(5/28/00)
1.広辞苑の記載
5月19日の北海道新聞に参院農林水産委員会で「口蹄疫が人にも感染することがある」という広辞苑などの辞典の記載に対して、誤解も招きかねないとして、その部分の削除を出版社に求めることになったと報道されていました。
この記事には私のコメントとして、感染の有無と人間の健康に問題があるかどうかは分けて考えるべきという指摘がつけられています。同じ日付の日本経済新聞にも同様の短い記事が載っていました。
前回の講座(第96回)で口蹄疫ウイルスの人への感染の可能性について簡単に触れましたが、ウイルス専門家の立場から、あらためてこの問題を整理してみようと思います。
人に感染するかどうかという問いかけをすれば、ウイルス学的には、口蹄疫ウイルスは感染するという答えになります。前回も触れましたが、Handbook of Zoonoses(人獣共通感染症ハンドブック)第2版、1994やArchives of Virology (Suppl) 13, 1997の人獣共通感染症特集号に口蹄疫が取り上げられているように、口蹄疫ウイルスが人に感染することはウイルス学的に受け入れられています。
したがって、辞典の記載そのものは間違ってはいません。しかし、後で述べる状況証拠から正確には「口蹄疫ウイルスは濃厚接触がある場合、稀に感染することがある。しかし、軽い発熱や口内炎になる程度で完全に回復する」とでも言うべきと考えます。今の表現では、たしかに言葉がひとり歩きして誤解を生じるかもしれません。5月25日の朝日新聞の論壇では「人間にはまったく無害」と書かれていましたが、これの方が誤解を招かないと思います。念のためにウエブスター辞典(Websters Third New International Dictionary)を見ましたら、こちらには人への感染のことは書いてありません。
2.人の口蹄疫ウイルス感染の実態
上にあげた2つの文献について補足します。Archives of Virologyはウイルス学領域では世界で最初に発刊されたもので、現在は国際ウイルス学会の機関誌にもなっており、ウイルス学領域でもっとも権威のある雑誌のひとつです。そこに掲載されている「人獣共通感染症としての口蹄疫」は、かなり詳しい内容であって、ドイツのK. Bauerが書いています。ドイツは19世紀終わりに大流行を経験しており、口蹄疫ウイルスが世界で初めて分離されたのもドイツです。後で述べる日本での1900年代の口蹄疫の発生では3000頭あまりであったのに対してドイツでは、その頃5年間で370万頭の発生になっています。それだけに口蹄疫ウイルスの人への感染についての関心はきわめて高く、この問題に関する報告の多くはドイツから出されていたのです。
Handbook of Zoonosesは、人獣共通感染症に関するもっとも総合的なハンドブックです。これの第2版(1994)の中で米国農務省海外病研究所(プラムアイランド;本講座第60回)の元・所長のJerry Callisとプラムアイランドの研究員Douglas Greggが連名で口蹄疫の章を分担しています。なお、私はこのハンドブックのハンタウイルスの章を受け持ちました。
このハンドブックの口蹄疫の章では、まず定義でこのウイルスが多くの動物種に感染すること、そして最後に「人は稀に感染する」と書かれています。さらに、人への感染という項目で感染の実態が整理されています。臨床についての記載はよく整理されているので、その全文をご紹介します。
「科学的に確認された人の口蹄疫感染例は少数が知られているが、人の口蹄疫ウイルスに対する感受性は低いとみなされる。いくつかの国で口蹄疫ウイルスに汚染した種痘ワクチンをたまたま接種された子供が知られている。いくつかの国の口蹄疫研究所で働く人々は実際に毎日ウイルスにさらされているが、ごく稀に感染が報告されているにすぎない。少数の報告例での症状は、低いレベルの発熱と、水疱(唇、頬、舌、口蓋、手とくに指、ときに足)が生じる。これらは急速に完全に回復する。人での持続感染は知られていない。口蹄疫ウイルスによる人の死亡の記録もなく、本ウイルスは人への健康被害をもたらすものとはみなせない。」
ついで、診断の項目で、人ではA型コクサッキーウイルスによる手足口病があり、臨床的に口蹄疫との区別が困難と述べられています。手足口病は日本でもしばしば流行して、とくに小児科で大きな問題になっているものです。
3.口蹄疫ウイルスに汚染した種痘ワクチン
口蹄疫ウイルスが人には容易には感染しないという証拠のひとつとして、口蹄疫ウイルスに汚染した種痘ワクチンの例があります。これも前回、ご紹介したものですがもういちど、繰り返します。
種痘は牛の腹部の皮膚の表面を傷つけて、そこにワクチニアウイルスを接種して製造するものです。数日たって皮膚に発疹が出てきて、ついで膿庖になります。それを掻き取って乳剤にしたものが種痘ワクチンです。その際に牛が口蹄疫に感染していると種痘ワクチンに口蹄疫ウイルスが混入することになります。
ジェンナーの種痘ワクチン開発から200年間、口蹄疫ウイルスに汚染した種痘ワクチンが使われた事例はかなりあったはずです。それが証明された事例として、1960年代に口蹄疫ウイルスが含まれていた種痘ワクチンがノルウェー、ルーマニア、米国などで多数の子供に接種されたことがあります。この際にとくに口蹄疫ウイルスによると思われる症状はみられていません。
4.日本から米国に輸出された口蹄疫
今回の日本での口蹄疫の発生は、中国もしくは台湾から輸入されたウイルスによると推測されています。ところで昔、米国で発生した口蹄疫が、実は日本から輸出されたというエピソードをご紹介します。
この事実を見つけたのは私の古くからの友人で医学研究用サルの輸入の仕事を長年されていた川西康夫さんです。米国に分与された日本の種痘ワクチンが口蹄疫に汚染していたため米国で口蹄疫が広がったという内容の記載を見つけ、獣医史学の立場から、いったい日本のどこの研究所が送った種痘ワクチンが口蹄疫を米国に持ち込んだのかを明らかにしたいと考えられたのです。そこで、私のところに相談にこられたのが2年あまり前でした。
OIEの動物バイオテクノロジー作業部会の部会長でもある、米国農務省のジョン・ゴーハムJohn Gorhamに頼んで探してもらった結果、米国農務省の詳細な調査報告書、The Origin of the Recent Outbreak of Foot-and Mouth Disease in the United States, 1909などの資料を入手することができました。その詳しい内容は川西さんがいずれ発表されますので、ここでは簡単な経緯だけを述べることにします。
1908年11月にペンシルヴァニア州で口蹄疫が発生し、数日後にはミシガン、ニューヨーク、メリーランドの各州に広がりました。米国農務省が調査委員会を結成して詳細な調査を行った結果、1902年に日本から輸入した種痘ワクチンを種ウイルスとしてワクチンを製造した牧場で口蹄疫が発生しており、1908年の発生は、この1902年の発生につながっていることが明らかになり、口蹄疫にかかった牛から製造された日本の種痘ワクチンが原因という結論になったのです。
この当時から(現在にいたるまで)、日本の種痘ワクチンは世界でもトップレベルでした。そこで米国のワクチンの品質を高めるために分与を受けたものと推測されます。この時期にたしかに日本では口蹄疫が流行していました。
1899年に茨城県でまず発生し、1900年に東京、京都のほかに5つの県に広がり1902年までに3,459頭の病牛が出ています。なお、ついでですがこの当時は口蹄疫ではなく、流行性鵞口瘡(ガコウソウ)と呼ばれていました。そういえば私が子供の頃は人間の口内炎も鵞口瘡でした。
したがって、口蹄疫にかかった牛で製造された種痘ワクチンが米国に輸出され、それから数年の間、米国東部で口蹄疫の発生を引き起こしたという推測になっているわけです。
なお、この報告書の総論でも、人での口蹄疫感染についての詳細な記述があります。ウイルスが分離されてされて間もない時期ですので、ウイルス学的評価に耐えるかどうか不明の事実もありますが、人への感染の可能性について非常に神経を使っていたことが伺えます。
1902年から1908年にかけて米国でも口蹄疫ウイルスに汚染した種痘ワクチンが人々に接種されたはずですが、この報告書にはこの期間に種痘ワクチンを接種された人での健康被害のことは書かれていません。おそらくなかったものと推測されます。
なお、種痘ワクチンを提供した日本の研究所名は報告書では伏せられていて分かりません。2年前に私はワシントンのLibrary of Congress(国会図書館)でほかの資料も調べたのですが、いまだに分かりません。National Archives(国立文書館)で委員会の記録でも調べなければならないかもしれません。
追加
この話題について藤倉孝夫先生から、人獣共通感染症としての口蹄疫について、一層の理解と認識を持つべきであるとのご指摘をいただきました。藤倉先生はWHOの獣医公衆衛生局Veterinary Public Health Serviceに長年勤務されて、WHOでの人獣共通感染症対策の第一線で活躍されていた方です。私は時折、国際会議で先生がWHOを代表されて講演されたのを聞いたことがあります。
ご指摘の内容は以下の3つの報告と藤倉先生のコメントから成っています。藤倉先生のご了解を得て、ご指摘の全文をご紹介します。
(1) Pan American Health Organization (PAHO: 汎米保健機構)の出版物
PAHOはWorld Health Organization Regional Office for Americas (WHOアメリカ地域事務局、AMROと略称)を兼ねており、伝統的に口蹄疫をはじめ、ブルセラ病、狂犬病、結核(牛型)などの人獣共通感染症の防除対策や研究領域での事業を通して家畜疾病の診断、防疫、ワクチンの製造、疾病防除、畜産食品の衛生・安全性などの分野でも広範な活動を展開してきている組織である。
Pedro N. Acha, Bris Szyfres, ed.: Zoonoses and Communicable Diseases Common to Man and Animals, Second ed., p344-345, Pan American Health Organization, Washington DC, USA (1987)
人は口蹄疫(FMD)ウイルスの感染にきわめて抵抗性があり、感染はむしろまれである。このことは、第一に多くの国で家畜にFMDが発生している、第二に人がFMDウイルスに野外でも、検査室でも 暴露される機会が多い、といった現況下でも、人にFMDウイルス感染による健康障害がまれであることからも理解されている。
人のFMDウイルスに対する感受性については、長年にわたって議論が行われてきたが、今日では、人のFMDウイルス感染の事例がまれであるとはいえ、疑いなく人獣共通伝染病の一つとして認識されている。
人でのFMD感染は臨床的に明瞭ではあるが、症状を殆ど示さない場合が多い。ウイルスに濃厚に暴露された場合、また予め素因を有する患者の場合には感染がおこる。とはいえ、人のFMD感染は良性であり、潜伏期間は2~4日から8日間である。人の疾病の経過は、動物のそれと類似している。発病初期の症状は、発熱、 頭痛、食欲不振、頻脈である。最初の小水疱がウイルスの侵入した部分(皮膚の創傷や口粘膜)に形成され、やがて、二次的に水疱が、手、足、口にひろがるが、全ての感染例がこのようになるとは限らない。細菌の二次感染がない場合には、アフタ性潰瘍は1~2週間で完治する。
40例以上の人のFMD感染例から分離されたウイルスはO型が最も多く、C型がこれに次ぎ、A型はまれであった。その他の人のFMD症例では、血清反応か動物接種による再現実験により診断された。
症状のみでは、人の水疱性疾患と混同されることがある(とくに、コクサッキー A型ウイルスによる手足口病)。臨床症状のみでは人のFMDと手足口病とは酷似しているので、検査室での確認検査が必要である。
(2) WHO細菌性、ウイルス性人獣共通感染症専門部会報告(FAOの参加による)
Bacterial and Viral Zoonoses. Report of a WHO Expert Committee with the Participation of FAO. Technical Report Series, 682, p113, WHO, Geneva (1982)
FMDは人の皮膚に水疱を形成する疾病をおこすことがこれまで証明されてきた。家畜でのFMD感染の最盛期に 人が感染した動物に密接に接触した場合に感染することがある。FMDウイルスは人の咽喉頭部に保有されて一時的保菌者(transient carrier)となる。
(3) 全米公衆衛生協会の公式報告
Abram S. Benenson, ed.: Control of Communicable Diseases, 15th edition, p108. An Official Report of American Public Health Association, Washington DC, USA (1990)
FMDウイルスの感染は酪農従事者、畜産農場従事者、獣医師、ウイルス取り扱い技術者などに認められ、また、ウイルスのメカニカルな保菌者となり、動物へのFMD流行の感染源となる。
(4) 藤倉先生のコメント
上記資料のうち、WHO人獣共通伝染病専門部会の報告については、私がこの部会の議案の準備、草案の起草、会議の運営、議事録の整理、勧告文の起草、報告書の推敲、出版など一連の作業を担当官の一人として関与した。
その時の経験では、すべてのzoonoses(人獣共通感染症)の現状、疫学などを評価した過程で、口蹄疫についても活発な論議が交わされたのをきわめて明瞭に記憶している。特にFMDが常在するネパールなど開発途上国の代表が、FMD流行時に罹患動物から搾乳に従事する農民などに時折、手足や口中に水疱を形成するなど人の感染例が認められるとの事例の報告があり、FMDは疑いなくウイルス性人獣共通感染症の一つであるとの合意を得て、リストに加えられた。報告書はベルン大学獣医微生物学教授であったフランツ・ステックF. Steck 博士(*)の校閲を得て完成した。
これらの資料の中で紹介した短い記述の中で、人がFMDウイルスの保菌者となり動物への感染源となることを記述されていることは、これまでのほかの資料には認められない新しい重要な点であろうと思われる。今日われわれが、南米などのFMD常在地域からアメリカ合衆国への入国手続の際に、生の畜産物を携行しているか、どうかはもとより、「過去2週間以内に家畜にふれたことがあるか、家畜の農場に居たことがあるか、米国へ入国後家畜の居る所へいく予定があるか」等、詳しく問われるが、これは、人がFMDウイルスのキャリアーとなることを前提としたFMD予防措置であることは明らかである。同じことは、日本でも今後、必要となるかも知れない(入国者の中国、台湾、韓国、等など、出国地によっては)。
FMDの人体への感染はまれであるとの状況への解釈から、「FMDは人には 無害である」というステレオタイプの一般的理解では不十分で、感染動物や汚染の可能性のある敷きわら、飼料、排泄物、汚染された空気などに対する防疫対策がおろそかになるばかりでなく、人そのものがウイルスのキャリアーとなることを軽視することになりかねないような、misleading に陥ることを危惧するものである。
(*)ちなみにSteck教授は、当時スイスにも流行していたキツネの狂犬病を予防するため、みずから開発された鶏頭ベイト生ワクチン(注:ニワトリの頭に弱毒狂犬病ワクチンを入れた経口ワクチンです。私は1960年代初め、カリフォルニア大学デービス校でフランツ・ステックと一緒の研究室にいて親しくつき合っていました。彼の経口狂犬病ワクチンの話は私の著書「エマージングウイルスの世紀」p. 262で紹介してあります。)をアルプス山中へ散布試験中にヘリコプター事故で急逝され、氏と親交の深かった世界中の科学者から深く悼まれたたのはいまだ記憶に新しい。この研究の成功により、スイス国内はもとより、やがて欧州全域の野生動物の狂犬病が撲滅されることになった。
Steck教授は、幼い時から獣医病理学の教授であった父君の影響を受けておられ日本文化にも造けいが深く、日本の獣医学の発展にも高い関心を示しておられた。