(5/20/96)
牛海綿状脳症 (BSE) のニュースはほとんど毎日なんらかの形で私達の耳に入ってきます。 そこで私がいつも気になるのは、牛海綿状脳症という名前はまず出てこないことです。 もはや狂牛病の名前が日本国内に完全に定着してしまいましたので、今更どうにもしょうはないでしょうが、これまで、BSEの問題を検討してきた私にとって、非常に複雑な気持がぬぐえません。 私なりに狂牛病の名前について考えてみました。
衆知のように狂牛病の名前は英国の農民がつけた mad cow diseases が日本語に訳されたものです。
この俗称が日本ではマスコミに限らず、研究社会でもすっかり行き渡ってしまった背景には多分、狂犬病の名前に慣れ親しんでいたことと、狂牛病の名前が醸し出す不気味さなどがかかわっているものと思います。
BSEにかかった牛は初期の頃は音に敏感になったり不安な状態を示すようになります。 けいれんが見られることもあります。 そのうちに音や接触に過敏になり、起立した時には本来は揃っているはずの後肢が開いてしまい、歩くときにはふらつくようになります。 これらは運動失調の症状です。 すなわち行動異常と運動失調が特徴的といえます。 病気の末期になると、攻撃的になり、興奮状態になります。運動失調も進み、転びやすくなり、起立不能になります。 これらの末期の症状はテレビで繰り返し放映されているものです。 このような末期症状から mad cow disease の名前が付けられたわけです。
ところで、これらの牛は果たして狂っているのでしょうか。 狂っているということは精神状態についての表現ですが、動物の場合の精神状態をどのようにしたら調べられるのでしょうか。 上に述べた症状は神経細胞内に空胞がたまり、その結果、神経細胞が破壊された結果、現われた神経症状です。 医学的に狂っているという証拠はどこにもなく、また、牛の場合に狂っているかどうか調べることも不可能なはずです。
狂犬病でも同じではないかということになりますが、明治時代に付けられ、学術用語として長年認められ、行政でも定着しているものと一緒に論じることはできません。
私の親しい英国人の友人でBSE研究の中心の研究所に所属しているウイルス研究者と、この問題を議論してみましたが、英語のmadは狂っているという意味も確かにあるが、一般にはcrazyとか荒々しいといった意味で、本当に狂っている場合にはinsane、saneが正気ですから、正気でないという言葉になるはずだという意見でした。 自分達が愛情をこめて育てた牛が病気になって、当惑している農民の気持が反映している言葉とみなすのが妥当と思います。
英国ではBBC放送はBSEと呼び、mad cow diseaseとは呼んでいないそうです。 新聞も、タブロイド版など大衆紙は mad cow disease の言葉を使っているが、しっかりした新聞はすべてBSEだそうです。 アメリカではどうでしょうか。 ご存じの方はお教えください。
当然のことですが、日本も含めて世界各国の政府機関、WHOなど国際機関もすべて正式発表ではBSEの言葉しか使っていません。
我が国ではテレビ、新聞、週刊誌のほとんどすべてが狂牛病で、最初の頃は牛海綿状脳症の表現も耳にしたり目に入ることがありましたが、今では狂牛病だけになってしまいました。 狂牛という言葉も目にするようになりました。 毎朝のようにNHKテレビで狂牛病という言葉を耳にすると複雑な気持になります。
先日、オランダで発生した猫での麻痺に対しても、英語で paralyzed cat となっていたのが、週刊誌などでは、ついに狂猫病になってしまいました。 BSEと同じプリオン病であるクロイツフェルト.ヤコブ病の患者を狂っているといったら、大変な問題になることは間違いありません。 人間なら大変な差別用語になるものでも、家畜なら簡単に受け入れられたのはなぜなのでしょうか。
しかも、この病気を牛に発生させたのは人間です。 本講座第39回に書きましたように、BSEの発生の背景は羊や牛のくず肉をレンダリングで肉骨粉としたものを飼料に加えたことから起きたものです。 本来、草食動物である牛に粉末とはいえ羊や牛の肉を食べさせたことが原因です。 欧米では、このことに対して草食動物を肉食動物に変え、しかも共食いまでさせたという強い批判も多く行われています。 すなわち極端な言い方をすれば、加害者である人間が、人間なら差別用語になる病名を抵抗なしに受け入れているのです。 日本人は加害者ではないという意見もあるでしょうが、肉骨粉の使用は前回の講座で触れたように日本でも行われており、病気が起こらなかったのは単に幸運であっただけです。 名前を付けたのは英国人だという反論もあるでしょう。 しかし、mad cow diseaseのニュアンスは前に述べたように狂牛病とはかなり違うものです。 あまり言葉にこだわるなという意見も当然あるかと思います。 しかし、世界中で恐らくもっとも差別用語に敏感な日本で、BSEに関してだけは、欧米よりも強いニュアンスの用語が広まってしまったのは事実です。 といっても mad cow disease の日本訳といわれれば、私も狂牛病しか思い浮かびません。
あっという間に完全に定着してしまった、この名前が俗称として一般的に使われるのはやむを得ないでしょう。 しかし、興味本位で狂牛という言葉にまで広げるのは止めてほしいと思います。 牛が狂っている証拠はまったくないのです。
一方、研究領域では、当然、牛海綿状脳症の名前を使うべきです。 しかし、最近では狂牛病が正式名称と混同されている例が私の周辺でもかなりいくつか認められています。
しかし、正式名称がマスコミで無視されてしまった現状では、研究領域と一般社会のコミュニケーションが必要な場合には、狂牛病の名前を併用しなければならなくなってしまいました。 今度、日本獣医学会で開催する緊急シンポジウム(5月29日、東大安田講堂)のタイトルを、プリオン病の現状 —狂牛病の理解のために— としたはその1例です。
今まで述べてきたことは動物福祉の観点からの問題にもつながると思います。 実験動物に関係の深い本講座の読者にもお考えいただき、ご意見を聞かせていただくことを願っております。
なお、本講座が最近、いくつかのホームページを通じて多くの方にお読みいただいているようですので、本講座のことについて、触れておきます。
人獣共通感染症はニフテイ・サーブの霊長類フォーラムの中の談話室のひとつに、話題提供のために昨年4月から始めたものです。 それを私自身かって所属していた国立大学動物実験施設協議会のネットに転送し、さらに徳島大学動物実験施設からのご要望で、そちらのホームページにも転載されているものです。
霊長類フォーラムへのアクセスはニフテイ・サーブでgo primateです。 本講座以外にもいろいろな話題が提供されています。
山内一也 yamanok@disc.dna.affrc.go.jp
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