(2/26/96)
すでに本講座12、18、20で述べましたが、Tg動物の利用が医薬品製造のための動物工場と異種移植ドナーの両面で進んできています。
開発研究の進展とともに、Tg動物由来の病原体による汚染が重要な問題として検討されています。 安全評価の面で動物工場と異種移植用ドナーはかなり異なっていますので、別々に問題点を取り上げてみたいと思います。
1. 動物工場
羊、山羊、豚、牛が主な種類ですが、このうち現在、もっとも進んでいるのは羊と山羊を生産工場とするものです。 羊ではPPL Therapeuticsによるアルファー1アンチトリプシン、山羊ではGenzyme TransgenicsによるアンチトロンビンIIIが、いずれも今年中に臨床試験に入る予定で準備が進んでいます。
すでに本講座20回でご紹介しましたように米国食品医薬品局FDAが留意点(Points to Consider)を出しており、医薬品としての受け入れのために規則が整ってきており、安全確認もこの留意点にしたがって行うことになります。
今年の1月に訪米した際にボストン郊外にあるGenzyme Transgenicsの生産農場とPPL Therapeuticsの研究所を訪ねました。 後者の方の生産農場はスコットランドにあり、生産に関する種々の検討はそちらで行っております。 そこで前者の方で得た情報を中心に現状の紹介を試みることにします。
羊、山羊のウイルスとして検討対象に取り上げられているのは以下のとおりです。
エンベロープウイルス:
狂犬病、コロナ、猫ヘルペス、オーエスキー病、山羊 動脈脳炎
非エンベロープウイルス:
ブルータング、ロタ、アデノ、羊痘、伝染性湿疹(?)
これらのウイルスのうち、狂犬病については米国農務省の勧告でワクチン接種が行われています。 本講座でも以前に触れたように米国ではアライグマ、コヨーテなど野生動物の狂犬病が存在していますので、それに対する対策と思われます。
山羊動脈脳炎ウイルスはエイズの原因である人免疫不全ウイルスと同じレンチウイルス群のもので、エイズのモデルとしての研究も行われているものです。 Tg山羊はこのウイルス汚染の無い農場由来のものだそうです。
農場の山羊についての定期検査としては、結核、ブルセラ、Q熱、ヨーネ病、山羊動脈脳炎ウイルスについて抗体検査が実施されています。
もっとも問題になっているのはスクレイピーです。 これは本講座26回で述べたように、人の神経難病であるクロイツフェルト・ヤコブ病との関連で古くから問題になっており、最近では牛海綿状脳症の原因としても大きな問題になっています。 もともと、スクレイピーは羊と山羊の病気です。しかもこの存在の否定をするための方法はまだ出来ていません。 Tg動物で生産した医薬品がスクレイピーに汚染していないことを保証するためには次のように色々な面からの対策が取られています。
Tg動物としての山羊はスクレイピーの汚染の無いニュージーランドから導入したものが用いられています。 スコットランドにあるPPL Therapeuticsも同様にニュージーランドから羊を導入しています。
米国ではスクレイピー非汚染証明プログラムが農務省で作られています。 Genzyme Transgenicsの場合にはマサチューセッツ州のプログラムにしたがって非汚染が証明されています。 このプログラムでは2年間発生のない場合にクラスC、ついで2年間発生がなければクラスB、さらに1年間発生がなければスクレイピー非汚染証明が出されます。 この間、定められた書式での定期的報告、定期的および抜きうち査察などが行われます。 米国でこの証明が出されているのは今のところGenzyme Transgenicsの山羊だけだそうです。
もうひとつがスパイキング・テストによるプロセス・バリデーションです。 スパイキング・テストについては本講座20回でも簡単に述べてあります。 通常は指示ウイルスとしてエンベロープウイルス、非エンベロープウイルスの代表的なものを各精製工程で添加して、除去効率を求め、全工程での除去効率を計算するものですが、スクレイピーの場合、ウイルスのように細胞培養などで定量することは出来ません。 検出方法はマウスに脳内接種して死亡の有無で判定するものです。 しかも高い濃度で200日位の潜伏期、濃度が低くなると1年以上の潜伏期になります。 今回の訪米ではプロセス・バリデーションの世界的中心になっているマイクロバイオロジカル・アソシエーツMicrobiological Associates社で、この方法について詳しく説明してもらいました。 このことは同行された吉川泰弘先生が霊長類フォーラムの米国訪問記の中でも書いておられています。 何段階もの希釈材料を数匹ずつのマウスに接種するため、ひとつの試験に400ないし500匹のマウスを用い、15か月観察することになっているそうです。
2. 異種移植用ドナー
人補体制御遺伝子を導入したTg豚が英国Immutran、米国Nextranで作られています。 1994年にImmutranのホワイト博士が日本に来られた時にサルでの心臓移植実験の計画を詳しく話していかれましたが、すでにこの試験は始まっているようです。
一方、ヒヒを異種移植ドナーに用いる試みも行われています。 これはTg動物ではありませんが、安全性の面では、大きな議論を引き起こしていますので、これも取り上げることにします。
異種移植での安全性評価は1月28日からCDC主催で開かれたバイオセーフテイ・シンポジウムでの重要な話題でした。 異種移植xenotransplantationによるzoonosis人獣共通感染症は、これまで我々が経験しているものと非常に異なる面があるとして、xenosisゼノーシスとも呼ばれています。 直接的なゾーノーシスという点を強調したものですが、和訳はどうしたらよいでしょうか。
このシンポジウムでの発表内容はいずれ印刷される予定ですが、大分先になりますので、私のメモからまとめてみます。 抄録がなかったので、不完全なものですが、大体の内容をご理解いただければ幸いです。
1) 豚からのゼノーシス xenosis
このことについてジェイ・フィッシュマンJay Fishman博士(マサチューセッツ病院の医師)は次のように問題点を整理されました。
- まず社会に新しい病原体が拡がる危険性を最小限にすることが必要である。
- ゼノーシスはレシピエントだけでなく移植された臓器に対してレシピエント側の病原体の感染の面も考慮する。
- ゼノーシスによる新しい感染症での症状については未知の面が多い。留意点としては細菌および真菌の新しい培養法の開発が必要である。 ウイルスについては免疫不全の宿主での病原性がとくに問題になる。 この面ではレトロウイルスと同様にヘルペスウイルスが重要である。
- ブタ・レトロウイルスの危険性は良く分かっていない。 1974年に豚腎継代細胞からみつかったレトロウイルスと1980年代に家畜衛生試験場で分離された筑波1株がある。 後者は猪でリンパ腫を起こすことが報告されている。 このウイルスについては遺伝子解析が進行中である。
- Tg豚に導入されている補体制御蛋白遺伝子はDecay Accelerating Factor (DAF)と膜制御蛋白(MCP)の遺伝子であるが、DAFはコクサキーウイルスのレセプター、MCPは麻疹ウイルスのレセプターである。 したがって、Tg豚はこれらのウイルスに感受性になってはいないか。
- 一方、豚の組織には人のウイルスたとえば肝炎ウイルスのレセプターが存在しないこと、通常の人ウイルスの増殖を支える細胞工場は存在しないといった利点がある。
- 豚と人の間では食糧、食肉業者や農民、豚由来の製品(インスリン、凝固因子など)といった面で長い相互関係が存在する。
- 膵臓細胞の移植が行われたことがあるが、重要な感染症は起きていない。
- ミニ豚の育成では多くの感染症が除去されている。ノトバイオートや無菌豚もあるが、これらは高価であり、また成長が悪い。 SPF豚ではバリアー(ガウン、手袋、マスク)が必要である。
- 豚で知られている病原体としては、狂犬病、結核、トキソプラズマ、サルモネラ、ブタ・サイトメガロウイルス、アデノウイルス、パルボウイルス、ロタウイルス、マイコプラズマなどがある。
2) 異種移植の公衆衛生上の問題
ルイザ・チャップマンLouisa Chapman(CDCレトロウイルス病部門、疫学室長)は異種移植の危険性について公衆衛生の観点から問題提起を行いました。 かなり徹底的な問題の掘り起こしのようにも思えますが、やはりそれだけ重要な面があると思いますので、彼女の意見を以下に整理してみます。
- 異種動物からの感染はレシピエントに危険をもたらすか。 とくに自然宿主でない人を通過することにより病原性が変化することはないか。
- エボラやコンゴ・クリミア出血熱の患者が入院した場合のように、公共の衛生に脅威をもたらすことはないか。
- 最初に病原性があまりはっきりしない場合は公衆衛生上、むしろ問題になるおそれがある。 たとえば人免疫不全ウイルスが広範囲に拡がったように。
- 豚は安全なドナーか。 C型レトロウイルスの性状の解明は不十分。 豚の寿命が短いことは長い潜伏期の病原体による発症をみつける機会が少なくなる。 レコンビネーションによる感染性ウイルスの出現の可能性はないか。
- 公衆衛生への脅威をどのように減少させることができるか。
- 移植外科医、感染症専門医、獣医、疫学者、ウイルス研究者、微生物研究者など専門家による研究チームが必要。
- 動物種別の前臨床試験で免疫抑制を行って内在性レトロウイルスを検出する。
- 異種動物由来の感染がレシピエントで起きていないか確認するための検査はどうしたらよいか。 急性感染の有無を調べるだけでよいか。 さらに一生、臨床的に追跡する必要はないか。
- 医療従事者、介護者についての調査は労働衛生プログラムの対象となる。 移植前後で動物組織を取り扱う者の危険性の評価も考慮するべきか。
- 記録の保存。 国としての組織的な保存システムが必要。
最後に彼女が言った言葉は「1オンスの予防は1ポンドの治療に価する」です。
3) ヒヒからの移植に伴う危険性
テキサス、サンアントニオのサウスウエスト財団のバイオメデイカル研究所 Southwest Foundation for Biomedical Research (SWBR)のジョナサン・アラン Jonathan Allanがこの問題について発表しました。 ここは米国最大(したがって世界最大)のヒヒ飼育施設です。 Bウイルス研究で有名なセイモア・カルター Seymour Kalter博士がウイルス部長の頃には霊長類センターと密接な協力関係がありました。 私も3回訪問したことがあります。 しかし定年でカルター博士は辞めて別のウイルス検査施設Virus Reference Laboratoryを設立されています。
ここにはヒヒは3,000頭以上飼育されています。 以前にピッツバーグ大学で行われた肝臓移植、最近のサンフランシスコでのエイズ患者への骨髄移植では、ここのヒヒが使用されました。
彼はヒヒからの移植を科学、危険性、資源の3つの観点から以下のような話をしました。
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異種移植について、人獣共通感染症の立場からだけで、これだけ問題が提起されるとは思っていなかったので、かなり驚きました。 しかし、シンポジウムの雰囲気は異種移植を受け入れる前提に立ちながら、バイオセーフテイの面を徹底的に検討しようというものでした。
また、異種移植とくにヒヒからの場合についてはサンフランシスコでヒヒの骨髄細胞を移植されたエイズ患者ジェフ・ゲッテイJeff Gettyの経過が大きな影響を与えるだろうという雰囲気でした。 最近、この移植が失敗したということが報道されていますので、今後はどういう風になるのでしょうか。
3. Tg動物の産業利用での規制
動物工場については前述のようにFDAから留意点が出されています。 一方、異種移植用についてはまだガイドラインはできていません。 サイエンス2月2日号にガイドライン作成のための最後のハードルを越えたという見出しの記事が出ていました。 それによればFDA の細胞および遺伝子治療部門の部長の話として最後のレビューの段階で今月中にはFederal Registerにのる可能性があるとのことです。 しかし慎重意見もかなりあるとの解説がつけられています。
Tg動物で、非常に現実的な問題として動物の処理があります。 これらの動物のほとんどが食用動物です。 とくにTg動物作成では、マウスでの経験のある方なら良く知っておられるように、出来てくるTg動物はごくわずかで、大半は遺伝子が導入されていないものです。 このような動物の処理についてはすでに米国農務省はガイドラインを出しており、遺伝子の導入に失敗した動物は市場に出してよいとなっています。 すなわち食用にまわせるわけです。 このようになったいきさつ、非トランスジェニック動物とする条件などは1994年4月にカリフォルニア大学デービス校で開かれた動物バイオテクノロジー・ワークショップで詳しく紹介されていますが、長くなるのでここでは省略します。 遺伝子が導入されたTg動物については、現在ガイドラインを検討中だそうです。