10.「 細菌培養のための寒天培地開発に秘められた物語」

細菌培養のための寒天培地開発に秘められた物語

コッホの寒天培地による平板培養は、細菌学のもっとも重要な研究手段のひとつである。私は、日本固有の寒天をコッホがどうして用いるようになったのか、という質問を受けたことがあった。たしかに寒天という名前は、17世紀に隠元禅師が、精進料理の食材として名付けたものと伝えられており、日本で古くから用いられているものである。
私の頭の片隅にしまいこまれたこの疑問について、回答を与えてくれたのは、”Robert Koch”(T.D. Brock著、ASM Press, 1999)と、”The introduction of agar-agar into bacteriology”(A. P. Hitchens & M.C. Leikind: Journal of Bacteriology 37, 485-493, 1939)という論文である。科学の進展には、ガラス玉を集める人、その中から適当なサイズのガラス玉に糸を通して首飾りを作る人という、2つの側面がある。寒天培地開発の物語もまさにそうだった。
細菌の培養に最初に取り組んだのは、パスツールだった。彼は、液体培地で細菌を培養し、培養液が濁ってくると、そのごく少量を別の培地に植えつぎ、それを繰り返すことにより、純培養ができると考えていた。これは、もちろん現在の純培養の概念にはあてはまらない。液体培地による最初の純培養は、消毒法の開発で有名な英国のリスターが1878年に発表したものである。しかし、彼は感染症ではなく、乳酸菌などによる牛乳の腐敗の研究に純培養を用いていた。
固形培地の技術の最初の報告は、1875年にドイツのシュレーターがジャガイモの切り口を利用したものであった。ここでは、着色したコロニーを作るセラチア菌についての研究が主体であった。
1881年コッホは、細菌学のバイブルとなった病原性細菌研究についての論文を発表した。ジャガイモの培地では病原細菌は分離できなかったため、彼は病原細菌が増殖できる培地にゼラチンを加えて固めた培地を考案したのである。彼は、この方法が容易で再現性もある画期的なものと考えていた。しかし、ゼラチン培地には2つの欠点があった。ひとつは細菌によってはゼラチンが溶かされること、もうひとつは、ゼラチンは37Cの孵卵器では溶けてしまうことだった。体温が必要な病原細菌にゼラチン培地は利用できなかったのである。
この問題を解決したのは、医師ワルター・ヘッセの夫人だった。彼女はアメリカで生まれ育ったドイツ人で、ドイツに戻ったのちヘッセと結婚していた。夫は1881年から82年にかけてコッホのもとで細菌学を学んだのち、自宅を実験室として空気中の細菌の量の測定実験を行っていた。彼はゼラチン培地を用いていたが、ゼラチンが溶けるために実験は失敗を重ねていた。そこで、実験助手も兼ねていたヘッセ夫人はゼラチンの代わりとして、フルーツゼリーなどを作る時に使う寒天の利用を提案した。フルーツゼリーのレシピはアメリカに居た時に母親から教わったもので、母親はジャワに住んだことのあるオランダ人の友達から教えてもらっていた。寒天の原料であるテングサが豊富なジャワでは、寒天がゼリーの原料やスープの濃縮に利用されていたのである。寒天培地によりヘッセの実験は順調に進んだ。
寒天培地については、コッホが1882年に結核菌についての短報の中で彼自身の考案として簡単に述べているだけで、正式の論文は発表されていない。
1934年にヘッセ夫人が亡くなった際、彼女の名前を知る細菌学者はほとんどいなかった。Journal of Bacteriologyの論文では、寒天培地はフラウ(ドイツ語のミセス)・ヘッセ培地と呼んではどうかと提案している。

日生研たより 第53巻第3号(2007年5月号)より転載