人獣共通感染症連続講座 第178回 新刊書 「<眠り病>は眠らない」

(2/9/08)

 岩波書店(科学ライブラリー)から1月末に表記の本が出版されました。睡眠病の新薬開発を行っている東大医学部教授の北潔先生との共著によるものです。目次、はじめに、あとがきの抜粋を紹介させていただきます。

目次

1. なぜいま睡眠病なのか
睡眠病とはどんな病気か
植民地化が広げた睡眠病
エイズと同様の緊急性が認識された睡眠病対策
睡眠病の現状
日本で開発が進む新薬への期待

2. アフリカ大陸を不毛にするナガナ病
ナガナ病とはどんな病気か
野生動物と共存するトリパノソーマ
アフリカの貧困をもたらすナガナ病
化学療法剤によるナガナ病対策
不妊とした雄によるツェツェバエ根絶対策

3. 睡眠病はなぜ起こるのか - 原因解明にいたる道のり
蛙の血液で見出されたラセン状に動く生物
ナガナ病の原因解明
睡眠病の原因もトリパノソーマ
ローデシア・トリパノソーマの発見
ロベルト・コッホと睡眠病

4. 原虫トリパノソーマの生物学
トリパノソーマの特徴
トリパノソーマのライフ・サイクル
トリパノソーマが免疫系の攻撃から逃れる戦略
ツェツェバエの特徴
ツェツェバエによるトリパノソーマの伝播

5. 遅れている睡眠病の診断法と治療薬
睡眠病の臨床経過
現在の診断法
新しい診断法の開発
魔法の弾丸、化学療法剤を求めて
睡眠病治療薬アトキシルから梅毒治療薬サルバルサンへ
アトキシルによる睡眠病治療
現在用いられている治療薬
見捨てられた病気のための薬

6. 新薬開発をめざして — 日本からの貢献
アスコフラノンの発見
哺乳類と異なる寄生虫のエネルギー代謝
トリパノソーマのシアン耐性呼吸
アスコフラノンの抗トリパノソーマ作用
アスコフラノンの実用化への道のり
地球レベルの創薬をめざして

はじめに

アフリカに、眠り続けて最後は死亡する病気があることを漠然と知っている人は多いだろう。しかし、それがアフリカの人々の健康にとどまらず、アフリカの経済発展にまで大きな影響を与えていることを理解している人は、ほんの一握りに過ぎない。この病気は、一般には眠り病と呼ばれている。しかし、正式の名前は睡眠病なので、本書の中ではこちらを用いる。
睡眠病の研究の歴史を振り返ると、この病気は熱帯医学研究の大きな推進力になっていたことがわかる。世界で最初に作られた熱帯医学研究施設は、一八九八年、睡眠病研究のために設立された英国リバプール熱帯医科大学である。翌年には、ロンドン、ついでドイツ、ベルギー、フランスなどヨーロッパ各国に熱帯医学研究所が同様に睡眠病の研究のために設立された。これらが現在の熱帯医学研究を支えている。
睡眠病の原因の解明にかかわった人には、のちに熱帯医学の父と呼ばれるようになったパトリック・マンソンがいた。一方、治療に関する研究では、細菌学の父と呼ばれるロベルト・コッホをはじめとして、パウル・エールリヒ、志賀潔など微生物学の歴史に名を残した人たちがでてくる。最初につくり出された化学療法剤は睡眠病の治療薬であって、それが梅毒治療薬のサルバルサンの開発につながった。二十世紀の初め、睡眠病はまさに現代のエイズに匹敵する新興感染症として、多くの研究者が取り組んだのである。
その結果として、二十世紀半ばには睡眠病はほぼ制圧された。ところが、第二次世界大戦終了後、アフリカ諸国があいついで独立し脱植民地化が進むとともに、政治的不安定な状態が起こり、睡眠病はいつの間にか忘れ去られ見捨てられた病気になってしまった。治療薬のほとんどは半世紀前に開発されたものである。アフリカなど熱帯諸国では、睡眠病をはじめとしていくつかの重い感染症が大きな被害を及ぼしているにもかかわらず、長い年月にわたって見捨てられてきた。二十一世紀に入って、見捨てられた病気への対策が推進されはじめた。世界保健機関(WHO)も本格的な睡眠病対策に乗り出した。それに先駆けて、日本では効果的な治療薬の開発が進められている。
一方、睡眠病に相当する家畜の病気としてナガナ病がある。これが存在する地域はアメリカ合衆国に匹敵する広さにわたっている。これらの地域では農業を支える牛が飼育できないため緑の砂漠となっていて、アフリカの貧困の大きな原因とみなされている。しかし、ナガナ病対策には進展はほとんど見られていない。
本書では、睡眠病の歴史を通じてこれらの病気の背景を考察し、現在抱えているさまざまな問題点を紹介するつもりである。

あとがき

私の専門はウイルス学である。東京大学を定年退官してからは、危険なウイルス感染症やプリオン病といった社会的に注目されている話題について、いくつかの本を出版してきた。ところが、本書は私の守備範囲とはまったく異なる原虫・トリパノソーマ感染症に関するものである。このようなまったく専門外の本を執筆したきっかけは、私の古くからの知人・所源亮氏(アリジェン製薬株式会社社長)から、彼が支援している睡眠病治療薬アスコフラノン開発研究の話を聞かされたことだった。睡眠病は昔からアフリカで人と家畜に大きな被害を与えていたにもかかわらず、長年、国際社会から見捨てられてきた病気である。最近になってWHOなどの国際機関が睡眠病対策に力を入れはじめたが、その活動のなかでアスコフラノンに国際機関が大きな期待を寄せていることをはじめて知ったのである。この研究リーダーが、私が東大医科学研究所に在職していた際の同僚だった北潔教授であることも知らされた。
日本で開発され地球規模で人々の健康に貢献している薬の代表には、大村智北里研究所所長が開発された寄生虫に対する薬イバメクチンと遠藤章東京農工大学名誉教授が三共製薬株式会社在職中に開発されたコレステロール低下薬スタチンがある。ところが、実際に医薬品として最初に実用化したのはいずれも米国の企業だった。これに対してアスコフラノンは、発見から医薬品として実用化までのすべてが日本ですすめられている、純国産のものである。しかし、睡眠病のことを知っている人は皆無に近い。そこで、一般向けの解説書を書いてもらえないだろうかと持ちかけられたのである。
睡眠病の舞台であるアフリカと私の接点は麻疹ワクチンと牛疫ワクチンだけだった。前者では、国際協力事業団(JICA)のガーナ・野口記念医学研究所での麻疹プロジェクトに参加していた。後者は私が開発した組換え牛疫ワクチンについてケニアの研究所と共同研究計画を進めたことがあった。ケニア訪問の際には、国際家畜研究所(IRLI)でトリパノソーマ耐性牛に関する研究について議論を行い、ケニア・トリパノソーマ研究所を訪問してトリパノソーマの被害の実態を説明されたこともあった。
これだけの経験しかなく、睡眠病にはまったくの素人でありながら、持ち前の好奇心から執筆することにしたのである。そして、さまざまな資料を集めているうちに、睡眠病には微生物学、熱帯医学、化学療法剤の分野の進展の歴史が深くかかわっていることをはじめて認識した。新鮮な驚きの連続の作業になったのである。
そこで、このような側面をなるべくとりあげるようにつとめながら、一章から五章までを私が執筆した。六章は北教授が専門家の立場からアスコフラノンの開発の現状と今後の抱負について執筆した。
その結果として、本書では睡眠病だけでなく、十九世紀終わりから二十世紀はじめにかけての微生物学の歴史の一端も紹介できたものと考えている。