人獣共通感染症連続講座 第140回 シカの慢性消耗病の現状

(2/23/03) (修正3/6/03)

シカの慢性消耗病の現状

米国ではシカの間で慢性消耗病(chronic wasting disease: CWD)の発生が年々広がってきていて、昨年、米国政府は緊急宣言を出して制圧の努力を続けています。CWDでは脳に空胞病変が認められ異常プリオン蛋白も検出されます。また、健康なシカの脳内に病気のシカの脳乳剤を接種することで病気が伝達されます。その結果、CWDはプリオン病の1種と見なされています。しかし、これまでの限られた研究の結果では、CWDの病原体はウシ海綿状脳症、スクレイピー、ミンク伝達性脳症といった動物のプリオン病の病原体とは異なる新しいものと推測されています。
米国では3人の若い人で起きたクロイツフェルト・ヤコブ病がCWD感染によるものではないかという疑いがもたれています。また、野生動物パーティでシカをよく食べていたヒト3人の死亡例についてCWD感染との関連を調査した結果がCDCのMorbidity Mortality Weekly Report 2月21日号に掲載されました。いずれもシカから感染したという証拠はまったくありませんが、CWDがヒトに感染するのではないかという面から大きな関心が寄せられています。
そこで、CWDの発生状況や研究の現状について、簡単にご紹介することにしたいと思います。

発生状況

CWDの最初の例は、1967年、コロラド州フォート・コリンズの野生動物研究施設で飼育されていたミュールジカ(Odocoileus hemionus)で生物学者たちにより見出されました。このシカはワイオミング州をはじめいろいろな地域から持ち込まれていたために、最初の発生がどこかは分かりませんでした。1978年、コロラド大学獣医学部の大学院生エリザベス・ウイリアムス(Elizabeth Williams)は病理組織学的検査で病気のシカの脳に空胞病変を見出し海綿状脳症であることを1980年に発表し、続いて1982年にはシカへの脳内接種で実験的に病気が伝達されることが確かめられました。そこで、新しい伝達性海綿状脳症として注目されるようになりました。CWDはその後、アカシカ(Cervus elaphus nelsoni)で見つかり、さらにオジロジカ(Odocoileus virginianus)でも見つかりました。
なお、アカシカの英語名はRocky mountain elkでロッキー・ヘラジカ、オオシカとも訳されています。私は平凡社の世界哺乳類和名辞典にしたがってアカシカとしていますが、どの訳が妥当かは分かりません。ご存じの方がおられたらお教えいただきたいと思います。
これまでに、CWDはこの3種類のシカでのみ見つかっています。CWDの発生した施設で飼育されているオオツノジカ(Alces alces)、アメリカプロングホーン(Antilocapra americana)、ビッグホーン(Ovis canadensis)、ムフロン(Ovis musimon)、シロイワヤギ(Oreamnos americanus)、ブラックバック(Antilope cervicapra)では発症は見つかっていません。
現在、CWDはコロラド、カンザス、ミネソタ、モンタナ、ネブラスカ、オクラホマ、サウスダコタ、ウイスコンシンの各州のシカ飼育施設と、コロラド、ワイオミング、ネブラスカ、ニューメキシコ、サウスダコタ、ウイスコンシン、イリノイの各州の野生シカの間で見いだされています。
1996年にはカナダのサスカチュウワン州で米国から輸入したアカシカで発生が見いだされました。
さらに2001年には韓国で、カナダから1997年に輸入した47頭のアカシカで9頭がCWDと確認されました。私はカナダの担当者から韓国での発生の話を聞いていたのですが、その後、最初の発生例についての病理学的検査結果が日本獣医学会の機関誌Journal of Veterinary Medical Science 64巻9号(855ページ)2002年に発表されました。

CWD拡大の原因

発症したミュールジカの脳乳剤を子鹿に経口接種した実験では42日目に咽頭のリンパ節、扁桃、小腸のパイエル板、回盲部(回腸と盲腸の境界)リンパ節に異常プリオン蛋白の蓄積が見いだされました。この結果は、病原体が唾液や糞便に排出されて、ほかのシカへの感染を起こしている可能性を示しています。
BSEやスクレイピーは、いずれも家畜の間で広がる病気で、しかも排泄物を介した水平感染は起きていないと考えられています。CWDは唯一、野生動物の間で排泄物を介して広がるプリオン病ということになります。そのため、自然界できわめて効率よく広がることが考えられるわけです。
もうひとつ大事な点は、シカの繁殖産業が広がっていることです。これは、漢方薬の原料としてシカの袋角(鹿茸:ロクジョウ)の需要が韓国や中国で増加しているためです。カナダのシカ農場も韓国への輸出のために米国からシカを導入して設立したものでした。

病気の特徴
最初の症状は行動異常で、人間や同じ群の動物に対する態度の変化として現れるますがほとんど気づかれない程度のものです。もっとも特徴的な症状は名前が示すように著しい体重の減少です。私は1996年に出版した「プリオン病」にエリザベス・ウイリアムスからCWD の写真を提供していただきましたが、カナダロッキーなどで見かけるシカとは思えないほど、やせ細っています。
病気の末期になると、糖尿病のように水を多く飲み、多尿、唾液過多が見られるようになります。協調運動不能、震えなどの神経症状も出現します。BSEやスクレイピーとはかなり異なっています。
米国農務省の研究所ではCWDに自然感染したミュールジカの脳乳剤を13頭の子ウシの脳内に接種する実験を行っています。これまでの報告では、3頭が発病しており10頭は接種後3年目の2001年暮れの時点ではまだ健康と報告されています。発病したウシの症状は2頭では体重減少、1頭は肺の膿瘍でBSEとは異なるものでした。

ヒトへの感染の可能性

BSEがヒトに感染して変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)を起こしたことを示す科学的証拠が蓄積してきています。CWDも同様にヒトに感染するのではないかという点に大きな関心が寄せられています。これに関連した2つの報告について述べてみたいと思います。
2001年にCDCのビレイ(E. Belay)は1997年から2000年にかけて米国で見いだされた3人のCJD患者についての報告を行っています(Archives of Neurology 58, 1673, 2002)。彼はCDCのウイルス・リケッチア部門で、そこの副部門長ラリー・ショーンバーガー(Larry Shonberger)とともにCJD調査の責任者の役をつとめています。血液製剤の安全性、硬膜移植によるCJDの調査も彼の仕事です。
ところで、この3人のCJD患者は2名が28歳、1名が30歳と、CJD患者としては異常に若い点が特徴的でした。しかも、2名はハンティングを行っており、もう1名はハンターの娘で、日頃、子鹿の肉をよく食べていました。そこで、CWD感染の可能性が疑われたわけです。しかし、これらの患者の病態は孤発性CJDであり、変異型CJDの特徴は認められませんでした。結局、CWDとの関連を示す強力な証拠は得られませんでしたが、今後も検討が必要と述べられています。
一方、冒頭で触れたCDCの報告では、1993年から99年にかけてウイスコンシンで開かれた野生動物パーティの参加者3名が神経変性疾患で死亡した例についての調査結果がまとめられています。このパーティを開いていた66歳の男性はハンターでシカの肉をしばしば食べていました。解剖の結果、CJDと同様の海綿状脳症とみなされましたが、全米プリオン病病理調査センターで再検査した結果ではプリオン病とは診断されませんでした。また、異常プリオン蛋白も検出されませんでした。第2例は55歳の男性で、病理学的検査でCJDと診断されました。異常プリオン蛋白も検出されました。彼はハンターではありませんが、シカ肉をよく食べていました。第3例は65歳の男性で、シカ肉をよく食べ、問題の野生動物パーティにも定期的に参加していました。しかし、解剖の結果、CJDとは診断されませんでした。エディターのコメントでは、CWDとの関連は明らかにならなかったが、これだけでCWDがヒトに感染する可能性を否定することはできないと述べられています。

日本および米国での対策

日本では2001年10月に、農林水産省が米国とカナダからのシカの肉とその加工品の輸入を停止し、厚生労働省が医薬品などに米国産シカの原料を使用しないよう通知しています。さらに、韓国でのCWD発生を受けて農林水産省では2002年10月2日付けで韓国から生きたシカとシカ由来の畜産物の輸入を一時停止しています。日本では果樹園などで蒸製骨粉を肥料に用いています。これは柑橘類などの甘みを増加させるためのもののようで、日本独自の方式です。確率は非常に低いと考えられますが、もしも蒸製骨粉にCWD病原体が混入したとすると、果樹園にまかれたものが野生のシカの口に入る可能性も否定できません。きわめて低い可能性であっても、日本の野生のシカに一旦CWDが侵入した場合、野生のシカの間で水平感染を起こすCWDでは制圧はもはや不可能です。したがって、きわめて厳重な予防措置がとられたことになります。
米国では、2002年6月26日に農務省(USDA)がCWDに関する総合的な行動計画を発表ました。内容としては、コミュニケーション、科学技術情報普及、診断、疾病管理、研究、サーベイランスの項目に分けられ、オーバービュー、ゴール、行動がまとめられています。そして、各項目について、ワーキンググループが結成されています。なお、この計画の詳細はhttp://www.aphis.usda.gov/oa/pubs/usdacwd.htmlで見ることができます。