。毎週、月金の2回、火木それぞれ1回の授業の他、水はインストラクターの研究室で時間外の発音練習、というカルキュラムであった。ロイ先生が火木に文法、残りはブラジル人の助手T.A.のMissブレナー先生で、生徒も先生も大奮闘であった。外国後を取得するには斯く学ぶべしと実感したのだが、一学期の勉強で、とにかく日常会話が曲がりなりにもできるようになったのには自分ながらびっくりした。

ウィスコンシン大学での後期の授業の一つが「ヒトの進化」という人類学部の学部生対象の講義・実験であった。実験のTAがデニストン先生で、彼からはメンデルの法則の解説を聞いたのを覚えている。先生は当時人類学教室のPh. D院生であった。この先生とは私の定年前後に従事した放射線防護委員会の多因子病班のハンガリーのブタペストでの会議で再会した。

その後ハワイ大学に移り、そこで3年後にPh. Dを取った。平泉雄一郎先生が家族一同と助手2名を伴い船でハワイに来られたのもその頃である。平泉雄一郎先生はキイロショウジョウバエでマイオテックドライブというメンデルの分離の法則が成立しない現象を発見された方である。先生からは直接の指導を受けることはなかったが、物事を非常に真摯に受け止め、丁寧に議論される方であった。木村資生先生の理論研究について平泉先生はあまり語ることはなかったが、「始めたら阿片みたい」だと言っていたのが印象的であった。

コッターマン教授はウィスコンシンでもブラジルでもモートン先生の調査準備、とりわけプラスチックの実験器具の作成、でお世話になったが、ホノルルでも大変お世話になった。私の始めての論文をまとめるにあたり、先生の滞在先のマンションに押しかけて夜おそくまで討論をお願いしたことがある。カメのスープがおいしいからと、一緒にレストランへ行ったこともあった。

MPことミン-P ミーはウィスコンシン大学からのポスドクでストーン博士の指導でPh Dを取った人で、量的遺伝学の専門家であった。彼からはフォールトラン言語を学ぶなどコンピュータの扱いについて個人的な指導をいただいた。コンピュータのアドレスとその内容の区別が理解出来なかったため、プログラムは一向に進まなかった。変数のアドレスに入るデータの数値がプログラムの実行中変化するという簡単な事実が卒然とわかったとき、途端にプログラムが素直に答えを出し始めたのである。MP先生はその後の私の理解に吃驚していた。まさに河童の川流れである。事実を素直に受け止めることが大事である。

ホノルルは本当に東西の橋渡しの中継点で、実によく著名な人が大学にやってくる。特に夏学期は講義のあとの休暇を兼ねるとでもいうのか特に多い。ケネディ大統領は暗殺されるおよそ1ヵ月前位だと思うがやってきた。滞在先の寄宿舎の前で、車で移動中の写真を一瞬撮った。首だけが写っていた。ポーリング博士の講演には多数の聴講者が集まり、さすがはノーベル賞受賞者であると思わせた。人類遺伝学の教科書(後に私が第3版の翻訳に関わった)の著者スターン博士や、PTCの遺伝の分析で用いられたスナイダー比で知られるスナイダー博士はコッターマン先生のPh Dの主任指導教官であった。

アメリカの二つの大学院で勉強する機会を得たのであるが、それについて思うことを述べてみよう。第一に当然ながら英語能力は必要である。少なくとも授業を理解できることは必須である。そのために、外国人留学生には簡単な英語のテストがあり、それに落第すると最初の学期で外国人留学生向け英語クラスが必須となるらしい。なるらしいというのは、私はポルトガル語をしゃべれることが先であるから、英語は馴れればそれでよいという主任教授の一存で止めることになったからである。丸山毅夫さんがラボでその日に学んだ慣用句や言い回しをラボの同僚を前に一生縣命しゃべって、皆を笑わせていたのを覚えている。そのころ私はポルトガル語でイタリーからのポスドクDr Iバライを相手に同様なことをやっていた。イタリー語はポルトガル語とともにロマンス語で文法や発音がよく似ているからと、バライさんがどうも退屈しのぎに私の相手をしてくれていたようである。第二は解らないことがあったら、質問することである。理解できないことをそのままにしておくと、対話の相手は理解したものという前提で話を進めるので、わからないことが積み重なりますます理解できなくお互いに気まずくなる。当然、質問された方もわかる範囲でしか答えることができないから、質問者がそれ以上深く知りたいとわかれば、回答者はその方面の専門家か文献を紹介してくれる。この辺の人脈というかネットワークはアメリカの大学院では非常に合理的である。したがって、質問をすることで必ずそれぞれのレベルでの答えを得ることができるのである。このことは逆に質問しなければ理解が進まない。理解するには質問をすることが肝要なのである。質問するには何が問題なのかを勉強しなければならない。逆に質問をしない学生は勉強していないというレッテルを貼られてしまうことになる。ウィスコンシン大学の遺伝学部では木村資生、平泉雄一郎、丸山毅夫と日本人留学生が続き、日本人が「恥ずかしがりや」であまり質問しない傾向があるのではないかと読んでいたようである。クロー教授(当時の医学遺伝学部長)がそんな話をしていた記憶がある。

わたくし個人に関していえば、放医研に入所したとき、全く専門外の領域を勉強しなければならないので、わからないことは質問しようという意気込みは最初からあった。しかし、最初の遺伝研でこの意気込みが誤解を招くことになったようである。遺伝研に研鑽に来る者は前提として遺伝学の初歩は当然解っているものらしかった。学部で遺伝学を学んだ者にとって自明であろうが、私はその例外である。私が遺伝研に行ってからまもなく「遺伝研へ来てアリルとは何か」という質問をした者がいるという噂が広がった。遺伝研に来るからには当然知っているべき知識であろうが、私は「専門家」ではない。今日いろいろの領域の人々が遺伝研へ研鑽に来るのであろうから、こんなことはないと思いたい。しかし遺伝研といえども「メンデルの法則」を本当に理解していない人が皆無と言えるのであろうか。

放医研でも最初の頃お互いの専門分野のことを理解しようということで、「研究集談会」なるものが催された。これは各研究部のしかるべき人にそれぞれ話題を提供してもらい、お互いの理解に供しようという主旨であったようである。遺伝研に1年(正確には10カ月)滞在したという体験だけで私も引っ張り出され、「メンデルの法則」の説明をさせられた。質問は出なかった。最も話していた方も本当に分かっておらず、やたらに3:1や1:1の分離比を黒板に書いていた。この集談会はそのうち尻つぼみになったのは恐らくお互いに業務が忙しくなかなか専門外の人たちまで手がおよばないというか、結局お互いの相互理解までいかなかったようである。

アメリカから帰国後3年間の遺伝研はハワイでの仕事の整理とヒト集団の遺伝構造の統計遺伝学的研究に没頭していた。モートン先生との交信で、ヒト集団の統計遺伝学的研究を続け、木村資生先生の指導でヒト集団構造の理論、集団遺伝学の理論的研究について研鑽を積んだ。丸山毅夫さんの提案で、木村資生先生を始め太田朋子さんも加わり、丸山さんを中心に関数解析の勉強会を会議室で行ったりした。松永英人類遺伝学部長も参加された。当時、丸山さんは分集団飛び石モデルをフーリエ解析の手法を用いて研究していた。この時期に私は理論集団遺伝学をしっかり勉強することができた。学問としての集団遺伝学に強く触れた期間である。