1980年代から薬剤耐性菌の蔓延による死亡者数が急増してきた。英国の研究グループの調査では、現在の状態が改善しなければ、2050年には薬剤耐性菌による世界の感染症の年間死亡者数は、ガンによる死亡者数880万人を上回る1000万人に達すると推定されている。2017年、WHOはもっとも危険性の高い薬剤耐性菌として、多剤耐性緑膿菌、エンテロバクター、アシネトバクターの3種、高区分の警戒を要するものとして6種、中区分の警戒を要するものとして3種の細菌を指定した。現在、これらによる経済的損失は1000億ドルに達すると推定されている。(1)
薬剤耐性菌の問題が深刻化するとともに、ファージ療法が注目されるようになった。ファージは特定の細菌だけに感染して増殖し、その細菌を溶かすため、それぞれの細菌に対するファージを用いなければならない。一方、ファージは目的とする細菌だけを攻撃するため、抗菌薬のように善玉菌も含めて多くの細菌を攻撃することはないという利点も持っている。
2010年代からファージ療法は急速に進展し、ファージライブラリーの構築や臨床試験も多く行われている。一方、ヒト、動物、環境の健全性を目指すワンヘルス・アプローチとしてファージによる環境改善や食品安全性の向上が試みられている。
ファージ療法の歴史的背景と現状、さらに未来予測を紹介する。
細菌の溶解現象
19世紀終わり、英国の細菌学者アーネスト・ハンキン(Earnest Hankin)は、ガンジス川の上流でコレラが発生しているのに、下流には広がっていないことに注目した。ガンジス川の水をコレラ菌に加えると菌は殺された。しかし、煮沸すると殺菌は起こらなかった。そこで、彼は汚染しているはずのガンジス川での水浴が、コレラの治療をむしろ助けていると考えたのである。この殺菌現象を彼は1896年パスツール研究所年報に報告した。(2, 3)
2016年、ガンジス川の源のひとつ、4000メートルを超すヒマラヤ山中の聖地ゴームクの水にヒマラヤの永久凍土が溶け出した太古の沈殿物が含まれていることから、これがガンジス川のファージの源と考えられという仮説が発表された。聖なるガンジスは信仰、汚物、ファージの合流という訳である。(4)
ロンドン大学ブラウン研究所所長のフレデリック・トゥオート(Frederick Twort)は、1915年天然痘ワクチンの寒天培地での培養を試みていた。寒天平板の上には無数の球菌が増えていた。これはワクチンに含まれる雑菌だった。その中にガラスのように見えるコロニーに気が付いた。この現象を彼はランセット誌に発表したが、第一次世界大戦で研究は中止された。(5)
ファージの命名者デレーユ
カナダ人のフェリックス・デレーユ(Félix d’Herelle)は、1873年パリで生まれた。10代にはフランスとベルギーの田舎を自転車で回り、その後、南米から英国、ギリシャ、トルコと放浪し、カナダに戻り、自宅に微生物実験室を建てて細菌学の実験を独学で行っていた。グアテマラ政府からの科学者の募集に応募し、グアテマラ市内の総合病院で細菌検査の責任者となり黄熱病対策などに従事した。
1907年、メキシコ政府から発酵の研究を依頼され、メキシコに移った。リュウゼツランから蒸留酒を大量生産する装置をパリの業者に注文し、その製作を監視するかたわら、パスツール研究所で無給助手として実験を行っていた。彼は完成した装置の運転を依頼されたが、退屈だと考えて断った。
1910年彼は、メキシコで大発生したイナゴの腸管から球桿菌を分離した。この菌を生物農薬として利用することを思いつき、アルゼンチンから北アフリカまで出かけてイナゴ退治を行った。その際、球桿菌の培養中に、時折透明な円形の斑点が現れることに気が付いた。
1911年にはパリに移り、パスツール研究所の無給助手になった。1915年、チュニジアでイナゴの大発生が起きた。デレーユは球桿菌による退治を行っていたところ、再び、球桿菌の培養に透明な斑点を見つけた。チュニジアのパスツール研究所所長のシャルル・ニコル(発疹チフスの研究でノーベル賞受賞)に見せたところ、この菌が運んでいる濾過性のウイルスかもしれないと指摘された。(5, 6)
赤痢治療で始まったファージ療法
1916年、デレーユはパリ郊外で発生した赤痢の調査を命じられた。イナゴの球桿菌での経験から、赤痢患者の便をシャンベラン細菌濾過器で濾過した液を試験管内の赤痢菌に加えてみると、赤痢菌は溶解された。彼は、この溶解は細菌に寄生するウイルスによるとして、バクテリオファージ(通称、ファージ;細菌を食べるという意味)と命名し、1917年米国科学アカデミー紀要に発表した。1919年にはパリの小児病院で重症の赤痢患者にファージによる治療を行って成功した。この成果は欧米諸国で注目された。
1920年代、赤痢のファージ療法はヨーロッパ諸国や米国で広がり始めた。ブラジルでは、オスワルド・クルス研究所が、1万バイアルを生産してブラジル中に配布した。1927年、デレーユはインドのアッサム州で最終的に100万人を越える人たちで野外試験を行った。その夏の巡礼者でのコレラの発生は約 1/8に低下していた。しかし、ファージの配布を任された地元の長老たちが対照群にまで配布してしまい、しかもガンジーを中心とした反政府運動のさなかだったため、正確な評価は得られなかった。(2)
1918年、ロシア帝国から独立したばかりのグルジア民主共和国は若手の微生物学研究者ゲオルギー・エリアヴァ(George Eliava)をパスツール研究所に派遣した。彼はその1年前に、コレラの研究中にトビリシ市内の川の水にコレラ菌を見つけたが、会議で中座していた間にコレラ菌が消失するという奇妙な現象に遭遇していた。パスツール研究所でデレーユが赤痢菌で同様の現象からファージを発見したことを知り、デレーユとすっかり意気投合した。帰国したエリアヴァは、1936年ソ連邦の一員になっていたグルジア共和国のトビリシに、デレーユに協力してもらってファージ療法の研究所の建設を始めた。翌年、彼はスターリンによる粛清でスパイの疑いをかけられて処刑されたが、ソ連はファージ療法を重要視していて、1938年エリアヴァ・バクテリオファージ・微生物・ウイルス研究所が開設された。第2次世界大戦の際には主に軍のためにファージ生産が行われ、最盛期には1200人が働いていた。ここは治療よりも予防を目的としていて、1963年には3万人あまりの子供を対象とした大規模な赤痢菌ファージの接種試験が行われた。その結果、対照として砂糖の錠剤を飲んだグループでは1000人あたり6.7人が赤痢にかかったのに対して、ファージの錠剤を飲んだグループで赤痢にかかったのは1.8人と1/4近くまで減少した。(6)
ドイツではベーリング社がファージを発売した。第2次世界大戦では戦場で広く用いられた。1940年、捕虜収容所で赤痢が発生した際には、警備兵と厨房で仕事をしていた捕虜はファージを投与されて感染を免れたが、投与されなかった捕虜の間では赤痢が蔓延した。(6)
第2次世界大戦後、ペニシリンを初めとする抗菌薬の普及とともにファージ療法はほとんどの国で消えたが、エリアヴァ研究所では製造が続いていた。
ファージ・ルネサンス
1980年代から薬剤耐性菌が問題になってきて、ファージ療法は再び注目されるようになった。英国では、慢性の緑膿菌による慢性耳炎の犬の耳の中にファージを投与する試験が行われ、治療効果が確認された。薬剤耐性の緑膿菌による慢性耳炎の患者でも同様の試験が行われ、大部分の患者で症状の改善が見られた。全身火傷で緑膿菌感染が起こり、抗菌薬が効かなかった患者の火傷にファージ液を浸した紙を貼ることで緑膿菌が消失したことも報告された。(7)
火傷での緑膿菌感染について、2種類のファージ混合液の安全性、有効性などを評価する二重盲検臨床試験が2015年から2017年にかけてフランスとベルギーで行われた。その結果は2019年に報告されたが、患者から分離された細菌が試験に用いられた低濃度のファージに抵抗性だったため、有効性は確認されなかった。(8)
ファージ療法が復活するとともに、色々な問題点が明らかになってきている。細菌には数多くの株があり、特定の株に有効なファージを選ばなければならない。細菌壁はリポ多糖から出来ていて、それがファージで破壊されると、放出されたリポ多糖体が副作用を起こすおそれがある。細菌が変異してファージ抵抗性になるおそれがある。そこで、これらの問題を解決するために、遺伝子改変ファージの作出が急速に進んでいる。(9)
ファージ療法の現状
2016年、米国サンディエゴ大学の心理学教授トーマス・パターソン(Thomas Patterson)がエジプト観光旅行中に多剤耐性のアシネトバクターに感染し、帰国後、危篤状態になった。妻の同大学感染症疫学教授ステファニー・ストラトゥディー(StefanieStrathdee)がオンラインで治療法を探索した結果、ファージ療法に辿り着いた。そこで、テキサスA&M大学と米国海軍が保有していたアシネトバクター・ファージ・ライブラリーからファージの提供を受け、食品医薬品局(FDA)から緊急使用の承認を得て、瀕死状態のパターソンにファージ療法が8週間にわたって行われた結果、パターソンは回復して退院した。4ヶ月にわたるスリルに満ちた経緯は夫妻の共著“The Perfect Predator”(完璧な捕食者)で語られ、ファージ療法が広く知られるきっかけになった。サンディエゴ大学にはIPATH(Innovative Phage Application and Therapeutics:革新的ファージ応用・治療)センターが設置され、ストラトゥディーが所長を務めている。(10)
ファージ・ハンティング計画のうち、米国ノヴァ・サウスイースタン大学のSEA-PHAGES(Science Education Alliance-Phage Hunters Advancing Genomics and Evolutionary Science)は170以上の大学、5500名が参加する最大のグループで、現在2万株のファージを保有している。2010年SEA-PHAGESに参加していた南アフリカのひとりの大学生が彼の両親のコンポストの中の腐った茄子から分離したファージが、両肺移植後、全身に薬剤耐性マイコバクテリアが広がっていた17歳の女性に注射された。数日で容態が安定し2,3ヶ月後に退院した(2)。
英国には市民が協力しているエクセター大学の市民ファージ・ライブラリーがある。2020年、同大学の海洋微生物学者のベン・テンパートン (Ben Temperton)は、10歳の息子が近くの小川で採取してきた水からファージを分離した。これはWHOがもっとも懸念しているカルバペネム耐性アシネトバクター・バウマニイ(Acinetobacter baumanii)を破壊するファージだった。2023年、ファージ療法の過去、現在、未来を俯瞰した“The Good Virus”(善玉ウイルス)が出版された。著者のトム・アイルランド(Tom Ireland)が自分の町の小川から採取した水からは、世界中に広がっている薬剤耐性の緑膿菌を殺すファージが分離され、エクセター大の市民ライブラリーに加えられた。(2)
環境対策とファージ
修飾したファージを環境改善に利用するファージ・ランド・プロジェクト(PhageLand Project)は、2022年スペインとモルドヴァで、ファージにより広大な湿地帯から薬剤耐性菌を除去する試みのための資金を獲得した。葦が生い茂る湿地帯はしばしば排水や下水の濾過に用いられているため、薬剤耐性菌が多量に集まったホットスポットになっている場合がある。そこで、修飾したファージで殺菌を試みようとしているのである。(2)
薬剤耐性菌が水路やさまざまな環境を通じて広がるのを防ぐために、エコシステムのスケールで、修飾したファージによる対策が研究されている。オーストラリアのサンシャイン・コースト大学の環境微生物グループは、水道管で増殖して悪臭の原因となる放線菌をファージで除去する手段を実験室レベルで開発し、浄水場などでの試験を検討している。(11, 12)
食品添加物に利用されるファージ
リステリアは、土や砂、水の中など自然界に広く存在する細菌で、ウシやヒツジでは脳炎や乳房炎を起こす。妊娠した女性では流産や死産、高齢者や免疫機能が低下した成人では髄膜炎を起こすことがある。FDAは2006年、イントラリティックス社(Intralytix, Inc)のリステリアに対するファージ製品を承認した。これはインスタントの肉製品、たとえばスライスしたハムなどへ包装前に振りかけてリステリアの汚染を防ぐのに用いられる。2024年には、サルモネラと大腸菌に対するファージ製品が承認された。(6, 13)
野菜、果物、肉、チーズなどの保存にファージを利用する試みもある。ファージを含む液体を食品の表面に散布したり、浸したりした後、乾燥させてできる薄いフィルム状の膜で包むことにより食品を保存する。この膜は食べることもできる。(14)
未来のファージ療法
2020年ベルギーのジャン-ポール・ピルネー(Jean-Paul Pirnay) は、 “2035年におけるファージ療法”という論文を発表した。そこには、21世紀のハイテクを利用した未来型ファージ・サプライ・チェーンが描かれている。図に示したように、ファージ・ハンターや患者のコミュニティからIoT(モノのインターネット)を通じて集められたビッグデータとファージ・コインⓅの暗号資産(DL)をPhage XCHANGE(世界保健機関WHOのような非営利団体のファージ交換組織)が管理する。AI(人口知能)にはビッグデータ、自然界のファージの配列、公衆衛生組織の疫学データが読み込まれている。注文が来るとファージ・ビーム(ベッドサイドでファージを合成する装置)がAIの指示するDNA配列のファージを合成して、それが患者に届けられる。注文と配布はオンライン・ショップを通じて行われる。(15)
ピルネーは、スクリーンネームがファージ・クラウン (ファージ道化師)による“Phage Hunters”(ファージの狩人たち)という270ページを超すサイエンス・フィクションを発表している(アマゾンでKindle版が無料)。そのメイン・ストーリーは次のとおりである。ファージ・クラウンは入浴中に、突然、首を虫に刺される。翌朝、傷口は大きな壊死になっている。彼は最新バージョンのファージ・ビーム装置を起動し、滅菌脱脂綿を取り出して傷口を拭い、装置に挿入する。DNAが抽出されメタゲノム(サンプル中の全遺伝情報)の解析で感染した細菌はきわめて危険な緑膿菌と分かり、AIにより最適のファージのDNA配列が示される。そして、ファージ・ビーム装置が1時間以内に治療用のファージを合成する。
文献
1. 三瀬勝利、山内一也:ガンより怖い薬剤耐性菌。集英社、2018.
2. Ireland, T.: The Good Virus. The Untold Story of Phages: The Most Abundant Life Forms on Earth and What They Can Do For Us. Hodder & Stoughton Ltd, 2023.
3. Kochhar, R.: The virus in the rivers: histories and antibiotic afterlives of the bacteriophage at the sangam in Allahabad. The Royal Society Journal of the History of Science, 74, 625-651, 2020.
4.Khairnar, K.: Ganges: special at its origin. Journal of Biological Research-Thessalonik, 23, 16, 2016.
5. 山内一也:ウイルスの意味論. みすず書房、2018.
6. トーマス・ホイスラー(長野敬、太田英彦訳):ファージ療法とは何か。細菌感染症の新たな脅威に立ち向かう。青土社、2008.
7. 山内一也:ウイルス・ルネッサンス。ウイルスの知られざる新世界。東京化学同人、2017.
8. Jault, P. et al.: Efficacy and tolerability of a cocktail of bacteriophages to treat burn wounds infected by Pseudomonas aeruginosa (PhagoBurn): a randomised, controlled, double-blind phase 1/2 trial. Lancet Infectious Diseases. 19, 35-45, 2019.
9. Pires, D.P. et al: Genetically engineered phages: a review of advances over the last decade. Microbiology and Molecular Biology Reviews,
80, 3, 523-543, 2016.
10. Strathdee, S. & Patterson, T.: The Perfect Predator. A Scientist’s Race to Save Her Husband from a Deadly Superbug. Hachette Books, 2019.
11. Garvey, M.: Bacteriophages and the one health approach to combat multidrug resistance: Is this the way? Antibiotics, 9, 414, 2020.
12. Sharma, R.S. et al.: Application of filamentous phages in environment: A tectonic shift in the science and practice of ecorestoration. Ecology and Evolution. 9, 2263–2304, 2019.