現在、30を超す新型コロナワクチンについて、臨床試験が行われている。最終的な有効性の確認は、ワクチン接種グループとプラシーボ対照グループについて、ウイルス流行地での感染率を比較するといった、間接的な手段に頼らなければならない。動物用ワクチンでは、チャレンジ(攻撃)試験といって、対象動物にワクチンを接種した後、ウイルスを接種して予防効果を詳しく調べている。チャレンジ試験ができれば、臨床試験の場合よりもはっきりした医学的情報が期待できる。
ゲノムの時代になってワクチンの開発が盛んに行われるようになり、ヒトチャレンジ試験は現実の課題になってきている。2016年世界保健機関(WHO)の生物学的製剤基準専門家委員会は、ワクチン開発におけるヒトチャレンジ試験の規制面についてのガイダンスを発表し、「チャレンジウイルスによる発病が容易に、かつ客観的に検出でき、効果的な治療または緩和処置により重症になることを防止(そして死亡のおそれを除去)できる場合には、ヒトチャレンジ試験を考慮できるかもしれない」という見解を示した(1)。
新型コロナワクチンでのヒトチャレンジ試験をめぐる動向を整理してみた。
人での攻撃試験の最初の例はジェンナーの種痘
ワクチンの歴史を振り返ると、ヒトチャレンジ試験によりワクチンの効果を確認した最初の例はジェンナーである。彼は、1796年、サラ・ネルムズという若い女性の手にできた牛痘の漿液を、フィップス少年に接種した(牛痘種痘)。これが最初の種痘である。次いで、その予防効果を確かめるために、48日後の7月1日、天然痘患者の疱疹の漿液を接種し(人痘種痘)、発病しないことを確かめたのである。
ちなみに、人痘種痘は天然痘患者の疱疹の漿液やかさぶたを接種して天然痘に人為的にかからせるもので、死亡のリスクもあったが、一般に軽く済んだため、ジェンナー以前の唯一の天然痘予防法だった。、トルコ駐在の英国大使の妻メアリー・モンタギューがトルコ滞在中に人痘種痘のことを知り、帰国後の一七二一年から英国に広めたもので、ジェンナーも子供の時に受けていた。予防手段そのものがチャレンジ試験に利用できたのである(2)。
インフルエンザワクチンでのヒトチャレンジ試験
ヒトチャレンジ試験により有効性の確認が行われたものは、現在使用されているウイルスワクチンでは皆無だが、開発中のインフルエンザワクチンでは、ヒトチャレンジ試験が行われている。これは、FLU-vと名付けられたサブユニットワクチンで、通常のインフルエンザワクチンがウイルスエンベロープのHタンパク質を用いているのに対して、ウイルス粒子内部タンパク質を用いて、キラーT細胞を産生させるものである。このワクチンは、A型だけでなくB型インフルエンザにも広く効果を示すことが期待されている。
このワクチンでは、2016年から17年にかけて、国立アレルギー感染症研究所がGMPの条件下で、リバースジェネティックスの手法により作製したインフルエンザウイルスを用いて、120人あまりのボランティアでチャレンジ試験が行われた(3)。
ジカDNAワクチンでのヒトチャレンジ試験
2016年にWHOが「公衆衛生上の緊急事態」と発表したジカウイルス感染に対して、米国で2つのDNAワクチンが短期間に開発された(4)。このワクチンのヒトチャレンジ試験の倫理的問題点について、国立アレルギー感染症研究所とウォルター・リード陸軍研究所の合同委員会が開かれた。2017年2月、ヒトチャレンジ試験がワクチン開発を促進することは期待できないとして、倫理的に受け入れられないという内容の報告書が発表された(5)。
新型コロナワクチンのヒトチャレンジ試験
腎臓移植ドナーの推進者ジョシュ・モリソンはヒトチャレンジ試験に参加するボランティアを募る「1 day sooner(1日でも早く)」というグループを結成し、5月には102カ国1万4000人が応募してきているという(6)。
「1 Day Sooner」は、20歳台の若者の場合の死亡リスクは、3300人から1万4000人に一人で、リスクのほとんどは健康状態に問題のある人たちに限られていて、健康者ではリスクはさらに低いと推測している。英国ケンブリッジ大学の統計学者デイビット・スピーゲルホルター教授は、20歳台の健康な人では4万人に一人で、交通事故より低いと推測している(7)。
新型コロナウイルスの場合には、上述のWHOのガイダンスの条件は満たしていない。2020年4月には、新型コロナワクチンのヒトチャレンジ試験を促進させる目的で、とくに規制面での問題を中心としたウエブセミナーが開かれた。
BBCのニュースによれば、実用化の先陣を切ると期待されているアストラゼナカのワクチンを開発した、オックスフォード大学ジェンナー研究所のエイドリアン・ヒル所長は、ヒトチャレンジ試験を2020年末までには開始することを望んでいるという。この試験が、現在進行中の臨床試験の成績を補完することが期待されているのである (7)。9月23日のロイター通信は、来年1月からジェンナー研究所をパートナーとして、政府がヒトチャレンジ試験を実施すると伝えている(8)。
人チャレンジ試験の生命倫理
ボランティアへの新型コロナウイルスの接種という危険な試験では、当然、生命倫理の問題が生じる。米国プリンストン大学生命倫理学教授のピーター・シンガーは、「パンデミック倫理」という視点から、ボランティアがパンデミックでの闘いを助けるために有望な(しかし、危険な)研究に参加する意義を十分に理解している場合には、受け入れられる考えを示している。彼自身もボランティアに登録していて、もしも高齢者(現在73歳)でもよければ参加するつもりという(9)。彼は、大学時代に動物の問題に目覚めてベジタリアンになっていた。オーストラリアのモナシュ大学哲学教授の時代、1975年に『動物の解放』を出版して動物解放運動を宣言したことで有名だった(10)。
米国ラトガース大学の生命倫理学教授のニール・アイヤルも、パンデミック下でのヒトチャレンジ試験は倫理的であるとして、躊躇せずに進めるべきというコメントをサイエンス誌2020年7月号に掲載している(11)。
文献
1. 山内一也:近代医学の先駆者・ハンターとジェンナー。岩波書店、2015.
2. World Health Organization: Human Challenge Trials for Vaccine Development: regulatory considerations. 2016. https://www.who.int/biologicals/expert_committee/Human_challenge_Trials_IK_final.pdf
3. Pleguezuelos, O., James, E., Fernandez, A. et al.: Efficacy of FLU-v, a broad-spectrum influenza vaccine, in a randomized phase IIb human influenza challenge study. npj Vaccines, 5, Article number 22, 2020.
4. 山内一也:ウイルスの意味論。みすず書房、2018。
5. Ethical considerations for Zika virus human challenge trials. https://www.niaid.nih.gov/sites/default/files/EthicsZikaHumanChallengeStudiesReport2017.pdf
6. Ramgopal, K.: Why have 14,000 people volunteered to be infected with coronavirus? https://www.nbcnews.com/health/health-news/why-have-14-000-people-volunteered-be-infected-coronavirus-n1203931
7. Walsh, F.: Challenge trials: The volunteers offering to be infected with
coronavirus. https://www.bbc.com/news/health-53862413
8. ロイター編集:英、コロナ「ヒトチャレンジ」治験実施へ 来年1月から。2020年9月23日。https://jp.reuters.com/article/health-coronavirus-vaccine-uk-idJPKCN26E2I4
9. Chappell, R.Y. & Singer, P.: Pandemic ethics: the case for risky research. Research Ethics, 16, 1-8, 2020.
10. 山内一也:異種移植。河出書房新社、1999.
11. Eyal, N.: Unnecessary hesitancy on human vaccine tests. Science, 369, 150-151, 2020.