人獣共通感染症連続講座 第98回 バイオテロリズムに関する2つの話題:CDC勧告と新刊書「世紀末の生物学」

(5/6/00)

(1)CDCバイオテロリズム対策に関する勧告

CDCの罹患率・死亡率週報Morbidity and Mortality Weekly Report, Vol. 49 No. RR-4 (4月21日)に表題の勧告が掲載されています。正確には「生物および化学テロ:準備と対応のための戦略的計画」についてのCDC戦略計画作業グループの勧告です。

全部で14ページのかなり広範な検討内容です。バイオテロに関する勧告のうち、とくに興味があるのは生物兵器のカテゴリーとバイオテロネットワーク構築のための研究室レベルの分類です。このうち、生物兵器のカテゴリーの内容を簡単にまとめてみます。研究室レベルの分類と化学テロに関する内容は割愛します。

病原体のカテゴリー

  • カテゴリーA:最優先の病原体で、以下の理由から国の安全保障に影響を及ぼす。

容易に人から人へ伝播される。
高い死亡率で公衆衛生に大きなインパクトを与える。
社会にパニックや混乱を起こすおそれがある。
公衆衛生上、特別の準備を必要とする。
リストA病原体:
天然痘、炭疽、ペスト、ボツリヌス毒素、野兎病、フィロウイルス(エボラ出血熱、マールブルグ病)、アレナウイルス(ラッサ熱、アルゼンチン出血熱および関連ウイルス)

  • カテゴリーB:第二優先度の病原体で以下の特徴。

比較的容易に伝播される。
中程度の発病率と低い死亡率。
CDCの診断能力の強化と疾病サーベイランスの増強を必要とする。
リストB病原体:
Q熱、ブルセラ病、鼻疽、アルファウイルス(ベネズエラ馬脳炎、西部馬脳炎)、リシン毒素、気腫疽エプシロン毒素、ブドウ球菌エンテロトキシンB

準リストB:食品や水で媒介される病原体。これに含まれる病原体の一部:
サルモネラ、赤痢、大腸菌O157: H7、コレラ菌、クリプトスポリジウム

  • カテゴリーC:第三の優先度で、以下の理由から将来、遺伝子操作で広範囲に散布可能な病原体になりうるもの。

入手容易。
生産と散布が容易。
高い発病率と死亡率で衛生上大きなインパクトを与えうる。
リストC病原体:
ニパウイルス、ハンタウイルス、ダニ媒介出血熱ウイルス、ダニ脳炎ウイルス、黄熱、多剤耐性結核菌

リストC病原体に対する準備としては病気の検出、診断、治療、予防の改良に関する研究が必要。テロリストにより作出されるかもしれない新しい病原体を予知することは不可能なので、現行の疾患サーベイランスと発生時対策に、CDCエマージング感染症対策で述べられているバイオテロ準備を連携させることが不可欠。

(2)新刊書:「最後の審判の生物学:アメリカの秘密生物兵器計画の歴史」エド・レジス著

The Biology of Doom. The History of Americas Secret Germ Warfare Project. By Ed Regis. Henry Holt and Company, 1999.
本書は1930年代から第2次大戦終了までの日本軍の731部隊の活動、英国国防省の炭疽菌散布実験、1943年からニクソン大統領による攻撃的生物兵器開発中止宣言の1969年までのフォートデトリックでの米陸軍の実験を中心に、生物兵器開発の実態が克明に紹介されています。エド・レジスはウイルス・ハンター(早川書房)の著者でもあります。

これらの中から私が興味を持ったエピソードを中心に内容を簡単にまとめてみます。

1)731部隊

石井四郎部隊長が最初に感染症の威力を知ったのは京都大学医学部卒業後まもなく1924年に四国で3万5000人が死亡したなぞの病気(後に日本脳炎と判明)に遭遇したことでした。1928年に彼は世界一周をしており、その際にマサチュウセッツ工科大学にも滞在したとか。ただしここには細菌兵器のプログラムはありません。

1933年に米陸軍軍医大佐レオン・フォックスが細菌戦争という本を出版しました。その直ぐ後に日本語訳が出ており、この本が731部隊で大いに利用されました。この本は米国のフォートデトリックでの生物兵器研究の出発点にもなっています。

1939年には内藤良一という名前の日本人医師(ミドリ十字の創立者)がロックフェラー研究所を訪ねて黄熱ウイルスのサンプルを入手しようとして、結局失敗に終わったというエピソードが紹介されています。731部隊の準備のためのようです。

戦後、米軍による石井中将への尋問の内容は、Q and A形式で詳細に紹介されています。情報開示になった米軍の秘密資料にもとずいているだけに、これまで読んだことのない迫力あるものになっています。フォートデトリック研究者が石井部隊の人たちを尋問した極秘報告書の箇条書きのまとめもあり、その中で日本陸軍による攻撃的生物兵器の開発は明らかに天皇には知らされずに(そしておそらく天皇の意思に反して)行われていたというくだりがあります。とくにもっとも重要な文書として60ページの人体実験に関するものがあります。米軍が入手したのは200人前後の約8000枚の標本でした。実際には850名の死体のうちの500名以上の15000枚の標本があったと推定されています。

各病気別の内訳のリストが示されていて流行性出血熱(現在の腎症候性出血熱)では101名の標本が入手できたこと、さらにその実験にたずさわった研究者の名前が私が若い頃にお世話になった先生であったこと(うわさでは知っていましたが、実際に活字で見ると複雑な気持ちでした)など、ショッキングでした。これらの標本などの資料は4つの大きなトランクに入れられてフォートデトリックの研究者が利用できるようになっていましたが、役に立ったものはなにもなかったそうです。ほとんどのデータは雑で、生物兵器に利用できるようなものではないと。たとえば、人へ炭疽菌の芽胞を散布した実験ではペースト状に集めた芽胞の重量があるだけで、芽胞の正確な数は示されていないと指摘されています。日本では731部隊に関する本がいくつかありますが、それらとはかなり違った視点の内容です。

2)英国国防省によるグリュナード島での炭疽菌散布実験

これは有名な実験ですが、本書ではその経緯がわかりやすく紹介されています。この島はエディンバラの弁護士の私有地で、それを1941年に国防省が弁護士の未亡人から500ポンド(約10万円)で買い取ったものです。立ち入り禁止となりポートンダウンにある国防省微生物研究所の所属となってX基地と名付けられました。この研究所のことは私の著書「エマージングウイルスの世紀」p. 304で紹介してあります。

散布実験は1942年と43年に行われました。ヒツジが人間と体重がほぼ同じであり、炭疽菌に高い感受性をもつことから実験動物として選ばれました。炭疽菌を詰めた爆弾を地上4フィートで爆発させた実験で、ヒツジは死亡し実験は成功しています。

第二次大戦が終わった1945年、英国政府は元の持ち主に返還しようとしましたが、炭疽菌で汚染されているため拒否され、島を清浄に戻した時には元の持ち主は500ポンドで買い取ることができることを約束しました。それ以前の1943年夏にポートンダウンの科学者たちは島の枯れ草に火をつけて島を焼いて清浄化しようとしましたが、失敗していました。

1986年に今度は5%ホルマリンを大量に散布し、翌年ふたたび散布し、その後調べた結果、炭疽菌の芽胞が消滅していることを確かめました。さらにヒツジを放牧してみて病気にならないことを確かめて、英国政府は「人獣ともに生息しうる」と宣言し、元の持ち主に返還したのです。

3)フォートデトリック

米国が生物兵器開発を開始したのは1943年です。1932年に石井大佐(当時)がヨーロッパ旅行から帰国した時に始まった日本の細菌兵器開発よりもかなり遅れていました。ドイツも生物兵器計画はあまり行われていませんでした。一説によるとヒットラーは第一次大戦の時に英国軍のマスタードガスで一時的に失明したことがあったために、化学兵器と生物兵器には反対して開発の中止命令を出したと言われています。

メリーランド州フレデリックにある使用しなくなった空軍の滑走路の場所にキャンプ・デトリックが設置され、ここで炭疽菌の大量培養が本格的な活動の始まりでした。ついでブルセラ菌、野兎病菌の培養のための建物も建設されました。1943年8月から1945年12月までに、17種類の動物が使用されています。その内訳の一部はハツカネズミ60万匹、モルモット3万匹、サル166匹です。

1949年にはセラチア菌をペンタゴンの建物の空調取り入れ口に散布する模擬実験、サンフランシスコ沿岸では硫化カドミウム亜鉛の粒子(紫外線で蛍光を発します)を散布する実験も行っています。この際にはサンフランシスコ住民のうち80万人にひとりが5000個以上の粒子を吸い込んだと報告書に書かれています。

1950年には8-Ballと呼ばれる容量100万リットルの巨大な地球儀のような建物が完成しました。ここで野兎病菌を詰めた爆弾の最初の実験が行われ、ついで炭疽菌の実験が行われました。アカゲザルだけで2000頭が実験に用いられています。

私は1974年にフォートデトリックを訪問した時に巨大なドーム状の建物の中を見せてもらいましたが、本書の記述を見ると、まさにこの8-Ballでした。

生物兵器爆弾の野外実験は1950年と51年にユタ州のダグウェイDugway の実験場で行われました。ブルセラ菌爆弾が実戦さながらにB29から投下され3000匹のモルモットで効果が確かめられました。こうして、1952年夏にはアメリカは生物兵器での戦争準備が整ったといわれています。

38種類の病原体を21種類の動物で確かめ、残るは人間ということになりました。ボランティアはセブンスデイ・アドベンチスト派のキリスト教徒である兵士でした。金銭による報償はなく、次の勤務地を自由に選べるということだけでした。1955年、彼らはQ熱をダグウェイで散布されたのち、フォートデトリックのスラマーと呼ばれる検疫施設に隔離されました。発病した人は現れましたが、死亡者は出ませんでした。1977年、USAMRIIDで私は隔離病室を見せてもらったことがありますが、おそらく、それがこのスラマーだろうと想像しています。

1956年、キャンプ・デトリックは正式にフォートデトリックと命名されました。キャンプは一晩で移動するもので、このように恒久的な施設にはふさわしくないという理由でした。

ここで、大統領命令があればいつでも生物兵器攻撃が可能の状態になったわけです。1960年代にはCIAと協力して都市攻撃実験の段階に入りました。1965年にはグレイハウンドバス・ターミナルとワシントン・ナショナルエアポートで炭疽菌に類似の、しかし病原性は示さないBacillus globigiiによる模擬攻撃を行っています。1966年6月にはニューヨークの地下鉄で5回行っています。

一方、海上攻撃実験がホノルル南西800マイルのジョンソン環礁で1964年から始められました。ここは米軍化学兵器部隊に所属していて、一時は200万ポンド(100万キログラム)のサリンガスを貯蔵していたところです。ここでアカゲザルに対する野兎病菌およびQ熱病原体散布が20回にわたって行われました。1968年にはブドウ球菌エンテロトキシンBが散布されています。

これらの実験はきわめて満足すべき成果を示していましたが、1969年11月にニクソン大統領は攻撃的生物兵器開発の中止を決定し、これらの計画はすべて終了しました。

本書で紹介されている内容は情報公開開示法で閲覧できた2000ページ以上の資料と多数の関係者のインタビューで得られたもので、非常に貴重なものと思います。

最後に、著者は生物兵器がなぜ、実戦で使用されなかったかということについて考察をしています。ほかの兵器は、たとえばマスタードガス、フォスゲン、さらに原爆と、どのようなものでも開発されれば必ず実際に用いられているのに対して生物兵器は唯一の例外なのです。

第一の説明として被害が攻撃者に戻ってくる、ブーメラン効果のためと一般に言われているが、上空からの散布で完全に防ぎうる。第二の説明として、風や気候に支配されすぎるためとも言われているが、同様の問題がある化学兵器は使用されている。第3の説明として、道徳的に反対ということも言われているが、病気で死ぬことが弾丸、爆弾などで死ぬことよりも悪いことか、と疑問を投げかけています。

著者の意見は、生物兵器には武器としてもっとも重要な有効成分が欠けていて、その圧倒的な威力や残忍さを直接目で見ることができないため、ということです。元、哲学の教授という著者の洞察でしょう。