(4/19/00)
口蹄疫が宮崎県で発生し大きな問題になっています。92年ぶりだそうです。病原体の口蹄疫ウイルスは最初に発見されたウイルスで、1898年にドイツでレフラーとフロッシュにより、その存在が証明されたものです。その経緯については私の著書「エマージングウイルスの世紀」p. 18と本講座(第58回)で触れています。
口蹄疫ウイルスは古い論文ではヒトに感染したことが報告されていますが、私は人獣共通感染症とみなす必要はないと考えています。そのため、今回の口蹄疫の発生を本講座で取り上げるつもりはありませんでした。しかし、よく考えてみるとこれはエマージングウイルス感染の典型的なものです。マレーシアでのニパウイルス感染では100万頭近いブタが、1997年に台湾で発生した口蹄疫では385万頭のブタが殺処分されましたが、前者がヒトの健康被害、後者は畜産への被害という観点で異なるだけです。エマージング感染症での危機管理という面から眺めると本質的には同じと考えられます。そこで本講座でも危機管理の観点から宮崎県での口蹄疫を取り上げることにした次第です。
1.口蹄疫対策の国際的枠組み
ヒトの感染症予防・制圧のための国際機関は世界保健機関WHOです。家畜伝染病の分野でWHOの役割を果たしているのは国際獣疫事務局OIE (Office International des Epizooties)です。別名Animal WHOとも呼ばれています。これには世界155カ国が加盟しており、日本代表は農水省畜産局衛生課長です。私は10年間ほど、OIEで学術顧問と動物バイオテクノロジー作業部会の委員をつとめています。OIEは国際的な家畜の貿易の際に監視が必要な家畜伝染病をリストA, Bとふたつに列記しています。リストAは危険性の高いもので、その中でも口蹄疫と牛疫がトップクラスです。リストBには日本脳炎などが含まれています。
口蹄疫の診断はOIEが作成している診断法とワクチンのための基準マニュアルManual of Standards for Diagnostic Tests and Vaccinesに準じて行われます。国際的に共通の基準で診断が行われるわけです。OIEが指定した世界口蹄疫レファレンス・センターは英国家畜衛生研究所Institute for Animal Health(IAH)パーブライト支所の中に設置されています。ここはロンドンのヒースロー空港から車で40分くらいの所にあり、近くにはアスコット競馬場もあるロンドン郊外の最高級住宅地のはずれです。センター長はポール・キッチンPaul Kitchingがつとめています。ついでですが、私は10年あまりパーブライト支所で牛疫ウイルスについて共同研究を行っており、ポール・キッチンは動物実験のライセンス保持者として協力してくれています。(英国は動物福祉の観点から動物実験を行うにはライセンスが必要ですので)。
口蹄疫は全世界に存在しています。OIEが清浄国と認めているのは日本や欧米など39カ国に過ぎません。とくに現在大きな問題になっているのはアセアン諸国で、OIE、国連食糧農業機関FAOと国際原子力機関が共同で南アジア口蹄疫キャンペーンを開始しています。(国際原子力機関が加わっているのは意外かもしれませんが、ここは口蹄疫や牛疫の診断のためのELISAキット作製の面でFAOに協力しています)。これにはOIEのアジア・太平洋地域を担当する東京事務所の代表である小沢義博先生が中心的役割を果たしておられます。
2.宮崎での発生の経緯
農水省のプレスレリーズが家畜衛生試験場(家衛試)ホームページ(http://ss.niah.affrc.go.jp/)に転載されており、リアルタイムに情報が提供されています。また、その英文のまとめに相当するものを家衛試の佐藤国雄研究技術情報官がProMedに投稿されています。それらのニュースにもとづいて整理してみます。
最初の発生例:3月8日に飼育中の肉用牛10頭のうち、2頭に発熱が見つかっています。これが発症時期と推測されます。12日に獣医師に診察してもらい抗生物質などが投与されましたが、ほかのウシでも発症するものが出てきたために21日に獣医師が家畜衛生保健所に届け出ました。
血液と皮膚の病変部のサンプルが22日に家衛試に送られ、25日にELISAで口蹄疫抗体陽性、またもっとも遅く19日に発症したウシの皮膚のサンプルでPCR陽性の結果が得られました。そこで、疑似患畜として10頭すべてが殺処分されました。
第2の例:家衛試での血清サーベイランスで見いだされたものです。4月1日に肉用牛9頭を飼育している農場の牛1頭が抗体陽性と判明し、あらためて血清検査を行ったところ9頭中6頭に抗体が検出されました。これも疑似患畜として4月4日にすべて殺処分されています。なお、3月28日の立ち入り検査の際、これらの牛では臨床症状は見られていません。
第3の例:同じく血清サーベイランスで見いだされたものです。肉用牛16頭を飼育している農場で3月29日に採取した2頭の血清が抗体陽性と判明したため、あらためて10頭の血清について検査を行った結果、4月9日に10頭すべてが抗体陽性と診断されました。その結果、疑似患畜として16頭すべてが殺処分されました。
4月14日に家衛試の海外病研究部の特殊実験棟で、このウシの喉の粘膜サンプルから初代ウシ腎細胞培養でウイルスが分離され、ELISAとPCRで口蹄疫ウイルスと同定されました。
ところで、抗体陽性のウシは疑似患畜となっていますが、清浄国で、信頼しうるELISAで抗体が見つかれば疑似ではなく真性とみなせるものと思います。OIEの基準マニュアルでは口蹄疫の診断はウイルス抗原の検出で行うとなっていますが、清浄地域でワクチンを用いていない場所では抗体の検出でも診断可能という趣旨が述べられています。
3.原因ウイルス
口蹄疫ウイルスはエンベロープを持たない小型のRNAウイルスです。エンベロープの代わりにウイルス粒子の外側にはカプシドと呼ばれる殻があり、その主要な蛋白はVP-1です。これは非常に変異を起こしやすい性質のもので、IAHではVP-1の配列にもとずいて口蹄疫ウイルスの系統樹を作っています。第1例の口蹄疫ウイルスVP-1のPCR産物の配列は家衛試で解析され、さらにIAHで調べられた結果、アジアで流行しているO型ウイルスではあるが、新しいサブタイプのものとして、O/Miyazaki/JAP/2000株という仮称が提案されました。
1997年の台湾での発生はブタに親和性のある口蹄疫ウイルスとみなされています。症状が見られたのはブタと水牛です。一方、1999年6月に台湾の金門島では乳牛で症状がみられており、1997年のウイルスとは別のウシ親和性のものと推測されています。ただし、同じウシでも在来種の黄牛では症状はみられません。韓国で現在発生しているものは乳牛で症状が見られています。
宮崎の発生では肉用牛である和牛が感染したわけですが、病変は軽度であって教科書に出ている口蹄疫に特徴的とされる水疱はほとんど見つかっていません。
4.ワクチン
口蹄疫の予防には不活化ワクチンが用いられています。中国は生ワクチンを開発していますが安全性に疑問があります。OIEでは生ワクチンは認めていません。ヨーロッパではフランスのリヨンにあるメリューと英国のウエルカムが不活化ワクチンを製造しています。ウエルカムの製造施設はIAHの建物を間借りしたものです。すなわち同じ敷地内に民間の口蹄疫ワクチン製造施設とOIE世界口蹄疫レファレンス・センターが存在していることになります。日本は非常用にヨーロッパからワクチンを輸入して備蓄しています。
ウイルス感染の場合、有効なワクチンがあれば流行を阻止するためにはそれを使用するのが常識ですが、口蹄疫の場合には簡単にはあてはまりません。OIEが口蹄疫清浄国とみなす条件としてワクチンを使用していない国で病気が発生していないこととなっています。口蹄疫の監視は抗体調査に依存しています。もしもワクチン接種したウシがいると、感染による抗体か、ワクチンによる抗体か、区別ができなくなります。発生が疑われる場合でも、これはワクチンによる抗体だと言い逃れされることにもなります。
今回のような限局した発生であればワクチンを使用せずに、発生のあった農場の動物をすべて殺処分することが清浄国の立場を保つのに必要なわけです。もしも発生地域の周辺でワクチン接種を行ったとすると、ワクチンを接種されたウシがすべていなくなったのち、3ヶ月間病気の発生がないことという条件になります。一度ワクチンを使用すると、清浄国にもどるには大変な手間と期間が必要となります。有効なワクチンがあっても、畜産の保護という観点からワクチンの使用は簡単には実施できません。
しかし、流行が広がればワクチンを使用しなければならない事態になります。宮崎とほぼ同じ頃に韓国でも口蹄疫が66年ぶりに発生し、かなり広がっているようです。4月14日付けのAP電によれば、韓国ではこれまでに900頭のウシとブタを殺処分し、20万頭にワクチン接種を行ったとのことです。さらに国中の偶蹄類1100万頭すべてにワクチン接種を行う計画と伝えられています。
5.診断体制
口蹄疫の最大の発生地域に日本は囲まれています。そして、口蹄疫ウイルスは物理的処置に非常に抵抗性が強いウイルスです。藁に付着した口蹄疫ウイルスは夏では4週間、冬では9週間生存するといわれています。家畜の飼料や敷き藁として輸入される稲藁や麦藁に付着して入ってくる可能性もあるわけです。台湾や中国との人や物の往来を考えれば、これまで日本に口蹄疫が入ってこなかったのは、むしろ幸運だったのかもしれません。今回と同様のことはこれからも起こりうるものと考えるべきです。
今回は家衛試での抗体検査とPCRで迅速診断ができました。抗体検査も順調に進んでいるようで、すでに3万以上のサンプルで抗体陰性が確かめられています。しかし、背景を見ると充分な検査体制ができていたとは思えません。
口蹄疫ウイルスはもっとも危険な家畜伝染病病原体として最高度の隔離のもとで取り扱わなければなりません。そのために特殊実験棟が海外病研究部に建築され、その使用のための安全管理規定は1988年に作られました。私もその検討委員として参加しました。しかし、肝心の口蹄疫ウイルスの輸入は農水省から許可されず、現在にいたっています。
ウイルスがだめでもウイルスの遺伝子を用いた診断の方法もあります。現実に感染症研究所ではレベル4実験室が使用できないためにマールブルグウイルス、エボラウイルス、ラッサウイルス、Bウイルスなどは遺伝子の面での診断と、不活化抗原を用いたELISAなどの検査体制を作ってきています。 ところが、口蹄疫ウイルスについては、遺伝子の輸入も認められませんでした。わずかに認められたのは、輸入後に期限が切れた不活化ワクチンを診断用抗原として使用することと、ウイルス遺伝子の一部配列の合成核酸を作ることだけでした。建物ができても研究はまったく行えなかったわけです。
実は、私も口蹄疫ウイルスの遺伝子の一部を輸入しようとして10年ほど前に農水省に申請したことがあります。この経緯は私の著書「エマージングウイルスの世紀」p. 282にも書きましたが、ウイルス全体の遺伝子の20分の1くらいのサイズに過ぎない430塩基対の遺伝子断片で、感染性にはまったく関係のない部分です。具体的にはIRES (internal ribosome entry site)といって、蛋白を合成する際に必要な部分です。しかし、これも許可されませんでした。米国ではプラムアイランドに農務省の海外病研究所があります。(この研究所のことは本講座(第60回)でご紹介しました)。そこで抽出した口蹄疫ウイルスのVP-1遺伝子はジェネンテックなどのベンチャーに提供され、レベル1実験室で遺伝子工学によるワクチン開発に利用されていました。そのことを明記したFederal Register(日本の官報に相当します)のコピーも添付したのですが、米国の科学的論理は日本の行政当局では通用しませんでした。
宮崎の発生での診断に役にたったのは、IAHから提供されていたELISAキットと、数年前にやっと農水省から許可してもらって作ってあった合成核酸でした。両手をしばられた状態だと、かって家衛試海外病部の担当者が私に嘆いていましたが、そのような状態でよく頑張っていただけたものと思います。
6.口蹄疫のヒトへの感染性
今回の発生でマスコミからの問い合わせでまず問題にされたのはヒトに感染しないかという点でした。Pro Medには人獣共通感染症とするドイツの雑誌が引用されています。これはFoot-and-mouth disease as zoonosis. Archives of Virology, Supplement13, 95, 1997です。そのほかに、人獣共通感染症ハンドブックHandbook of zoonoses, CRC Press, 1994の中にも口蹄疫の章があります。厳密な意味では人獣共通感染症という視点で取り上げられているわけです。
ヒトでの感染の報告で有名なものは1834年に3人の獣医が4日間、発病したウシのミルクを250mlずつ飲んだところ臨床症状が出たという内容です。当時からヒトへの感染は問題だったことがわかります。ただし、これは口蹄疫ウイルスが分離される前の時代の話しで科学的には信頼性はありません。
1950-60年代にはヨーロッパで口蹄疫が流行していました。口蹄疫ウイルスのヒトへの感染の可能性についての報告はこの時期に集中しています。たとえば、不活化口蹄疫ワクチンを製造している研究所の作業員は高濃度の口蹄疫ウイルスに接触する機会があり、彼らの中で軽度の発熱や水疱の症状を示したものがいたという報告があります。一方、感染・発病が起こりにくいことを示す状況証拠も示されています。種痘ワクチンはウシのお腹の皮膚で作られていましたが、1960年代にこれが口蹄疫ウイルスに汚染していて、それが米国、ノルウェイ、ルーマニアで多数の子供に接種されたことがあります。しかし、発病例は皆無でした。稀には軽い感染があったとみなされるものの、ヒトの健康に被害をあたえるものではないというのが、これらの報告の結論です。