8.2. 放射線遺伝リスクと倍加線量
昭和2年(1927)にMuller HJがキイロショウジョウバエにX線を照射して突然変異を人工的に起こし、それらの突然変異体は自然突然変異体のいずれかと「同じ」表現型であることを示唆した。以後、突然変異原としてのX線の効果についての研究が進められ、特に線量と誘発突然変異率の関係に注目が向けられてきた。昭和20年のヒロシマ、ナガサキの原子爆弾投下による被爆、昭和29年第五福竜丸漁船員のビキニ環礁での水素爆弾被爆と強烈なパンチ、その後しばらくの年月は南太平洋域でぼかぼか原水爆実験が行われ放射線影響についての関心が特にわが国日本でいやが上にも盛り上がっていた。70年間は草木も生えない、マグロは食べるな、雨が降れば死の灰の雨に濡れないように、と巷の新聞雑誌に活字が躍った。そんな時代に遅ればせながら科学技術庁放射線医学総合研究所は発足した。それは昭和32年(1957)7月1日であった。私が大学(数学科)を卒業して入所したのはその翌年4月1日で、この年国際連合科学委員会(1958)はフォールアウトの遺伝的影響の危険を強調した報告書を採択している。
放射線と遺伝的影響としての突然変異率:高エネルギー放射線の線源はいろいろであるが、特にX線は健康診断などで馴染み深い。生物への照射による影響はまず放射線エネルギーが生体原子と衝突してそれにエネルギーを付与する。その結果電子が飛び出しイオンが形成され、分子の不安定状態が生じる。この状態では化学反応が惹起して分子は何らかの安定状態に戻ろうとする。衝突した原子がDNA分子であればこれを直接作用、そうでなくたとえばタンパク質であれば、その後の二次的効果としてDNAに変化が起きることがありこれを間接作用という。特に生殖細胞への作用に注目したとき、放射線の遺伝的影響が問題となる。
放射線被ばく線量は単位体積に生じる電離数で測る。最初はX線発見者のRoentgen W(1895)に因んでレントゲン(r)を用いたが最近は吸収線量グレイ(Gy)を用いるが、被ばく体グラムあたりの放射線エネルギーの吸収線量ラド(rad、100rad=1 Gy)ことがある。またシーベルト(Sv)やレム(rem、100rem= 1 Sv)を用いることがある。これらの単位はエネルギーの違う放射線(たとえばγ線と中性子線)を同時に被ばくしたときの吸収線量である。一般人への遺伝的影響を論ずるには被ばく条件(低LET、緩照射、低線量)を目標にして考察するので、ほぼr=Gy=Svと考えてよい。
放射線量と遺伝子突然変異率の関係:X線による突然変異誘発の調査実験は最初ショウジョウバエで行われた。8~6,000レントゲンrの広範囲で一致した直線関係にあることがいくつかの実験でわかった(Timofeeff-Ressovsky et al., 1935; Spencer WP & Stern C, 1948; Shiomi T et al., 1963)。ある線量以下で放射線は突然変異率に影響しないというしきい値は存在しないようである。実務上これは重要なことで、どんなに少量の放射線でも突然変異率は線量に比例して増大することを意味する。線量・突然変異率の直線関係についての古典的解釈として、遺伝子近傍での1ヒット(電離)が突然変異誘発に十分であるという。放射線量は電離数で測るのであるから、突然変異率は線量に直接比例すると期待され実験結果はそれを支持している。ショウジョウバエの実験は雄X染色体の致死突然変異を調べたものであるが、低線量実験では2~3/1,000rの割合で増加するという結果が得られている。
倍加線量法:放射線の遺伝的影響の評価には、(a)照射実験のできる生物種では単位線量当りの誘発突然変異を調べる直接法と(b)照射実験のできないヒトには間接法という倍加線量法が工夫されている。実験生物種では直接、間接の両法がともに使える。倍加線量法は次のいくつかの実験事実と仮定に基づいている。
1) 自然突然変異率を(A)とする。
2) 放射線誘発突然変異率(B)は線量に(直線的に)比例する。
3) 誘発突然変異は自然突然変異に上乗せする結果となる。
すなわち特異的な誘発突然変異が生じるとは限らず、
通常既存の自然突然変異のどれかである。
被ばく線量をDとするとその時の突然変異発生頻度(AD)、これらの前提から
AD = A + B・D
と表わされる。ここで集団がAD = 2A となる線量に被ばくしたとすると、上の式からA=BDなる関係が得られ、この線量を倍加線量と呼びDDで表わす。被ばくにより集団の突然変異率(AD=DD)が自然突然変異率(A)の2倍となる放射線量を倍加線量という。すなわち
DD = A/B。
倍加線量は自然突然変異率を単位線量あたりの放射線誘発突然変異率で割った値である。線量・効果関係が比例することが前提である。倍加線量の逆数1/DDは単位線量当りの相対突然変異リスクという。当然ながら倍加線量が大きいほど相対突然変異リスクは小さくなり、逆に倍加線量が小さいと相対突然変異リスクが大きくなる。Aについては実験生物でもヒト集団からも調査することが出来る。Bは照射実験生物では求まるが、ヒトは原子爆弾被爆者、職業被ばく者、医療被ばく者などの集団調査から得ることも可能であるが十分信頼性のある数値はあまり期待できない。
キイロショウジョウバエ:昭和35年(1960)にスタートした放医研特研の一課題「低線量放射線による突然変異率の研究」の成果(SIIY: Shiomi T, Inagaki E, Inagaki E & Nakao Y, 1963))とその土台となった(SS: Spencer WP & Stern C, 1948)を比較しながら考察してみよう。これらのプロジェクトではいずれもキイロショウジョウバエ雄X染色体にX線を急照射して、劣性致死突然変異をMuller-5法で調べた。仮定(1) についてはSIIYの方がSSより若干低い。これはSIIYは自然突然変異を最小にするため10世代毎に一貫してisogenic Canton-S系統のハエを用いたため(安田,1960)で、SSはCanton-Sとそれ以外の系統も用いている。仮定(2)については、線量-効果関係は直線でその勾配(B)は両実験ともほぼ2×10-5/rである。仮定(3)はマーカーとして雄X染色体致死突然変異を用いているので自明である。SIIYはおよそ53万本の雄X染色体を調べたが、SSは約20万本である。
キイロショウジョウバエ雄X連鎖致死突然変異の(急)線量・効果関係
照射線量域(r) A(%) B(%) A/B=DD
高線量
SIIY 0, 1000 – 4000 0.0714 0.00211 34
SS 0, 1000 – 4000 0.1039 0.00197 53低線量
SIIY 0, 8, 25 0.0634 0.00215 29Bの値が両者の実験でほぼ2×10-5/rと一致しているのは、高線量、低線量いずれの照射域でも誘発致死突然変異率が同じということで興味深い。高線量域のデータでAの値がSSではSIIYより高めに出ているが、これはSIIYは突然変異率を最小にする配慮をしたことの反映である。この結果はA(自然突然変異率)が高いと倍加線量が大きくなることを示唆する。
これらの実験では非照射群を含めて低線領域で観察されたクラスター致死突然変異の扱いが未解決のままである。 一応、SIIYの低線量域の照射はハエをいくつかのグループに分けているのでそれらのロット間の異質性を含めて統計的に処理している(今泉、安田, 1961)が発生学的な答えとなっていない。SSでは生殖細胞から精子spermatozoaが生成されるまでの発生段階で精原細胞の放射線感受性については触れている。後に報告されたショウジョウバエ野生型Canton-S系統の伴性劣性致死突然変異の大規模なデータ(Drost JB & Lee WR, 1998, p.429に引用)によると、実験室集団で2,624の致死突然変異の20.9%がクラスターだという。また自然集団の22系統からの211致死突然変異の10.9%がクラスターとして観察されている。致死突然変異個体は生存しないから、受精後の胚から成熟生殖細胞までのすべての段階で起きた突然変異を区別することができない。一般にショウジョウバエの幹細胞数はマウスに比べて小さいことから、クラスターの大きさで突然変異の起きた時期を推定することはできないという。
以上まとめると、低線量急被ばくのときの放射線遺伝リスクをBの値でみると、1レントゲンあたり10万に2つの突然変異が生じている。倍加線量はおよそ30レントゲンで、これは当時の国連科学委員会の報告(1985)と一致する。
マウスの特定座位可視劣性突然変異:同様なデータがその後マウスでも得られている。マウスはほ乳類なのでヒトにより適切なデータが得られるに違いない。しかしながらマウスはショウジョウバエに比べてより多くの問題があり、得られる情報もしたがって限られている。Russell WL & Kelly EM, (1982) のレビューによると7特定座位の可視自然突然変異率は8.10×10-6で300~600rのγ線急照射による誘発率は2.19×10-7だから、単位線量当りの誘発率Bは自然突然変異率の1/10、倍加線量37レントゲンが得られている。
Dubrova YE et al.(1998)はマウスにγ線急照射したときののミニサテライト2座位についての結果とその他、ラッセルの7座位、優性可視、優性白内障、酵素活性、骨格異常、準不妊の7報告の倍加線量の平均が35cGyになるという。いずれも高線量域の結果であるが、マウス倍加線量はショウジョウバエでの低線量域の30レントゲンとほぼ一致する。
マウス急照射による倍加線量の評価
照射線量域(r) 検査数検査 A(%) B(%) A/B=DD
Russell7座位 0, 300, 600 1,051,869 8.10×10-6 2.129×10-7 37
ミニサテライト 0, 50, 100 252 0.1111 0.3379 33
以上からBの値は生物種あるいはマーカーによる違いが大きいが、A/B、すなわち、倍加線量DDは相対的に安定している。これらのことから、B値を求めることが困難なヒトの遺伝的影響の評価に倍加線量法が有用である。
マウス:急照射と緩照射、線量率:「放射線誘発突然変異率の出現頻度は線量率に依らないという従来定説とされていたがこれは成立しない」という副題のついた論文(Russell WL, Russell LB & Kelly EM (1958))がでて、放射線遺伝学は転機を迎えた。マウスの精原細胞spermatogonia、卵母細胞oocyteへ緩照射をすると特定座位突然変異率が放射線急照射よりも低くなるという。当時、遺伝研の特別研究生として参加した研究セミナーで、この論文を田島弥太郎先生が「ガーン」と叩かれたような大きなショックだとおっしゃりながら紹介されたのが印象的であった。
それまでの実験はすべて与えられた線量の放射線の1回急照射で起きた突然変異を観察したものである。その後行われた百メガマウス実験と言われる規模の実験から次の結果を得たRussell WL & Kelly EM (1982)。
As精原細胞へのγ線緩急照射したときの突然変異データ
カテゴリー 照射線量R 線量率R/分 突然変異数 検査数 突然変異率×105
非照射群 28 531,500 0.75
緩照射群 86 0.001 6 59,810 1.43 300 0.0007 11 48,358 3.25300 0.0007 11 48,358 3.25 300 0.001 15 49,569 4.32 300 0.009 10 58,457 2.44 300 0.005 24 84,331 4.04 小計 60 241,125 2.48516 0.009 5 26,325 2.71 600 0.001 22 53,380 5.89 861 0.009 12 24,281 7.06急照射群 300 90 40 65,548 8.72 600 90 111 119,326 13.29合計 1,121,295
さらにいくつかの文献も加えてレビューして、線量・効果関係が直線(AD=A+ BD)に合うことを確かめ、AとBの推定値を求めた。
Ax106 B x107 DD 急照射 8.10(1.19) 2.19(0.19) 37 緩照射 8.10(1.19) 0.732(0.083) 110(括弧内の数字)は標準誤差である。これからB値についての緩照射と急照射の比は0.334(0.046)となる。したがって緩照射での倍加線量は110レントゲンと推定している。なお合計線量300レントゲンのとき、0.8/分~0.0007/分の範囲では線量率効果が見られないことを指摘している。
ヒト集団が放射線を慢性的に長期の被ばくに曝されるのは、高バックグラウンド地域の住民や人為的ミスで低線量率放射線を連続的に長期間被ばくするのが典型的である。明らかにすでに生殖年齢を過ぎた人たちの被ばくには放射線の遺伝的影響はない。その他放射線治療による数ラドにも及ぶ被ばくをする人たちがいるが、それらは被る損失と利益の観点から特に選ばれた人たちである。ヒト遺伝的影響の懸念はしたがって低エネルギー付与、低線量、低線量率放射線を被ばくする生殖年齢が終わるまでの一般庶民である。多くの議論がなされているが、今日倍加線量は100ラドあるいは1シーベルトをもって代表値としている(UNSCEAR,2001; BEIR Ⅶ phase 2,2005)。
本稿は放射線による突然変異の増加について述べた。しかし突然変異率の増加が必ずしもそのまま遺伝的影響なのではない。専門家は原因からその効果を議論したがる。一般庶民にとっては結果に直面して始めて「何が原因なのか」と懸念するのが普通であろう。ヒトへの影響は健康への気遣いではなかろうか。逆に勘案すると、「遺伝性疾患」が被ばくにより増えるのだろうか。放射線被ばくにより突然変異率が増えることはすでに述べたように明らかだから、放射線の遺伝的影響は遺伝性疾患を指標として、ヒトの健康がどのくらい損なわれるかを評価するのはしたがって自然な帰着である。そうすると、コントロールとしてヒトの遺伝性疾患の出現頻度のデータが必要である。また遺伝性疾患が突然変異遺伝子によるとすれば、その間の機構を量的に表現する集団遺伝学モデルも工夫しなければならない。もちろん物理化学的なwetの仕事も多々あろう。これらについては機会があれば触れてみたい。
文 献
Bodmer W & Cavalli-Sforza LL, 1976. Genetics, Evolution, and Man. p172. Freeman.
Drost JB & Lee WR, 1998.Genetica 102/103: 421-443.
Dubrova YE et al.,1998. PNAS, USA, 95:6251-6255.
今泉洋子、安田徳一、1961(昭36). 放医研年報5:113-114.
Muller HJ, 1927. Science 66: 84-87.
Russell WL & Kelly EM,1982. PNAS,USA, 79:542-544.
Russell WL, Russel LB & Kelly EM,1958. Science 128:1546-1550.
Shiomi T, Inagaki E, Inagaki E & Nakao Y, 1963.J Rad Res 4: 105-110.
Spencer WP & Stern C, 1948. Genetics33:44-74.
Timofeeff-Ressovsky et al., 1935.Nachr Ges Wiss Gottingen, NF 1
安田徳一、1960(昭35).放医研年報4:86-90
UNSCEAR, 1958.
UNSCEAR, 2001.