人獣共通感染症連続講座 第177回   人獣共通感染症との40年のかかわりを振り返る

(7/16/07 )

私が会長をつとめている日本医薬品等ウイルス安全性研究会が開いた医薬品等プリオン安全性フォーラム(2007年6月29日)で、表題の講演を行いました。その内容を整理してみました。

はじめに

人獣共通感染症が社会的に注目されるようになったのは、1967年のマールブルグ病からです。これは、私が人獣共通感染症の問題に本格的にかかわるきっかけにもなりました。そこで、今日は、人獣共通感染症との40年を振り返るというタイトルで話しをさせていただきます。

旧石器時代にはじまる人獣共通感染症

人獣共通感染症は英語でzoonosisです。これはギリシア語のzoon (動物)とnosos(病気)に由来するもので、動物の病気ということになります。実際には動物から人がかかる感染症を指しています。
歴史的には、旧石器時代、人間が狩猟で野生動物を食糧とし、ついで野生動物の家畜化を始めた頃に、人獣共通感染症の存在は認識されていました。旧約聖書では、動物の肉について食べてよいもの、食べてはいけないものを具体的にあげて、イノシシ、ラクダ、ウサギの肉などは食べてはいけないと戒めています。これは今でいえば人獣共通感染症にかかわる公衆衛生の思想です。したがって、紀元前から人獣共通感染症の概念は広く存在していたと考えられるわけです。
人獣共通感染症の考えが学問として取り上げられた最初の記録は、私が知る限りでは、1863年に出版された獣医学辞典です。ここでは、zoonosisとは、動物の病気のほかに動物から人が感染する病気と述べられています。これが、現在では動物から人が感染する病気、すなわち動物由来感染症だけに用いられるようになったのです。
現在の人獣共通感染症の概念がはっきり整理されたのは、1967年のFAO/WHO 合同の人獣共通感染症専門家会議の報告書です。これはマールブルグ病が発生する前の年、1966に開かれた会議での議論をまとめたものです。

輸入サルの検疫が提起した人獣共通感染症の問題

最初に私が人獣共通感染症の課題に出会ったのは、1965年国立予防衛生研究所(予研、現・国立感染症研究所)の麻疹ウイルス部に入所した時です。予研では1960年代はじめからポリオワクチンの検定と研究のために多数のカニクイザルを用いていました。麻疹ウイルス部でも麻疹ワクチンの検定と、研究のために同様にカニクイザルを用いることになりました。マウスやラットのような実験動物と異なり、これらのサルは東南アジアから輸入した野生のものです。
野生のサルは赤痢菌、結核菌といった危険な病原体に感染している可能性があります。とくに大きな問題はヘルペスBウイルスです(本講座第86回Bウイルス感染)。これは人の単純ヘルペスウイルスと非常に近縁のウイルスです。単純ヘルペスウイルスは我々のほとんどが子供の時に感染し、ウイルスは一生のあいだ、神経細胞に潜伏しています。ストレスなどの刺激でウイルスは活性化されて上皮細胞に移り、そこでヘルペス潰瘍を作ります。Bウイルスもまったく同様で、多くのサルで神経細胞の中に潜伏しています。人での単純ヘルペスウイルスと同様にBウイルスはサルでは時に口腔粘膜などに潰瘍をつくります。潰瘍ができている際にはウイルスは唾液に含まれていて、これに人が感染すると70%ぐらいの人で致死的感染が起こります。回復した人でもほとんどが重い麻痺などの後遺症に悩まされます。そこで、輸入したサルの検疫では、検便による赤痢菌の検査、ツベルクリン試験による結核の検査に加えて、サルの口腔粘膜にBウイルス感染が疑われる潰瘍の有無を調べることになっています。
実際に予研では、1972年にインドネシアから輸入されたカニクイザルの口腔病変からBウイルスが分離されたことがあります。Bウイルスは1970年代後半からはレベル4実験室で取り扱うことになりましたが、当時はまだ、通常の実験室でウイルス分離試験ができたのです。
ほかにもサルが持ち込むおそれのあるウイルスが多くあったため、サルのウイルス汚染はとくに大きな問題でした。これらの問題は実験動物委員会のなかのサル部会で検討をおこなっていましたが、ウイルス専門家として、私がサル部会の世話役を引き受けることになったのです。

マールブルグウイルス分離の背景

予研のサル部会での仕事をはじめて2年経った1967年8月に衝撃的なニュースが飛び込んできました。西ドイツのマールブルグとフランクフルトで、研究所の職員がミドリザルから出血熱に感染し、死亡したというのです。マスコミは原因不明のミドリザル病という見出しで大々的に報道しました。現在と違ってファクスもなければインターネットもありません。WHOから発表される公式の情報のほかに、サルの輸入業者のテレックスによる非公式の情報しか頼るものはありませんでした。
ウイルスは、4ヶ月後の12月、マールブルグ大学公衆衛生学のルドルフ・ジーゲルト教授のグループにより分離されました。いろいろな細胞では分離されず、最終的にモルモット接種でモルモットが発熱し、その血液をさらに別のモルモットに継代することで分離されたのです。
私は1976年にマールブルグ大学を訪問し、ジーゲルトから分離当時の話を聞いたのですが、驚いたことに、モルモットの実験は20世紀はじめ、北里柴三郎とともにジフテリアの血清療法を開発した、エミール・ベーリングが使っていた動物室で行われていたのです。この大学のキャンパスはマールブルグ市の中心にあり、となりにはエリザベト教会があって、その広場で日曜日にマーケットが開かれます。町の中心にある古い建物でウイルス分離が行われたのです。
ご承知のように、現在、マールブルグウイルスはレベル4に分類されている、もっとも危険なウイルスで、レベル4実験室、いわゆるP4実験室でなければ取り扱えません。しかし、緊急事態であったため、このような施設で分離されていたのです。
マールブルグウイルスの実験は、そののち、アメリカのCDCと英国国防省のP4実験室で行われました。もっとも、CDCには、P4実験室はなかったため、ガンウイルス研究用にNIHがトレーラーを改造して作っていた隔離実験施設が用いられました。
霊長類センター設立のきっかけになったマールブルグ病
マールブルグ病の出現は、アフリカの奥地から先進国に野生動物の輸入により致死的なウイルスが持ち込まれる危険性を示したもので、ここで人獣共通感染症の重要性がクローズアップされたのです。その結果、バイオハザード対策の総合的検討が行われるようになり、バイオハザード対策の基盤が作られていきました。また、日本では、霊長類センターが設立されるきっかけにもなりました。
まず、霊長類センター設立の経緯についてお話したいと思います。
1967年8月のマールブルグ病発生のニュースを聞いて、私たちの実験動物委員会サル部会では輸入サルの検疫方式の検討を行いました。予研でも同じ時期に西ドイツに輸入されたミドリザルと同じく、ウガンダから500頭のミドリザルを輸入していました。西ドイツで起きたことは日本でも起こりうると考えたのです。
当時、予研ではサルが輸入されると、検便、血液検査、ツベルクリン反応、口腔粘膜の検査など、さまざまの検査を行い9週間にわたって健康状態を観察する検疫を行っていました。これを変更して、これらの検疫作業を始める前4週間を、餌や水を与える単純作業のみにしたのです。マールブルグウイルスについての検査は不可能だったため、注目したのは、感染源になったミドリザルはすべて輸入後2週間以内に発病、死亡していたことです。もしも感染したサルがいれば、この4週間の間に発病すると考えたわけです。その後で通常の9週間検疫を行いました。
なお、この10年後の1989年になってWHOがサルの検疫のガイドラインを作りました、そこでは6週間検疫になっています。予研の方式はWHOよりもはるかに厳格なものだったのです。
マールブルグ病出現以前から、予研の獣疫部では野生サルに依存する方式には危険性があり、しかも実験成績の信頼性も乏しくなるため、実験室内でのサルの繁殖の試みを行っていました。そこで生まれてきたサルの数が増え始めて、実験室には収容しきれなくなるおそれが出てきました。しかもマールブルグ病の出現はサルの繁殖計画が非常に重要であることを示していました。
そこで、私たちのサル部会で1968年に繁殖施設の予算要求を提出することにしました。要求額は1億円でした。当時、予研ではせいぜい数千万円台の予算要求が限界でした。そのような状況での、1億円という額はきわめて非現実的でした。それを承知の上で、ともかく、厚生省まで予算要求書は提出してもらったのです。
ところがその頃、筑波移転計画が持ち上がり、厚生省は予研を移転させることに決めたのです。これに対して予研からは反対運動が起こり、室長の大部分が厚生省に座りこみまで行いました。のちに予研所長になった徳永徹先生は、座り込みのリーダー格でした。私も参加しました。厚生省は、身内の反乱に出会って大変当惑していました。そこで最終的に到達した結論は、霊長類センターを設立して、予研の一部移転とみなすことでした。この方針が1973年に決定され、35億円の予算で霊長類センターが設立されることになったのです。1億円でも夢物語と言われていたのが、35億円で実現することになったわけです。
翌1974年に私はWHOの資金援助を受けて3か月間、米国とヨーロッパの霊長類関連施設の調査に出かけました。その中には、バイオハザード関連施設も含めたのです。これが、私が本格的にバイオハザード対策に取り組むことになった出発点になりました。
霊長類センターは1978年に発足し、来年は30周年になります。

1970年代に始められた予研のバイオハザード対策

それまではバイオハザードについての具体的情報はほとんどありませんでした。3か月の調査で、CDC、米国陸軍感染症研究所(USAMRIID)、NIHをはじめ、欧米のおもなバイオハザード関連施設から多くの情報を入手することができました。そこで、私が帰国したのち、予研にバイオハザード委員会が結成されて、一連の活動が始められました。
まず、最初、1974年に病原体の危険度分類が作成されました。しかし、この時点では分類を行っても、それに対応する施設整備はできていません。そこで、これは病原体分類(案)ということになりました。こうして予研のバイオハザード対策指針は長いあいだ、案のままでしたが、現在では案の文字は削除され、実験室安全管理規定になっています。
一方、調査旅行で入手した資料を中心に、バイオハザードに関連した資料を集めた資料集を2度にわたって作りました。これが、そののちのバイオハザード対策の基礎資料となりました。さらに5年後にはこれら資料の集大成を、バイオハザード対策ハンドブックとして出版することができました。
その2年後の1983年、米国、英国、日本が中心になってWHOのBiosafety Manualが発行されました。現在は、2004年に発行された第3版が用いられています。(http://www.who.int/csr/resources/publications/biosafety/Biosafety7.pdf)。
米国では、1970年代、CDCが作成した病原体の指針とNIHが作成したガンウイルスの指針の2本立てでした。これはのちに一本化され、CDC/NIH Biosafety in Microbiological and Biomedical Laboratoriesになりました。そして、ニューヨークの同時多発テロ以後、バイオセイフティにバイオセキュリティの概念が加わえられました。現在は、2007年2月に発行された第5版(http://www.cdc.gov/od/ohs/biosfty/bmbl5/bmbl5toc.htm)が用いられています。

30年以上続いた病原体の自主管理態勢

予研で私たちが作成した病原体安全管理規定は、あくまでも予研内部での自主規制のものであって、国の指針ではありません。予研の指針に続いてウイルス学会の指針も私が中心になって作成しました。一方、細菌学会でも同様の指針が作成されました。しかし、すべて自主規制のものでした。
一方、1978年に組換えDNA実験指針が作成されました。これは国の指針です。本来、組換えDNA実験指針は病原体の指針を基盤として作成すべきものでした。現実に欧米では、国の病原体の指針に加えて組換えDNA実験指針が作成されていました。日本でも、国として病原体の指針を作成し、その上に組換えDNA実験指針を作る必要があることを私たちは主張したのですが、まったく無視されてしまいました。病原体指針という基盤がないまま、国としての組換えDNA実験指針が施行されたのです。病原体の管理は自主規制のままでした。一方、2005年に生物多様性の確保に関するカルタヘナ条約にもとづいて、組換えDNA実験指針は、生物多様性に関する法律となりました。基盤がないまま法律ができてしまったことになります。
2006年12月にやっと病原体管理に関する法律ができてきました。これは、バイオテロ対策を主な目的として感染症法が改正された際に、含められたものです。ここで、病原体は1種から4種に分類され(1種がレベル4、4種がレベル1に相当)、それぞれのレベルに対応した管理規定が設けられたのです。この法律は今年の6月に施行されました。振り返ってみると、国としての病原体管理の指針ができるのに30年以上かかっていました。
改正された感染症法で、1種から3種までの病原体を扱う実験室については、厚生労働省が必要に応じて立ち入り検査、改善命令を出すことができるようになりました。さらに、1種から3種までの病原体を運搬する場合には公安委員会に届けなければなりません。30年間の野放しの時代から、一足飛びに警察までが関与する法的枠組みになったわけです。

国際伝染病の認識

マールブルグ病の2年後、1969にはラッサ熱がアフリカに発生し、米国で患者の治療にあたった有名なウイルス研究者ジョルディ・カザルスが感染するという事態が起こりました。さらに1976年にはザイールとスーダンで、エボラ出血熱が発生しました。ザイールでは致死率が90%にも達し、全世界の感染症専門家を驚かせました。これまで、このように高い致死率の感染症はなかったのです。
マールブルグ病、ラッサ熱、エボラ出血熱と3大出血熱が出そろったのです。
日本でも、この3つの出血熱を国際伝染病と定義して、対策が進められることになりました。対策のおもな柱は、患者のウイルス学的診断のための高度安全実験室、患者を収容する高度安全病室、そして患者の隔離輸送車を整備することです。
エボラ出血熱が関係者に与えた衝撃の大きさは、CDCが作製したエボラ出血熱患者輸送用のトレーラーに示されています。米国人が海外でエボラウイルスに感染して帰国を望んだ場合、飛行機の中でほかの乗客に感染が及ばないようにする対策が真剣に検討されたのです。その結果、隔離設備を設けたトレーラーに患者を収容し、それを大型輸送機に積むことにしたのです。このトレーラーは1977年に私たちがCDCを訪問した際、倉庫に置かれていました。さいわい、この輸送装置を使う事態は起こりませんでした。

病原体を確実に封じ込めるグローブボックスライン

国際伝染病対策のうち、もっとも重要な課題は高度安全実験室、すなわちP4実験室の建設でした。P4実験室を実際に調査した経験があったのは、私だけでした。そこで、私は当時、予研副所長だった福見秀雄先生と一緒に自民党本部に呼ばれました。国際伝染病対策は自民党からの発案で、自民党はかなり力を入れていたのです。
私が強調したのは隔離実験のためのグローブボックスラインの作製が高度安全実験室建設の鍵になるということです。P4実験室では実験者の感染防止がもっとも重要です。もしも感染すれば、最初の数日は潜伏期であるため、気が付かれることなく社会にウイルスを広げるおそれがあります。実験者の感染防止対策は、危険なウイルスを完全閉鎖環境のグローブボックスのなかで取り扱わなければなりません。さまざまな実験操作を行うためのグローブボックスを連結したグローブボックスラインの作製が果たして日本で可能かどうかが、これが高度安全実験室建設の際にもっとも重要であるということを説明したのです。
その結果、予研から私と北村敬、清水文七の両先生、それに隔離実験室とその空調設備を担当する企業とグローブボックスライン作製を担当する企業の技術者による調査チームが作られ、米国のバイオハザード関連施設の調査を行いました。私と北村先生は米国よりも長い経験のある英国国防省の隔離施設へも足を伸ばしました。
CDCのP4実験室は、特殊病原部の部長で、エボラウイルスの命名者でもあるカール・ジョンソンが案内してくれました。ちょうど、顕微鏡でマールブルグウイルス感染細胞を観察していたところでした。実験者は肘がむきだしでマスクもしていませんでした。グローブボックスラインの中にウイルスが確実に封じ込められているため、実験者は無防備状態でも安全と判断されているのです。
グローブボックスラインは安全性の面では、もっとも高い信頼性を持っていますが、欠点として操作性が悪いことです。そこで先ず、木製の模型を作って操作性を検討した結果、現在のグローブボックスラインの作製を行ったのです。これは、今も感染研で用いられており、操作性はよいとの評価をもらっています。

高度安全実験室の建設

高度隔離が必要な建物の建設も、日本では初めての経験でした。設計、建設にあたって、非常に参考になったのは、Design Criteriaという本でした。これは、フォートデトリックにある米陸軍の生物兵器研究所が長年の経験の集大成として、1969年に500部限定出版したものです。1974年に私はフォートデトリックを訪問した際に1部分けてもらいました。482番目と残り少なくなっていました。
高度安全実験室の最初のフロアープランは、私が手書きで作りました。今も記念として大事にしまってあります。
1980年に高度安全実験室は完成しました。しかし、住民からの反対運動が起こり、現在もレベル4病原体の使用は厚生労働省から許されていません。そのため、レベル3病原体を用いた実験が行われています。しかし、前に述べたように、感染症法の一部が昨年12月に改正され、レベル4病原体は1種に分類され、 感染研の高度安全実験室は、今後、1種病原体を取り扱う施設に指定されて、レベル4病原体の使用が具体的に検討されるものと思われます。
P4実験室は現在ではバイオセーフティ・レベル4実験室、略してレベル4実験室と呼ばれています。レベル4実験室は1981年当時、日本のほかには米国、英国、南アフリカ、ロシアなどに限られていました。そののちレベル4実験室は全世界で建設され、現在17ヶ国32カ所以上(米国10カ所以上、カナダ、ブラジル、英国3カ所、フランス、ドイツ2カ所、イタリア、スイス、スウェーデン、ロシア、南アフリカ、ガボン、インド、台湾2カ所、シンガポール、オーストラリア3カ所、日本)になっています。
CDCでは、1990年代初めからスーツ方式のレベル4実験室が稼働しています。1970年代から用いられてきたレベル4実験室は多剤耐性結核菌の研究用になりました。
1999年、私は東大の吉川泰弘先生、長崎大の佐藤浩先生と一緒に、CDCにウイルス・リケッチア部の部門長ブライアン・マーヒーを訪ね、スーツ実験室の内部を見せてもらいました。2つあるユニットのうち、1つがメインテナンスのために内部がホルマリン燻蒸で消毒されていて、中に入ることができたのです。
フランスのリヨンには、メリュー財団のシャルル・メリューが提供した資金で建設されたP4実験室があります。(本講座第84回・フランスリヨンに建設されたP4実験室)。私の古くからの友人フェビアン・ワイルドがシャルル・メリューに資金提供を頼んだのですが、その際メリューが出した唯一の条件は、彼が生きている間に完成させることだったそうです。1999年の開所式には、シラク大統領も出席しました。その2年後、メリューは94歳で亡くなりました。
医科研の甲斐知恵子先生と米田美佐子助手は、この実験室でニパウイルスの研究を行っています。

グローブボックスライン方式とスーツ方式

最近建設されているレベル4実験室では宇宙服スタイルのスーツに実験者を封じ込めて、実験操作はオープンキャビネットで行う方式が多く採用されています。
グローブボックス方式とスーツ方式には、それぞれ長所・短所があります。病原体はグローブボックス方式では完全密閉キャビネット内に封じこめられます。したがって安全性はきわめて高いという利点があります。耐震性でもグローブボックス方式の方がはるかに高いという利点があります。一方、実験操作の面では、スーツ方式はレベル3実験室なみですから、グローブボックス方式よりもはるかによくなります。したがってグローブボックス方式は診断のように一定の手順による実験に適していますが、スーツ方式は複雑な操作が必要となる研究に適しているといえます。また、ランニングコストはグローブボックスの方がスーツ方式よりも安くなるといった利点があります。

高度安全病室

高度安全病室は都立荏原病院に建設されました。患者はプラスチックアイソレーター内のベッドに収容されます。これは、無菌動物のためのアイソレーターを改良したものです。ただし、無菌動物の場合は、外部から病原体が入り込まないようにするために、内部は陽圧ですが、こちらは内部から病原体が外へ出ないようにするために、陰圧になっています。医療処置などはグローブを通して行い、患者と直接接触することがないようになっています。プラスチック製のグローブボックスといえます。
この病室は、1987年に医科研病院で見つかったラッサ熱患者の場合に用いられました。試験用として、健康な人が収容されたこともありますが、精神的に大変だったようです。現在は撤去されています。
感染症法が施行され、エボラ出血熱、ラッサ熱などの患者は第1種感染症指定医療機関に収容されることになりました。その病室の第1号は関西空港に隣接した泉佐野市にあります。数年前に私は内部を見せてもらいましたが、骨髄移植などの場合の無菌病室と同じような病室で、アイソレーターのような閉鎖環境ではなくなりました。

エマージング感染症の認識

WHOは1980年、天然痘根絶宣言を発表しました。18世紀終わりにジェンナーがはじめて種痘による天然痘の予防に成功し、その約50年後の1840年、牛のお腹で天然痘ワクチンを製造する方法がイタリアで開発されました。実は、この方式で製造されたワクチンが天然痘根絶に役だったのです。私が北里研究所で最初に取り組んだ研究は、WHO天然痘根絶計画のために、牛で製造した天然痘ワクチンの耐熱性を高めることでした。
ところで、天然痘根絶や抗生物質の普及から、人類は感染症を克服できるという期待が生まれました。しかし、1982年にはエイズが出現し、1990年には米国の首都ワシントンの郊外のレストンという町でフィリピンから輸入したカニクイザルにエボラウイルス感染が見つかるといった事態から、感染症の克服は幻想であることが認識され、1992年には、エマージング感染症に関する報告書が米国医学協会から出されました。エマージング感染症のうち、とくにウイルスによるものが重要であり、しかもそのほとんどは動物由来の人獣共通感染症です。その結果、人獣共通感染症の重要性があらためて認識されたのです。
この報告書を受けて1993年には、WHO, 全米科学者協会、FAO, OIEが合同でエマージング感染症に関する会議を開きました。その報告の中で勧告された国際監視計画は1994年にProMEDとして発足しました。

連続講座・人獣共通感染症の開始

予研の霊長類センターでは、長年にわたって実験用サルに関する問題を検討するための日米合同委員会が活動してきました。1995年の会議で、霊長類フォーラムの設立が当時霊長類センター長だった吉川泰弘先生から提案されました。そして、その活動のひとつとして、インターネットによる連続講座が企画され、私は人獣共通感染症について記事を提供するよう依頼されました。まだインターネットがほとんど普及していない時代でした。私はインターネットによる講座がどのように運営されるのか、まったく理解できませんでした。将来、情報提供網として、大きなポテンシャルがあるという説明もされましたが、よく分からないまま、引き受けることにしたのです。
1995年4月、最初の講義として、オーストラリアで発生したウマモービリウイルス、現在はヘンドラウイルスと呼ばれているものですが、これを取り上げました。その直後、ザイールでエボラ出血熱の大流行が起こりました。この話題も早速とりあげ、その年は全部で27の記事を掲載しました。エボラ出血熱は日本でも大きな話題となり、この講座へのアクセス数は急激に増加しました。
翌年1996年には英国でBSE感染が疑われる変異型クロイツフェルト・ヤコブ病が確認されたことで、世界的BSEパニックが起こりました。当時、BSEの問題を取り上げていたのは、この講座だけでしたので、アクセス数はさらに増加しました。とくに、英国在住の日本人たちは、日本語で解説が読めるということで、かなり利用したようです。2001年日本でBSEが発生してからは、さらに多数の人たちが利用するようになりました。発足当時、吉川先生たちが強調された、インターネットによる情報網の威力に驚いた次第です。

スローウイルスからプリオンへ

人獣共通感染症のなかでも特異な存在であるBSEについて触れたいと思います。BSEやクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)などは、現在はプリオン病と呼ばれています。しかし、かってはスローウイルス感染という呼び名が普通でした。スローウイルス感染の名称が普及しはじめたのは、カールトン・ガイジュセックが1976年にノーベル賞を受賞した頃からです。ノーベル賞の受賞講演で、彼は病原体を非通常ウイルスと呼びましたが、一方、論文や総説では、スローウイルスと呼んでいました。そして、一般にはスローウイルスの名称が用いられていました。ともかく、病原体はウイルスであるとみなしていたのです。1982年、スタンレー・プルシナーがプリオン説を提唱しました。病原体はウイルスではなく核酸を持たない蛋白質という考えから、プリオンの名称をつけたのです。
日本では1976年に、厚生省が難病研究班のひとつとして、遅発性ウイルス感染調査研究班を結成しました。ちょうどガイジュセックがノーベル賞を受賞した年でした。この班ではCJDと亜急性硬化性全脳炎(SSPE)が柱になっていました。SSPEは麻疹ウイルスが子供の脳内で平均6年間潜伏したことによると考えられている致死的脳炎で、100万人に一人ぐらいの割合で発生します。私は予研麻疹ウイルス部でSSPEの研究に従事していましたので、この班の発足2年目頃から参加しました。
私は1988年から5年間班長をつとめ、その最後の年にそれまでの班研究の成果をスローウイルス感染という表題で1冊の本にまとめることにしました。この本がほぼ完成する直前、私はウイルス学会の会長としてプルシナーを特別講演に招待しました。その際に彼にこの本のことを話したところ、プリオンはウイルスではないと指摘され、そこで、急遽、タイトルをスローウイルス感染とプリオンに訂正したのです。この時点で、スローウイルス感染がプリオン病に変わったことをあらためて認識した次第です。プルシナーはこの2年後、ノーベル賞を受賞し、現在では、プリオン病の名前は定着しています。

プリオン病研究の流れを振り返る

英国では古くから羊毛産業が盛んで、羊のスクレイピーも古くから発生していました。そのため、スクレイピーの研究の歴史も古く、とくに1950年代からはスクレイピーに関する本格的な研究が行われていました。この頃、米国ではガイジュセックが1957年にクールーの研究をはじめていました。1959年にロンドンの博物館に展示されたクールーの写真を見たスクレイピー研究者のウイリアム・ハドローがスクレイピーとクールーが非常によく似ていることを指摘したのがきっかけで、ガイジュセックはスクレイピーのヒツジへの伝達実験にならって、クールーのチンパンジーへの脳内接種実験を試み、クールーが伝達性であることを証明したのです。その成果で、ガイジュセックは1976年にノーベル賞を受賞しました。
それまで、スクレイピーの研究はヒツジとマウスで行われており、数ヶ月以上の潜伏期で発病が見られていましたが、ハムスターが数十日という短い 潜伏期で発病するスクレイピー株が作られました。米国のプルシナーはこの病原体を用いて実験を行い、1982年にプリオン説を発表したのです。彼は1997年にノーベル賞を受賞しました。2つのノーベル賞は英国のスクレイピー研究の成果に支えられていたのです。
日本では、前に触れたように、1976年に遅発性ウイルス感染調査研究班が結成されました。この班の研究を通じて、九大の立石潤先生はCJDのマウスモデルに世界ではじめて成功されました。ついで現在BSEの確定診断の手段にもなっている免疫組織化学染色が、当時九大(現在は東北大)の北本哲之先生により1980年代後半に開発されました。一方、スクレイピーの生前診断の方法が当時、帯広畜産大学の品川森一先生により開発されました。
ところで、英国では1986年にBSEが発見され、1996年には変異型CJDが確認され、人のBSEの感染が問題になり、世界的BSEパニックを引き起こしました。そこで、厚生省は日本でも変異型CJDの患者がいないかを確かめるために、CJDの調査を始めました。ところが、みつかってきたのは変異型CJDではなく、硬膜移植を受けた人でのCJDでした。薬害ヤコブ病の問題が明らかになったのです。厚生省は薬害エイズに続いて薬害ヤコブ病という大きな課題に直面したのです。そして、BSEがそれらの二の舞にならないよう、BSE対策に熱心に取り組みはじめました。そのひとつとして、BSEに関する研究班が農水省と厚生労働省により結成されました。この両方の研究班活動が基盤となって、現在のBSE対策は行われているのです。

異種移植が抱える人獣共通感染症の潜在的危険性

最後の話題として、新しい人獣共通感染症をもたらす潜在的危険性が問題になっている、異種移植について簡単に触れたいと思います。
異種移植は臓器不足を解消する根本的手段として期待されているものです。異種の動物の臓器を移植すると数日以内に拒否反応が起きて、移植臓器は排除されてしまいます。これは超急性拒絶反応によるものですが、これがα1-3 gal抗原に対する抗体と補体の共同作用によることが1980年代に明らかにされました。そこで、補体の働きを制御することにより超急性拒絶反応から免れるようにする試みがはじめられました。1984年には、人の補体制御蛋白遺伝子を導入したトランスジェニック豚が作成されました。そして、1995年には、この豚の心臓のヒヒへの移植で超急性拒絶が回避されることが確認されました。その結果、豚の臓器を人の臓器の代わりに利用するアイディアが現実的とみなされるようになったのです。
それとともに、問題になってきたのは、豚のウイルスがもつ潜在的危険性です。豚の臓器が人の体内に長期間正着した場合、豚のウイルスが人のウイルスに変わって、これまでにない、危険な感染症を引き起こすおそれはないかという点です。とくに、豚には内在性レトロウイルスが見つかっています。これは豚では病気は起こしません。しかし、人の体内で新しいレトロウイルスに変わり、それが人の社会で第二のエイズウイルスとなる事態が起こるかもしれないという、潜在的リスクです。
そこで、臨床試験を行う場合の安全確保のためのガイドラインが1998年にまず英国で作られました。新しいウイルスが生まれた場合のリスクは世界的なものになるおそれがあります。そのため、WHOもガイダンスを発表しました。米国FDAの指針は2000年に発表されました(本講座第101回・米国FDAの異種移植ガイドライン)。日本では2002年にFDAとほぼ同様の指針が作られました。

異種移植安全諮問委員会

異種移植の技術開発の中心になったのは、1984年、英国に設立されたイムトラン社です。ここが、1996年、先ほど述べた豚の心臓のヒヒへの移植に成功しました。この頃、イムトラン社はノバルティス社の傘下に入り、ノバルティス社は異種移植の臨床試験に向けて安全諮問委員会を結成しました。私もこれに参加しました。そのメンバーには、CDCのブライアン・マーヒー、SARSやインフルエンザで活躍しているアルバート・オスターハウス、心臓移植の第一人者であるデイヴィッド・クーパーなどがいました。この委員会での議論の内容は2000年に論文にまとめられました(An approach to the control of disease transmission in pig-to-human xenotransplantation. Xenotransplantation, 7, 143-155, 2000)。
私は1990年に医科研で倫理審査委員長として脳死肝移植の承認を行ったことがありましたが、ここでは、臓器移植と人獣共通感染症という新しい問題に向かい合うことになったのでした。

おわりに

マールブルグ病に始まった私の人獣共通感染症とのかかわりは、バイオハザード対策から現在ではバイオテロ対策や異種移植の潜在的リスクといった、当初予想もしない領域にまで広がっています。昔話を通して私なりに現在の問題点も合わせて整理してみたつもりです。