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本講座177回「人獣共通感染症との40年の関わりを振り返る」で、私が人獣共通感染症のかかわるようになった原点は、1965年に国立予防衛生研究所麻疹ウイルス部に入ってサルを用いた麻疹ワクチンの検定や研究を始めたことであり、それが医学研究用サルの人工繁殖のための霊長類センターの設立につながった経緯をご紹介しました。 ところで、1978年に霊長類センターが設立された際、厚生省は、国家公務員の定員の制約から、社団法人予防衛生協会を同時に設立してサルの飼育管理など現業部門を分担させることにしました。私は、同協会の理事を長年つとめてきていますが、今年は設立30周年にあたることから、2008年11月28日につくばで開催された第12回予防衛生協会セミナーでは、「30周年によせて・霊長類における人獣共通感染症の歴史」という表題で特別講演を行いました。 サルにしぼって人獣共通感染症の歴史を考えたのは私にとって初めてのことでした。そして、そこには、たとえばエイズの原因である人免疫不全ウイルス(HIV)のように、人のウイルスに進化してしまったサル由来のウイルスが重要な位置を占めていることも改めて認識しました。その結果、講演内容は、「サル由来ヒトウイルス感染症の歴史」になっています。 以下、講演テキストと一部のスライドを合わせてご紹介します。
1.最古のサル由来ヒトウイルス感染症としての黄熱 (スライド図1)
黄熱ウイルスは旧石器時代、中央アフリカの熱帯雨林の中で、オナガザルでほとんど病気を起こすことなく増殖し、その血液を吸ったヤブ蚊がほかのオナガザルに感染を拡げるというサイクルで存続していたと考えられます。 これは、森林型サイクルと呼ばれる黄熱ウイルスの本来の存続様式です。旧石器時代、狩猟採集の生活を営んでいた人たちが森林に入って、黄熱ウイルスを保有するヤブ蚊に刺されて感染することは時折起きていたことが推測されます。 黄熱ウイルスはアメリカ大陸には存在していませんでした。コロンブスの新大陸発見後に持ち込まれ南米産サルに感染を起こし、ここではヘマゴーガス属の蚊が媒介するという森林型サイクルが生まれました。なお、南米産サルでは黄熱ウイルスはしばしば致死的感染も起こします。 現代社会では、森林サイクルだけでなく、森林で黄熱ウイルスに感染した人から、都会でネッタイシマカを介して人から人へと広がる都市型サイクルの感染が起きています。 黄熱は、旧石器時代から現代にいたるまで続いているサル由来ヒトウイルス感染症ということになります。
2.医学実験用霊長類から起きてきたサルからのウイルス感染
20世紀になって、サルを医学研究に用いるようになって、サルからののウイルス感染症が新しい問題になってきました。 その最初と考えられるのは、マウス胎児細胞で製造した17E株と命名された黄熱ワクチンの開発試験の際に起きた肝炎です。これは、ロックフェラー研究所が1936年からブラジルで795名の人で行った試験で、ワクチンの副作用を弱めるためにアカゲザルで作った高度免疫血清を同時に接種していたのですが、2−8ヶ月後に20−30%の人に原因不明の黄疸が起こりました(Soper, F.L. & Smith, H.H.: Am. J. Trop. Med., 18, 111, 1938)。 黄疸が起きたのは、特定のサル免疫血清が用いられたグループだけで、ほかの免疫血清が用いられたグループでは見られませんでした。おそらくサルの血清に肝炎ウイルスが含まれていたためと推測されましたが、当時は原因不明のままになりました。 なお、このウイルスをさらに中枢神経系を除いたニワトリ胚の細胞に順化した17D黄熱ワクチンが翌年開発され、これにより単独で接種することができるようになりました。このワクチンを開発したマックス・タイラー(Max Theiler)は1951年にノーベル賞を受賞しました。このワクチンは現在も用いられています(Theiler, M. & Smith, H.H.: J. Exp. Med., 65, 767, 1937)。 医学研究用サルからの感染のリスクが初めてはっきりと認められたのは、米国ニューメキシコのホロマン(Holloman)空軍基地で、1958年から60年にかけて起きた肝炎の多発でした。 ここでは、多数のチンパンジーが航空医学の研究に用いられていました。肝炎の患者が多発したので調べてみると、チンパンジーと密接な接触のあった人21名のうち、11名が発病していて発生率は50%以上だったのに対して、チンパンジーとの接触のなかった対照の人では0.37%の発生率でした。 その結果、チンパンジーからの感染と判断されました。これらのチンパンジーは西アフリカのカメルーンから輸入したものでしたが、後の調査から現地で輸入業者が人のいろいろな感染症を防ぐためという理由で、人の血液の腹腔内注射を行っていたことがわかりました。 その際に人から肝炎ウイルスに感染して一時的なキャリヤーになっていたものと考えられました。人からサルへ、そして、それがふたたび人に感染を起こしていたというわけです。 そのほかにも、空軍基地、国立衛生研究所(NIH)、動物園、ペットショップ、動物輸入施設、個人住宅でチンパンジーからの肝炎感染が200例以上見つかっています。 のちに、1980年にチンパンジーなどサル類の抗体調査を行った結果、A型肝炎が陽性で、B型肝炎はすべて陰性だったことから、1950年代の感染はおそらく、A型肝炎ウイルス感染によると推定されています。
3.医学実験用サルの利用のきっかけとなったポリオワクチン(スライド図2)
日本でサルを用いた医学実験が大規模に行われるようになったのはポリオワクチンの製造、検定が始まった時からです。そして、これがサル由来のウイルス感染症の問題が認識されるきっかけになりました。 日本でポリオが大きな問題になったのは1950年代終わり頃でした。ポリオが全国的に発生し、1961年には患者数が5600人を超える大流行になりました。「子供を小児麻痺から守る全国協議会」が発足して、いわゆる生ワクチン闘争が始まり生ワクチンの輸入を厚生省に要望した結果、超法規的措置でソ連から1000万人分、カナダから300万人分が1961年7月に緊急輸入されたのです。 ワクチンの投与が始まった翌月には、東京都では患者発生がゼロになりました。当時、厚生省は不活化ポリオワクチンの定期接種を法制化したところでしたが、生ワクチンの劇的な効果を見て、方針を変更し、生ワクチンの国産化をはかることにしたのです。 そこで、株式会社日本生ポリオワクチン研究所(現在は財団法人日本ポリオ研究所)が1962年に設立されました。最初は北里研究所に間借りしており、1963年にセービンの種ウイルスが送られてきて生ワクチン製造が開始されました。 予研では村山分室に腸内ウイルス部のポリオ検定庁舎が完成し、1963年には獣疫部のサル健康管理施設が完成しました。もっとも、サルの輸入はそれ以前から始まっており、獣疫部が1961年4月から1964年3月までの3年間に東南アジアから輸入したカニクイザルは4500頭に達しました。 1963年には最初のポリオワクチンが国家検定に提出され、12月に中間製品が検定に合格、翌1964年1月に最終製品が合格し、国産ポリオワクチンが普及することになりました。 図の上の写真は、生ポリオワクチン闘争で厚生省に押しかけた母親たちに関する新聞記事に掲載されたものです。ポリオワクチン製造を行ったのは、モスクワにあるポリオ及び脳炎ウイルス研究所で、ここを私が1972年に訪問したところ、同じ母親たちのパネル写真と、日本からお礼に送られた唐獅子人形が所長室に飾られていました。
4. Bウイルス感染の歴史(スライド図3)
ポリオワクチンの検定で多数のサルが用いられるようになり、ついで麻疹ワクチンの検定も始まりました。そこで、まず問題になったのはBウイルスです。カニクイザルではBウイルスの不顕性感染が多いことが分かっており、検疫で検出することは困難でした。 Bウイルスの危険性は今更説明する必要はないので割愛し、その分離の経緯について、最近明らかにされたことをお話したいと思います。 これまではW.B.という研究者から分離されたといった程度でしか分かりませんでしたが、今年になって、Canadian Medical Association Journalに詳細な経緯が初めて紹介されました。患者はウイリアム・ブレブナー(William Brebner)という(写真)、当時29歳の医師でした。カナダ・トロント大学医学部卒業後、ニューヨーク大学の助教授となり、ニューヨーク市衛生局のポリオ研究部長を兼任していた時でした。10月22日にサルに指をかまれ、18日後に急性進行性髄膜脳炎による呼吸困難で死亡しました。 現在用いられている生ポリオワクチンを開発したアルバート・セービン(Albert Sabin)は、当時、ニューヨーク・ベルビュー病院のインターンであって、剖検の際にサンプルを採取し、それからフレデリック・ゲイ(Frederick Gay)とマーガレット・ホールデン(Margaret Holden)がウイルスを分離したのですが、彼らは単純ヘルペスウイルスとよく似ていることを確認してW ウイルスと命名しました。 ついで、セービンとアーサー・ライト(Arthur Wright)が単純ヘルペスウイルスとは異なることを指摘し、B ウイルス と命名したのです。この時の経験はそののちのセービンのポリオ研究に大きな影響を与えたと言われています。 これまでに発生が確認されたBウイルス感染は、2002年までで約50例、そのうち26例だけに詳細な記述があります。最後の死亡例は1997年のヤーキス霊長類センターで起きたもので、もっとも新しい感染例は2008年に検査施設での検査で明らかになった1例です。
5.B ウイルス感染の背景と対策
前述のように、1932年に最初の感染・死亡例が起こり、1934年に分離ウイルスがB ウイルスと命名されました。1950年代後半には12例の感染がありましたが、これはポリオワクチンの検定開始に伴い多数のサルが用いられるようになったためでした。 1973−87年には発生は2−3例に減りましたが、これはケタラール麻酔、スクイーズケージの使用、厚手の手袋など防護衣の着用といった、安全対策が普及したためと考えられています。 1987年にはフロリダで4名の集団発生があり、1例は人から人への伝播になりました。1989年にはミシガンで3例の集団発生、1990年にはサルの健康管理獣医師の感染が起こりました。この頃にはアシクロビルによる治療が可能になってきました。それを受けて疾病制圧予防センター(CDC)はB ウイルス 作業グループを結成し、1995年に予防と治療のためのガイドラインを作りました。その全文は元霊長類センター室長・長文昭さんが翻訳されています。 1997年には、ヤーキス霊長類センターでアカゲザルからの飛沫が眼に飛び込み、それにより感染して死亡する事故が起こりました。初めての粘膜感染による事故で、CDCは暫定的勧告を出しました。
6.日本におけるBウイルス研究(スライド図4)
Bウイルスはレベル4に分類されており、抗ヘルペス剤のアシクロビルなどの有効性が明らかになったことから最近、少量のウイルスを用いる実験はレベル3になりましたが、現実には日本では実験は行われていません。 しかし、1970年代半ばに病原体の分類が行われるようになる以前、Bウイルスの研究は医科研の前身である伝染病研究所(伝研)と予研で行われたことがあります。 伝研の細菌感染研究部では遠藤元繁さんが種々のサルについて抗体調査を行い、ニホンザルでも抗体が存在していることを1960年に発表しています。また、同じ年にタイワンザルからのウイルス分離を発表しています。 予研では1960年と1966年にウイルスが分離されています。写真は、1972年にインドネシアから輸入したカニクイザルに見いだされた病変で、これからもウイルスが分離されたと言われています。 一方、腸内ウイルス部の上田良昭さんたちはBウイルスと単純ヘルペスウイルスにそれぞれ特異的に反応するモルモット抗体を作っています。その際には、1960年と1966年に予研で分離されたウイルス、遠藤さんの分離ウイルスとカナダから分与されたウイルスが用いられています。 なお、この抗血清にはエピソードがあります。その頃、伝研の病理の人たちが原因不明で死亡したサルを解剖したところ、内臓にBウイルス感染を疑わせるはげしい病変が見つかりました。当時は手袋をせずに解剖していたため、解剖にかかわった人たちはBウイルスに濃厚接触していた可能性があり、感染を非常に心配したのです。幸い、上田さんの特異的抗血清で、単純ヘルペスウイルス感染であったことが分かって安心したという話です。
7.輸入サルで見いだされた狂犬病(スライド図5)
医学研究用のサルの輸入にともなうウイルス感染症の危険性はBウイルスだけではありませんでした。 1965年には、狂犬病が英国で見つかりました。インドから輸入したアカゲザルのうち、1頭が到着47日目から餌を食べなくなり、51日目に自傷部位が悪化したため殺処分されたのですが、解剖の結果、脳に細胞質内封入体がみつかり狂犬病ウイルスが分離されました。抗体は見付かりませんでした。 この診断を行ったのは写真のブルジェー(L.R. Boulger、英国人ですがフランス系のためにフランス式に呼ぶのだそうです)です。これは1972年にモスクワでの会議で一緒になった際に写したものです。 私は、そののち1974年に霊長類センター設立のための調査で、ロンドンの 彼の研究所を訪ねて、狂犬病のサルの標本などを見せてもらいました。さらにそのサルの輸入業者であったシャムロック・ファーム(Shamrock Farm)、これはヨーロッパのサルの最大の輸入業者ですが、そこにも連れていってもらいました。 輸入サルからの狂犬病は、ほかに米国で5例、イタリアで2例が知られています。
8.マールブルグ病の発生(スライド図6)
1967年8月から9月にかけて、皆さんもご存じのマールブルグ病の発生が起こり、輸入サルによる人獣共通感染症の問題は大きくクローズアップされました。 マールブルグのベーリング研究所、フランクフルトのパウル・エールリヒ研究所、ベオグラードの血清ワクチン研究所の3カ所で、合計31名が発病し、7名が死亡(2.2%)しました。 感染源はウガンダから輸入したミドリザルでした。日本でも同じ業者から7月と8月に500頭のミドリザルを輸入していましたが、幸いこれらは感染していませんでした。 ウイルスはマールブルグ大学のルドルフ・ジーゲルト教授のグループにより分離されマールブルグウイルス(現在はフィロウイルス科に分類)と命名されました。 マールブルグ病の発生を受けて、私がまとめ役をしていた予研の実験動物委員会サル部会では、サルの検疫方式を変更しました。感染したミドリザルはすべて到着2週間以内に発病していたため、輸入後4週間は給餌、給水といった単純作業のみでサルとの接触を最低限とし、そののち、通常の9週間検疫を行うことにしたのです。 左上の写真は、当時のドイツの医学関係の新聞、左下の写真は、ベーリング研究所です。ベーリングが北里柴三郎と一緒に開発した抗毒素はウマを免疫して作っていたため、ウマの銅像がこの研究所のシンボルです。右の写真は、マールブルグ大学のジーゲルト教授です。このキャンパスの後ろにマールブルグの代表的建物であるエリザベート教会が見えています。町の中央にあったこの大学構内の建物でウイルスが分離されたのですが、当時はまだ病原体のレベル分類はありませんでした。マールブルグ病発生がきっかけとなって、病原体の分類が行われるようになったのです。 これらの写真は、霊長類センター設立のための調査の途中に立ち寄った際に写したものです。
9.ワシントン郊外のレストンで発生したエボラ出血熱のニュース(スライド図7)
1989年12月8日、WHOから予研所長あてにワシントン郊外のレストンのサル飼育施設で検疫中のカニクイザルにエボラウイルスが見いだされとの第一報が送られてきました。 それまでは危険な病原体はアフリカに存在していると考えられていたのが、フィリピンから輸入したサルがアメリカの首都にエボラウイルスを持ち込んだということで大きな衝撃を与えました。 これは当時の新聞記事の一部です。後で分かったことですが、これらのサルの一部は検疫後に日本に輸入される予定のものでしたが、その前に感染が見つかったので、日本には持ち込まれませんでした。 ところで、米国でエボラウイルス感染サルが見つかった頃、霊長類センター(TPC)では出血熱のような病気の発生が起きていました。 それについて本庄重男センター長がテキサスのサンアントニオにあるSouthwest Foundationのセイモア・カルター(Seymour Kalter)に手紙を出して意見を求めました。カルターはサルのウイルス研究の第一人者で私たちは色々と教えてもらっていたのです。 ちょうど米国では、米陸軍微生物病研究所のピータース(C.J. Peters)大佐を中心としてサルのエボラウイルス感染の対策を進めていた時であったためと考えられますが、カルターはこの手紙をピータースに転送したのです。 その結果、ピータースから本庄さんあてに突然、写真のような手紙が送られてきました。その内容は、自分たちのところのサルの間ではエボラウイルスとサル出血熱ウイルスの混合感染が起きているが、TPCで発生している出血熱様の病気は、これによく似ている。そこで、調べたいのでサンプルを送ってほしいというものでした。しかし、TPCでは米陸軍の研究所との共同研究を行うつもりはなく、また、独自にウイルス分離も進んでいたため、サンプルの提供は行いませんでした。なお、ピータースはそののち、CDCの特殊病原部長としてハンタウイルス肺症候群(シンノンブレウイルス)をはじめ、多くのエマージングウイルス対策のリーダーとして活躍しました。 カルターの写真は彼の研究所訪問の際、ピータースの写真はダブリンでのウイルス・シンポジウムで彼の発表の座長を私がつとめた際に写したものです。
10.TPCで発生したサル水痘ウイルス感染(スライド図8)
TPCで発生していた出血熱様の病気は抗ヘルペス剤が効果を示したこと、さらに原因ウイルスが分離されたことで、サル水痘ウイルス感染であったことが分かりました。 発生の経緯はまず、11月に第1棟第2室で140頭中67頭、48%が発病し13頭が死亡しました。12月14日には第3室で140頭中44頭31%が発病し、2頭が死亡しました。 ヘルペスが疑われたため、抗ヘルペス剤のBV-araUが投与された結果、投与群での死亡率は4.3%、投与されなかった群では68.4%と、抗ヘルペス剤に効果があることが分かりました。ウイルスはサル胎児の肺と腎臓細胞から分離され、人水痘ウイルスと共通抗原性を持ったサル水痘ウイルスと同定されました。 サル水痘ウイルス感染は米国のいくつかの霊長類センターで起きたことがありましたが、TPCの研究成績は室内繁殖のサルで得られたために経過がよく観察されており、しかも抗ヘルペス剤でのサルの治療は多分初めてのものでしたが、TPC Newsに掲載されただけでした。 学術誌に発表されなかったことは、大変残念なことでしたが、ともかく、米国のエボラウイルス感染をめぐるエピソードのひとつになったわけです。
11.エマージング感染症の議論を促進させたエボラ・レストンの出現(スライド図9)
レストンでサルに致死的感染を起こしたエボラウイルスは、アフリカのエボラウイルスとは異なり、人への感染は起こしたものの発病は引き起こしませんでした。しかし、この事件はエマージング感染症という言葉を普及させ、エマージング感染症対策を促進させることになりました。 その背景を振り返ると、1980年に天然痘根絶宣言が出され感染症は克服できるという楽観論が一般的となり感染症への関心が薄れてきたところへ、1981年に出現したエイズを始め、マールブルグ病、エボラ出血熱など新しい病気の出現が問題になりはじめていました。 そこへ、エボラ・レストンの発生で、国境を越えた感染症の危険性が改めて強く認識され、1992年には米国医学協議会がエマージング感染症の危険性を警告する報告書(右上写真)を発表したのです。翌年にはエマージング感染症の国際監視会議が全米科学者協会、WHO、FAO、OIE合同で開かれ、その翌年にはリアルタイムでの感染症の国際的情報交換ネットワークとしてProMed(Program for monitoring emerging infectious diseases)が発足しました。 この一連の活動の中心になり、ProMedの初代の司会者になったのはスティーブ・モース(Steve Morse)(右下写真、右側)です。彼の左に座っているのは、WHOの人獣共通感染症セクションのリーダーのフランソア・メスラン(Francois Meslin)です。このセクションは、今はほかのセクションに吸収されています。そして彼の左はMeslinの部下になったばかりのクラウス・シュテール(Klaus Stohr)です。彼はSARSと鳥インフルエンザの2つの発生ではWHOにおける対策のリーダーになっていましたので、テレビで彼の顔を見た人も多いと思います。1995年横浜の世界獣医学大会に出席した際に、和食レストランに招待した時の写真です。
12.異種移植における潜在的危険性が認識されたサル組織の利用(スライド図10)
臓器不足からサルの臓器を利用する試みはかなり昔からありましたが、1960年代になって免疫抑制剤が利用できるようになって本格的になりました。まず、ニューオーリンズのチュレイン大学のキース・リームツマ(Keith Reemtsma)がチンパンジーの腎臓の移植を11名の患者に実施し、そのうちの1名は一時職場復帰までして、最終的に9ヶ月生存する結果を得ました。これは当時、大きな反響を呼びました。 右上写真は1999年に名古屋で開かれた国際異種移植学会で写したものです。 1966年から69年にかけては、ピッツバーグ大学のトーマス・スターツル(Thomas Starzl)がヒヒの肝臓をB型肝炎患者に移植しています。人の肝臓を移植してもB型肝炎ウイルスに感染してしまうため、B型肝炎ウイルスに抵抗性のヒヒが選ばれたのです。この患者は70日後にカビの感染で死亡しましたが、これも予想以上の成果と受け止められました。 そして、1984年にはカリフォルニアのロマリンダ大学のレオナード・ベイリイ(Leonard Bailey)が、ベビー・フェイ(Baby Fae)と仮に名付けられた生後12日の赤ん坊にチンパンジーの心臓移植を行いました。20日後には死亡しましたが、この移植は全米に大きな反響を呼び起こしました。 この写真は私が「異種移植」(河出書房新社、1999)を出版した際にレオナード・ベイリイから提供してもらったものです。これら一連の移植からサルの臓器を用いた異種移植への期待が高まったのです。 しかし、1990年代、エマージング感染症の危険性が認識されるようになってから、サルの組織の移植について潜在的危険性が問題になってきました。その最初は、1995年にジェフ・ゲッティ(Jeff Getty)という名前のエイズ患者に行われたヒヒの骨髄移植でした。 彼はHIV感染により血液中のリンパ球が破壊されて免疫能力が低下していました。健康な人であれば、骨髄移植によりリンパ球の元になる幹細胞を供給することで免疫能力の回復がはかられるのですが、彼の場合には、移植された骨髄細胞はHIVに感染してしまいます。ヒヒの骨髄細胞はHIVに抵抗性があるので、これならば免疫能力の回復が期待できます。 この移植はカリフォルニア大学の倫理委員会に承認されたのですが、突然、食品医薬品局(FDA)が待ったをかけ、新薬の場合と同様の臨床試験の許可申請を行うよう求めたのです。ヒヒ由来のウイルスが人の体内で新しいウイルスを産生するという潜在的危険性があるという理由でした。 これに対して患者団体などからのはげしい抗議が起こり最終的に移植は承認されましたが、これがサルの組織の移植に対する最初の警告になりました。 その翌年、CDCが開催したバイオセーフティシンポジウムでは、異種移植のセッションが初めて設けられました。これには私も出席しました。 同じ年にFDAは異種移植での感染症の問題に関するガイドライン案を発表し、1999年にこのガイドラインが正式に採用され、そこでは、サルの組織の使用にはきびしい条件がつけられており、実質的には禁止の内容になりました。その内容は本講座101回「異種移植ガイドライン(米国食品医薬品局)」で紹介してあります。 2001年には厚生省が異種移植の実施に伴う公衆衛生上の感染症問題に関する指針を発表しました。この中に書かれているドナー動物の条件は、サルでは満たせない内容で、これも実質的禁止です。
13.経口生ポリオワクチンのエイズ起源説(スライド図11)
全世界に広がったHIV-1は、後でも述べますが、チンパンジーのウイルスSIVcpzが人に感染した結果、進化したものと考えられていますが、これの人への感染は経口生ポリオワクチンを介して起きたという、生ポリオワクチンのエイズ起源説があります。 生ポリオワクチンは1950年代にアルバート・セービン(Albert Sabin), ヒラリー・コプロフスキー(Hilary Koprowski), ヘラルド・コックス(Herald Cox)の3人が開発しており、このうち、セービンのワクチンが採用されています。ついでですが、これら3つのワクチンの品質はほとんど同じでしたが、サルでの神経毒力試験での弱毒の程度が、セービン, コプロフスキー, コックスの順であったため、セービン・ワクチンが採用されたと言われています。 生ポリオワクチンのエイズ起源説は、コプロフスキー・ワクチンを原因としたもので、写真のRiverという1999年に出版された本で詳細に述べられています。この本の内容は本講座91回「エイズの起源は生ポリオワクチン?新刊書River」で紹介しましたが、著者はエドワード・フーパー(Edward Hooper)で本文だけで900ページ近く、文献は4000以上がリストアップされている大作です。Riverという書名は、たとえば、ナイル川はヴィクトリア湖に流れ込む小さな泉に始まり、それが6000キロ以上流れて地中海にそそぐ大河になったように、エイズも同様であるということから付けられた名前と述べられています。 ところで、フーパーの説は、1957年から1960年にかけてベルギー領コンゴで行われた大規模人体接種実験に用いられたコプロフスキー・ワクチンがSIVcpzに汚染していて、それが人に感染したのがHIV—1の起源と主張しています。ワクチンの汚染源はワクチン製造の際にチンパンジーの腎臓が一部で用いられていて、それがSIVcpzに感染していたとしています。最初のHIV-1感染地域はコンゴのキンシャサと考えられており、そこはまさにコプロフスキー・ワクチン接種が行われた場所でした。なお、セービンは彼の生まれ故郷であるソ連で大規模接種実験を行っていました。 この説に対して、チンパンジーの腎臓は用いられなかったとか、いろいろな反論が出され、2004年には、コンゴでの実験担当者が徹底的な反論を学術誌(Vaccine 22, 1831, 2004)に発表しています。 コプロフスキーは20世紀の代表的なウイルス研究者で、とっくに引退したと思っていたのですが、昨年、キプロスでのEmerging zoonosis symposiumで狂犬病の研究について講演を行っていました。レセプションの際のものですが、91才とは思えないほど、元気でした(右上写真、左側)。
14.不活化ポリオワクチンに混入したSV40によるガンの可能性(スライド図12)
これは、開発者のジョナス・ソーク(Jonas Salk)の名前をとってソーク・ワクチンと呼ばれる不活化ポリオワクチンに混入していたSV40によるガンの可能性です。 不活化ポリオワクチンは初めて開発されたポリオワクチンで、ソークはまさに英雄として賞賛されました。写真は1979年にフランクフルトで開かれたスローウイルス感染シンポジウム終了後、ハイデルベルクでのレセプションで写したものです。レセプション終了後、彼とカールトン・ガイジュセック(クールーなど伝達性海綿状脳症の業績でノーベル賞受賞)を含む数名と明け方までビアホールで過ごしたことが記憶に残っています。 ソーク・ワクチンは1955年から1962年にかけて米国だけで9800万人に接種されました。ところが、1960年に不活化ワクチン製造用のアカゲザルの腎臓細胞からSV40が分離されました。この名前は40番目に分離されたSimian virusを指しています。1961年には、SV40がハムスターに腫瘍を作ることが報告されました。私が予研に入った1965年頃、腸内ウイルス部でSV40の腫瘍原性についての基礎研究が盛んに行われていました。 約1億人に接種された不活化ポリオワクチンの多くは、SV40が見つかる以前に作られており、推定10−30%のワクチンがSV40に汚染していたと考えられています。このウイルスは出生直後のヒヒ、アカゲザル、ミドリザル、ハムスターでガンを作ります。しかし、当初はガンウイルスとしての学問的興味が主体で、多くの人は、SV40は人のガンには関係ないと考えられていました。 ところが、1990年代になって、SV40のDNAが人の骨のガン、脳腫瘍、中皮腫などで見いだされて、不活化ポリオワクチンとガンの関係が問題になってきました。この経緯については、本講座第50回「SV40と人の癌の関連が再燃」で紹介してあります。 これに対して、2004年には米国国立ガン研究所(NCI)が、SV40抗体とリンパ腫の間に相関はみられなかったことを報告しました。2005年には、SV40の腫瘍抗原であるT抗原に対する抗体とリンパ腫の間にも相関はないとの報告が発表されました。ただし、調査された例数は少ないとの批判があります。中皮腫はアスベストで起きることが問題になっていますが、2005年にはアスベストによる中皮腫にSV40がかかわっている証拠はないと報告されています。結局、現在までのところ、SV40がガンに関係している証拠は見つかっていません。
15.20世紀にヒトウイルスに進化したHIV(スライド図13)
人獣共通感染症は特殊なものと一般に受け止められていますが、元々、人間は地球上に最後に出現したほ乳類であって、人のウイルスも元はすべて動物のウイルスが、数万年の歴史の中で人のウイルスに進化したものと考えられます。 ところが、20世紀になってサルから人のウイルスに進化したものとして、HIVがあります。これにはHIV-1とHIV-2があって、HIV-1が全世界に広がったものです。HIV-1はチンパンジーのウイルスSIVcpzが人に感染した結果、ヒトウイルスに進化したと推定されていました。コンゴのキンシャサ(当時はレオポルドビル)、そこの人の1959年のリンパ組織サンプルのひとつから分離されたウイルス遺伝子がもっとも古いもので、その遺伝子構造の変異から、人への感染が起きたのは1930年頃と推定されていました。 ところが、最近新たにキンシャサの1960年のサンプルからウイルス遺伝子が分離されました。1959年のサンプルと今回のサンプルから分離されたウイルス遺伝子は、同じ1頭のチンパンジー由来と考えられました。そして、この2つのウイルス遺伝子の間に見られた変異が生じるには40年以上必要と推定されたことから、HIV-1は1908年頃に、キンシャサで人へ感染したという見解が、今年の10月にNatureのonline版に発表されました。 一方、HIV-2はスーティマンガベイのウイルスSIVsm が人に感染したものと考えられています。感染の時期は1940年代で、場所はギニアビサウと推定されています。HIV-2の流行が始まったのは、1963年から74年にかけてのギニアビサウのポルトガルからの独立戦争の時期に一致しています。また、ヨーロッパでの最初の患者は、この独立戦争に参加した兵士でした。
16.ヒトウイルスへの進化の可能性が警告されているサルのウイルス(スライド図14)
これはサルフォーミイウイルスです。サルでは病気を起こしていないと考えられています。米国のジョンス・ホプキンス大学のネイサン・ウルフ(Nathan Wolfe)たちが中央アフリカのカメルーンの9つの地域で村の人たちの血液について、サルフォーミイウイルスの抗体を調査したところ、1800名中1099名がサルの血液や体液に接触した経験があり、そのうち10名、1%の人が抗体陽性だったのです。感染していたウイルスは3つの系列、グエノン、マンドリル、ゴリラ由来のものでした。 これまでサルフォーミイウイルスが人に病気を起こした報告はありませんし、今回抗体陽性の人でも病気は起きていません。しかし、このような感染が続くと、そのうちに人から人に感染する新種ウイルスの出現の可能性があると警告しています。 サルから人へのウイルスの主な感染経路はブッシュ・ミートと考えられています。ブッシュ・ミートは蛋白源としての野生動物の肉で、その中にサルが多く含まれています。サルの解体の際に血液や体液に接触することなどで感染が起こると考えられているのです。2003年におけるコンゴ盆地でのブッシュ・ミートの消費量は100−500万トンとも言われ、種の保存に加えて、公衆衛生上の大きな問題とみなされています。
おわりに
以上、サル由来ヒトウイルス感染症には、現実的な危険性から潜在的危険性まで、さまざまな側面があり、現在も進行形であることをお分かりいただければ幸いです。