(11/15/01)
病原性微生物と生物兵器
バイオテロリズムへの関心が高まっています。私は、11月2日にNHKテレビ視点・論点で「病原性微生物と生物兵器」というタイトルでバイオテロリズムについての総論を述べましたが、そのテキストを転載します。こちらには時間の関係で省略した部分も含まれています。
なお、これまでに本講座で取り上げてきたバイオテロリズム関連の記事は、63,69,79,93,98,111,113,119,123回です。
米国での炭疽菌事件は不気味な広がりを示しています。元来、炭疽菌は、牛や羊が持っているもので人類が家畜を飼うようになった1万年以上前から存在していたと考えられています。実際に炭疽菌を分離したのは1876年、北里柴三郎の恩師でもあるロベルト・コッホでした。炭疽菌は世界で初めて分離された細菌だったのです。
振り返ってみますと、炭疽菌は微生物学の出発点になった細菌です。そしてそれを契機として、20世紀には微生物学の研究が著しく進展し、その成果として多くの感染症が制圧されてきました。
ところが、その影の部分として、生物兵器の開発が1930年代には、すでに始まっていました。
生物兵器の研究分野で先頭を切ったのは日本でした。石井部隊長の率いる731部隊は1930年代前半に生物兵器の開発を始め、炭疽菌やウイルスを兵器に用いる研究を行いました。英国では1942年から43年にかけて、スコットランドのグリュナード島という小さな島で炭疽菌爆弾の実験を行いました。炭疽菌は非常に早く病気を起こすことができ、しかも一定の条件にさらされると、小さなボールのように丸まり表面に堅くて丈夫なタンパク質の皮膜を作ります。これは芽胞とよばれる状態です。植物の種のようなもので、条件さえよければ何十年も生き続けることができます。芽胞の状態の炭疽菌は爆弾が炸裂しても死滅することなく、島に放し飼いにされていた羊に致死的感染を起こすことができました。
一方、米国は、第二次世界大戦終結後、本格的に生物兵器の開発に乗り出しました。米陸軍は首都ワシントンの郊外、フォート・デトリックに大規模な生物兵器の研究施設を建設しました。その中でも際だっていたのは、巨大な地球儀のような建物で、そこで多数の実験動物、サルだけでも2000頭以上が炭疽菌爆弾にさらされました。私はこの建物が閉鎖された数年後に、内部を見せてもらったことがありますが、異様な雰囲気の建物だったことを覚えています。
米国での細菌兵器開発の最終段階は、人体実験でした。ユタ州にある陸軍の実験場で、ボランティアの兵士に対して、Q熱病原体の撒布実験が1955年に行われました。これはリケッチアと呼ばれる細菌の一種で、すぐに抗生物質を投与すれば死亡することはまずありません。このような研究を積み重ねて、米国では1950年代終わりには生物兵器による実戦の準備がすべて整ったと言われています。
ところが、1969年にニクソン大統領は突然、攻撃用生物兵器の開発を中止しました。残されたのは防御用生物兵器の研究です。防御用とは、ワクチンや診断法の開発を指しています。
米国の生物兵器研究は意外な副産物を産み出しました。危険な病原体による感染から研究者を保護するための、実験室安全対策、すなわち、いわゆるバイオハザード対策です。フォート・デトリックでの研究で、現在のレベル4実験室など、危険な病原体を扱うための対策のほとんどが確立されたのです。
私は1970年代はじめに、米国や英国の生物兵器研究所を訪問したことがありますが、その目的は、エボラウイルスなど危険な病原体を扱うレベル4実験室建設のための調査でした。
ところで、生物兵器をテロの道具として用いるバイオテロの危険性が提唱されるようになったのは、1990年代半ばからです。湾岸戦争の際にイラクが炭疽菌をつめた爆弾の使用を計画していたことが、1995年にあきらかになりました。さらに、同じ年、日本ではオウム真理教によるサリン事件が起きました。そして、オウム真理教の信者がザイールまで出かけてエボラウイルスを入手しようとしていたことが明らかになりました。オウム真理教の事件は、バイオテロの可能性はあっても現実には起こらないだろうという、楽観的見方を完全にうち砕いたものとして、全世界を驚かせました。
一方、旧ソ連の生物兵器開発の責任者が米国に亡命し、彼の証言から、旧ソ連で大規模な生物兵器開発が行われていたことが明らかになりました。大量の炭疽菌や天然痘ウイルスが生物兵器として生産され、イラン、イラク、リビア、北朝鮮など数カ国にも流されたと伝えられています。
生物兵器の特徴は、化学兵器と異なり、見えないこと、匂いもないこと、すぐには発病しないので発見が遅れること、それを撒布する人はワクチンをしていれば安全なこと、しかも作るのは容易で費用がかからないことです。
この事態を深刻に受け止めた米国疾病予防センターは、昨年4月に生物および化学テロに対する準備と対応に関する勧告を発表しました。その中で生物兵器となる病原体を3種類に分類しています。カテゴリーAは、最優先の病原体で国の安全保障に影響を及ぼすもので、天然痘ウイルス、炭疽菌、ペスト菌などが含まれています。カテゴリーBは第二優先度のもので、先ほど触れたQ熱などが含まれています。カテゴリーCは遺伝子操作で作り出される病原体です。
考えてみますと、現在、問題になっている炭疽菌や天然痘はいわば、古典的生物兵器です。しかし、実際には遺伝子工学技術により、はるかに危険性の高い病原体の開発も可能になっています。近代的生物兵器の問題もありうるわけです。
最後に、バイオテロ防止の基盤としての国の法的枠組みに触れてみたいと思います。米国では、ウイルス、血清、毒素法という法律があって、テロリストが兵器としてウイルスや毒素などを開発したり、所有することは禁止されています。一方、病原体を用いる実験と組み換えDNA実験はいずれも国が作成した指針で規制されています。
日本の場合をみますと、病原体の安全管理についての規制は何もありません。厚生労働省には感染症予防法がありますが、これは病気を対象としたもので、病原体に対するものではありません。病原体を用いる実験は、1970年代に、私たちが国立予防衛生研究所で作成した自主規制の指針を雛形として、各研究機関が自主的指針を作っているに過ぎません。国が作っているのは組み換えDNA実験指針だけです。バイオテロに対処するためには、病原体の安全管理体制を国として確立することが必要です。