本連載77回で紹介したCRISPR/Cas9(クリスパー・キャスナイン)によるゲノム編集技術を応用した報告は、遺伝子にかかわる多くの分野から連日発表されている。畜産分野でも商業化につながる新しい成果が発表された。
ブタ呼吸器繁殖障害症候群(porcine reproductive and respiratory syndrome: PRRS)ウイルスは、1987年に米国で初めて見つかり、またたく間に世界各国の豚に広がったエマージングウイルスである。病原体のPRRSウイルスはアルテリウイルス科に属するRNAウイルスである。子豚では慢性間質性肺炎、発育不全などを起こし、妊娠豚の早産、死産や虚弱子分娩などの繁殖障害、成豚で呼吸困難など肺炎の症状を起こす。PRRSによる経済的被害は、北米では年間6億6000万ドルと言われ、日本では250億円と推定されている(1)。遺伝的抵抗性の豚を選抜することも試みられてきたが、成功例は限られていた。おそらく、PRRSウイルスに遺伝的多様性があるためではないかと考えられている。
PRRSウイルスは豚のマクロファージで増殖して病気を起こす。ウイルスの受容体としては、ヘパラン硫酸とシアロアドヘシンがあり、前者は細胞表面でウイルスが結合する際の受容体となり、シアロアドヘシンはウイルスが細胞内に取り込まれる際の受容体と考えられている。細胞内に侵入する際にウイルスは粒子表面の殻(カプシド)を脱ぎ捨てなければならないが、これには、第3の受容体としてCD163が必要なことが2008年に報告されていた(2)。ミズーリ大学のグループは、CD163の機能を欠損させることにより遺伝的抵抗性の豚が作出できるという仮説を立て、クリスパー・キャスナイン技術を応用して、CD163遺伝子を破壊した雄豚1頭と雌豚1頭を作出した。これらをファウンダーとして交配させて生まれた子豚3頭を7頭の正常な子豚と同じ豚舎内で約10万感染単位のPRRSウイルスを接種したところ、5日目に正常豚は発熱し発病したが、CD163遺伝子をノックアウトした豚は35日の観察期間中、発病は見られなかった。ウイルス抗体は産生されなかった。感染は完全に阻止されたとみなせる。CD163遺伝子はクリスパー・キャスナインにより編集されたため、豚に外来遺伝子は含まれていない(3)。
PRRSに対するワクチンはあるが、感染の広がりを阻止する効果が限られている。ゲノム編集技術で作出した遺伝的抵抗性豚が役立つとして、ミズーリ大学は家畜の遺伝的改良を目的とするGenus社とライセンス契約を結び、商業化を目指している。
家畜の分野では、クリスパー・キャスナインによる遺伝的改良の実用化が加速しているが、人の場合には難しい問題がある。2015年3月15日付けのネイチャー誌には「人の生殖系列を編集するな」というコメントが掲載された(3)。同じ年の12月初めには、カリフォルニア工科大学元学長、デイビッド・ボルティモア(逆転写酵素の発見でハワード・テミンと1975年度ノーベル賞を受賞)の呼びかけで米国科学アカデミー、米国医学研究所、中国科学アカデミー、ロンドン王立協会による国際会議が開かれ、遺伝するおそれのある人ゲノム編集のモラトリアムが議論された。2015年4月には、中国広東省の中山大学の研究者が地方の不妊クリニックから入手した染色体異常により生育不能の胚のゲノムの編集を試みたことが伝えられており、中国科学アカデミーの参加は意義があると見なされた。「人の生殖系列の編集を禁止するのは最善の医学研究に蓋をするものであり、アンダーグラウンド治療を行うブラックマーケットや規制のない医療ツーリズムにつながるおそれがある」といった見解も出されている。今後、人の生殖系列の編集をどのように進めるか、フォーラムを続けて検討されることになった(4)。
文献
1. 山根逸郎:日本の豚繁殖・呼吸障害症候群(PRRS)による経済的被害の現状。日獣会誌、63、413−416、2010。
2. Van Gorp, H., Van Breedam, W., Delptte, P.L. et al.: Sialoadhesin and CD163 join forces during entry of the procine reproductive and respiratory syndrome virus. J. Gen. Virol., 89, 2943-2953, 2008.
3. Whitworth, K.M., Rowland, R.R.R., Ewen, C.L. et al.: Gene-edited pigs are protected from porcine reproductive and respiratory syndrome virus. Nature Biotechnology, 34, 20-22, 2016.
4. Lanphier, E., Urnov, F. Haecker, S.E. et al.: Don’t edit the human germ line. Nature, 519, 410-411, 2015.
4. Wade, N.: Scientists seek moratorium on edits to human genome that could be inherited. New York Times, Dec. 3, 2015.