人獣共通感染症連続講座 第83回 ベルリンでのエボラ出血熱騒ぎ

(9/5/99)

約1ヶ月前にベルリンでアフリカ帰りの40才のカメラマンがエボラ出血熱の疑いで隔離されました。 このニュースは日本ではどこかのテレビ局では短いニュースになったようですが、私が見た限りでは新聞にはとりあげられていませんでした。 前回の本講座で触れた国際ウイルス学会での8月12日のフィロウイルスのワークショップで、実際にこの患者の診断にたずさわった人がCDCのブライアン・マーヒーに依頼されて、緊急報告の形で経緯を発表しました。 予告なしの発表で名前も所属も分かりませんでした。 この患者は結局、黄熱だったのですが、それが判明したのは8月6日です。 したがってその6日後というホットな内容でした。

約10分間という限られた時間に確定診断までの1週間についてオーバーヘッドプロジェクターを使って行われた説明であったため、聞き落とした点もありますが、その際のメモから経緯をご紹介します。 なお、その後ランセットの8月14日号 (Vol.354, p.578)にもこのケースについてのニュースが掲載されています。

患者はフリーランサーのカメラマンで、ドイツ・ビュルツブルグ大学の野生動物の生態研究者の写真撮影のために2週間コートジボアールのアビジャンを訪れました。 ここは1994年にチンパンジーからスイス人女性の生態研究者がエボラウイルスに感染したところです。 この出来事については本講座第4回(エマージングウイルス:チンパンジーでの発生でエボラの起源探しがヒートアップ)を参照してください。

帰国の途中で高熱の症状を呈し、チューリッヒ経由でフランクフルトに到着、入院し2日後の8月1日(日曜日)にヘリコプターでベルリンのウイルヒョウ・クリニックの高度隔離病棟に移されました。 この病院に入院していたほかの40人の患者はほかの病院に移され、病院の外にはドイツ軍の生物兵器部隊が、患者をほかに輸送しなければならない事態に備えて移動隔離施設を設置する騒ぎになりました。

この患者は8月6日に死亡しました。 この患者と一緒に旅行した男性は症状はなかったのですが、検疫施設に収容されました。

入院の翌日8月2日(月曜日)に血液がハンブルグのベルンハルト・ノホトBernhard Nocht熱帯医学研究所に送られ、火曜日に出血熱ウイルス(ラッサ、マールブルグ、エボラなど)の検査が間接蛍光抗体法で行われましたが陰性でした。 また材料のVero 細胞への接種も行われました。 水曜日にはPCRで出血熱ウイルスの核酸の検出が試みられましたが、これも陰性でした。 木曜日には患者の材料を接種したVero 細胞がマールブルグ大学とパスツール研究所で黄熱ウイルスに対する抗体と反応することが明らかになり、金曜日に黄熱の診断が確定しました。

出血熱の症状の場合に黄熱が当然疑われるのですが、この患者は医師に黄熱ワクチンの接種を受けていると告げていたことから、当初黄熱ではなくエボラが疑われたのです。 結局、この患者が黄熱ワクチンの接種を受けていた証拠はみつかりませんでした。

ドイツでは1997年にも同様の事態が起きたことがあります。 9月に37才のガーナ人がガーナへの旅行から帰ってまもなく出血熱となり、ハンブルグのベルンハルト・ノホト熱帯医学研究所で検査した結果、ELISA(酵素結合抗体免疫吸着アッセイ)でラッサウイルスに対するIgM抗体が陽性と判定されました。 IgM抗体は感染後数週間だけ出現し、その後はIgG抗体だけが持続します。 したがってIgM抗体が検出されたことは最近、感染した証拠とみなされます。 PCRによるラッサウイルスの遺伝子検出の成績は、はっきりしなかったのですが、ELISAの成績からラッサ熱と診断され、密接な接触のあった人約120人が監視下に置かれました。 この患者がマインツの病院で死亡した後、ハンブルグの研究所で検査をふたたび行った結果、ラッサ熱をはじめエボラ出血熱などの感染症ではなかったことが明らかになりました。

このケースは試験結果が不十分であったために誤った警告になったものとして、ProMEDでも紹介されました。 今回のエボラ騒ぎはランセットで「ヨーロッパでのエボラ発生の疑いは間違った警告」というタイトルのニュースになりました。

日本では1987年に東大医科研の病院でラッサ熱患者が見つかったことがあります。 この際のいきさつは私の著書「エマージングウイルスの世紀」に詳しく述べてあります。 今度のドイツでの事態は世界中どこでも起きる可能性があり、日本も例外ではありません。