人獣共通感染症連続講座 第176回 狂犬病を発病した患者の最初の回復例

 (4/7/07)

はじめに

狂犬病ウイルスに感染して発病した場合は、100%死亡するといわれています。これまでに発病した後の回復は5例が知られていますが、すべて以前にワクチン接種を受けていたか、症状が出る前に暴露後のワクチン接種や免疫血清による予防処置を受けていました。

2004年に発病後、治療を受けた患者の回復が、CDC Mobidity Mortality Weekly Report (WMMR) (December 24, 2004/ 53(50); 1171-1173)で報告されました。この例は暴露後の予防処置を受けていない患者での初めての回復例ということで注目されました。

この患者の治療にあたった主治医のロドニー・ウイロビー医師による記事が、最近のScientific American4月号に掲載され、治療の内容がくわしく紹介されました。これを読んで、彼が考えた治療法のきっかけをもたらしたのは、私の古い友人、パスツール研究所のアンリ・チアン(Henri Tsiang)博士の論文だったことも初めて知って驚きました。

日本では最近、海外帰国者の狂犬病発病例が見つかり、狂犬病への関心が高まっています。この最初の回復例は大変興味ある情報を含んでいますので、MMWRとScientific Americanの記事を参考にまとめてみました。なお、 Scientific Americanの記事は、いずれ日経サイエンスに和訳が掲載されると思います。

コウモリからの感染・発病

2004年9月、米国ウイスコンシン州のハイスクール2年生のバレーボール選手ジェンナが教会のミサに参加していた時、一匹のコウモリが教会の中に飛び込んで窓の内側にぶつかって床に落ちました。そこで、羽の端をつかんで外へ逃がしたのですが、その際にコウモリが飛びかかってきて左手の人差し指を5ミリほど噛まれてしまい、わずかな出血もみられました。彼女は傷口を過酸化水素で洗ったのですが、狂犬病の暴露後の予防処置は受けませんでした。

約1ヶ月後、彼女は疲労と刺すような痛み、そして左手のしびれを感じるようになり、2日目には体が不安定になり、物が二重に見えるよう(複視)になりました。3日目には吐き気、嘔吐が起こり、小児科の診察を受けて、神経内科を紹介されました。

検査の結果、複視は続いており第6神経節に軽い麻痺が見られました。MRIとMRAでは脳は正常でした。そして、彼女は帰宅しました。

4日目になっても症状が続いていたため、近くの病院に入院させられました。熱はなく、意識ははっきりしていていました。命令にしたがっての動作もできました。翌日には、発音が不明瞭になり、眼球振せん、左腕の震え、嗜眠状態が増え、体温は38.9度になりました。

6日目に、コウモリに噛まれたことが報告されて、狂犬病の可能性が考慮されました。そこで、ウイスコンシン州ミルウオーキーのウイスコンシン医科大学病院に移され、ロドニー・ウイロビー準教授が主治医になったのです。(入院のいきさつは、MMWRと Scientific Americanの記事の間で若干違っていますが、ここではMMWRの方にしたがいました。)

治療法の検討

医療チームは防護衣を着用することになりました。狂犬病の人からほかの人に感染がうつった証拠はありませんが、狂犬病の動物では涙や唾液にウイルスが大量に含まれています。傷や粘膜に付着すれば感染のおそれがあります。そこで、医療スタッフは防護面、マスク、予防衣、手袋を着用したのです。

狂犬病の診断のために、唾液、頸の皮膚、血液、脊髄液がCDCに送られました。検査の結果、血清と脊髄液に狂犬病ウイルスに対する抗体が見いだされました。皮膚の生検材料の蛍光抗体法では、ウイルス抗原は見つかりませんでした。唾液の細胞培養でウイルスは分離されず、RT-PCRでは、どのサンプルからもウイルスRNAは見つかりませんでした。

文献のオンライン検索で、狂犬病の治療に参考になる論文は見つかりませんでした。これは助かった例がないため当然と考えられます。ウイロビー医師が次に注目したのは、ほぼ30年間、狂犬病専門家が疑問を抱いてきた謎です。狂犬病で死亡した患者の脳には見たところなにも異常がないことです。もうひとつは、ICUで数週間生きながらえたのちに死亡した人では、もはやウイルスは見つからないという点です。ウイロビーは、免疫系はウイルスを排除できるのだが、排除が起こるのは患者の命を救うには遅すぎると考えたのです。

狂犬病ウイルスはたしかに脳を乗っ取って人を死亡させるが、脳の組織自体に直接、傷害は与えていない。もしも、長い間意識を失った状態を保てるよう慎重に薬を使って、機能異常になった脳の働きを抑えることができれば、脳の大混乱を抑制して、患者の免疫系が追いつくまで生かすことができるのではないか、と考えたのです。

そこで、狂犬病と神経伝達物質の関連についての文献を検索しはじめたところ、驚くべき論文を見つけました。パスツール研究所のアンリ・チアンが1992年に発表したもので、ラットの皮質ニューロンでの狂犬病ウイルスの増殖を麻酔薬であるケタミン(ケタラール)が阻止するという内容のものです。

ついでですが、「はじめに」で触れたように、チアンは私の古い友人です。台湾系の中国人で、パスツール研究所狂犬病ユニット長をつとめていましたが、数年前に定年で引退しました。彼のことは、本講座第17回(野生動物の狂犬病9/16/95)で簡単に紹介してあります。

この論文は次の3つの点で心強いものでした。(1)ケタミンは神経細胞内での狂犬病ウイルスの転写を抑制すること、(2)ケタミンは狂犬病ウイルスだけに効果を示し、ほかのウイルスには効果がないことから、動物に対する全般的な毒性によるものではないと推測されること、(3)同じような薬でさらに毒性の強いMK-801という薬も効果があることから、この種の化合物全般にみられる性質と考えられること。

治療チームには、外傷や心臓手術にともなう脳の損傷を抑える面での専門家、感染症専門の神経内科医、てんかんの専門家、麻酔医などが加わりました。ケタミンの副作用を和らげるために別の薬も用いられることになりました。CDCの狂犬病ユニット長のチャールズ・リュプレック(Charles Ruprecht)のアドバイスで、抗ウイルス剤のリバビリンも用いられました。患者の免疫系が抗体を産生するようになるまでには、5—7日かかると推定されました。すでに脳の中には大量の狂犬病ウイルスが存在しているため、さらに不活化ワクチンを用いることは、むしろ自然の免疫反応を妨げると考えました。同様に、免疫血清も用いないことにしました。

治療を開始して、患者は昏睡状態になりました。そして、その週の終わりまでに大量の中和抗体の産生が始まっていました。医師団が直面した最大の試練は、昏睡から目覚めさせる時でした。患者は完全に麻痺していて、反応もありません。何が起こるのかまったく予想はつかなかったのです。翌日、患者は目を開け、ついで、足の反射が起こりました。6日後には、母親の顔を見つめるようになり、看護師に口をゆすいでもらう際には自分から口をあけるようになりました。12日目にはベッドに座るようになりました。患者が、葉酸と化学構造の似ているバイオプテリンの欠乏症になっていることが分かってからは、バイオプテリンが投与され、その結果、めざましい回復が見られるようになりました。そして、2005年1月1日には、予想よりも3ヶ月早く退院したのです。

治療法の評価

2005年10月、ジェンナは国際狂犬病会議の特別ディナーに来賓として招かれました。噛まれた指の小さな部分にしびれが残っていること、左腕の緊張に変化があること、走る際の歩幅が広がることだけが、わずかな異常として残っているだけです。今年、彼女は高校を卒業することになっていて、獣医師を志望しています。

この治療法は、この2年間にドイツ、インド、タイ、米国で6回試みられましたが、すべて失敗しています。ウイロビーはこれらの試みが必ずしも彼のプロトコル通りではないと指摘しています。ともかく、医学界は乗り気ではありません。一方、 ジェンナは弱毒の狂犬病ウイルスに感染したのではないかという批判もあります。しかし、ウイルスが分離されていないため、これには答えようはありません。

この治療法の効果を確認するには、動物実験でプロトコルのうち、なにが効果を示したのかを調べるのがもっとも良い方法です。しかし、これまで6つの獣医大学にこの実験の許可を求めていますが、狂犬病にかかった動物をICUで治療するという実験は認められていません。今回の治療にかかった費用はリハビリも含めて、少なくとも80万ドルかかりました。動物実験の結果から、この費用をさらに減少させることもできるのではないかと、ウイロビーは述べています。