5.6. ブラジル所感
いまさらブラジルの観光案内をするつもりはない。私の印象に残ったイメージを思い出すままに述べることにする。よく日本の地球の裏側がブラジルだと聞くが、正確にはそうではなく対蹠点は大西洋の海になる。それで地球に立つ人間の頭の方向はほぼ逆さまであることには間違いなかろう。しかし、日本と同じくブラジルでも頭は上であるのは疑いもなく事実である。求心力というか遠心力というかニュートン力学を理解したとしても不思議な気がする。あるいは理解していないのかも知れない。とにかく宇宙空間のなかにボールみたいな球が回転しながら猛スピードで飛んでおり、その表面にうじゃうじゃと生物がうごめいているのだ。事実は不思議である。夜には北極星は見えないで南十字星がみえたのも地球が丸いことの傍証なのであろうか。
あたりまえのことだが、ブラジルでは北の方が暑く、南の方が寒い。もちろん暑いのは7、8、9月ではなく12、1、2月である。これも北半球とくにヨーロッパの人たちが自己中心的に物事を定めたせいなのか。リオのカーニバルも夏の暑い真っ盛りの1 月におこなわれる。もちろんクリスマスは夏の暑い日になる。ブラジルでは季節も体感温度も日本とは逆である。しかし日常の体感温度は、緯度よりも海抜の相違が強烈である。サンパウロは南回帰線の位置にある(日本での感覚では台北が北回帰線の位置)が、海抜が800メートル(?)位なので比較的しのぎ易い気候である。サンパウロから車で1時間ほどで大西洋に面するサントスという港がある。立派なハイウエイや鉄道が通じているが、車で行くと港に近付くにつれてドンドン蒸し暑くなる。坂を下る途中から森の木々の合間からサントスの町並みや、入港している貨物船などが見えてくる。ここは一年中いつ訪れても湿気と暑さでたまらない。リオは海岸の都市であるから、カーニバルの夜は踊る人間の群れがさらに体感温度を上げる。
ブラジル大陸は大西洋にお尻を突き出したような地形から南下する海岸沿いの陸地が高く、内陸にむかって海抜が低くなっている。大西洋に注ぐ川もアラゴアス州とセルジぺ州の境を流れるサンフランシスコ川くらいで、南の方ではラ・プラタ河があるが、これはアルゼンチンとウルグアイの国境を流れる。内陸の果てはアマゾン河や緑の魔境と呼ばれるアマゾーナ州やマット・グロッソ州となる。これら湿地帯に至るまでの大地は農地やサバンナに近い土地だという。特にお尻の部分にあたる地域はいわゆるブラジル北東地方nordesteで旱魃地帯である。したがって多くの州都は大西洋岸に沿って位置している。
5.6.1. ブラジリア
ブラジリアは国都で、これはアメリカのワシントンDCのブラジル版である。クビチェック大統領が建設し1960年に遷都した。サバンナのド真ん中のゴイア州のほぼ中央、リオ・デ・ジャネイロからもサン・パウロからも鉄道もハイウエイもなかった1,000キロメートルも奥地のどまんなかに奇異を衒うかのごとく幻想的に設計した大都市である。クビチェックはそれを僅々5ヶ年で作り上げた。さらにブラジリアをブラジル最北端と最南端の地点を結ぶために、北はアマゾ−ナス河口のベレーン市に至る2,000キロメートル、南はサン・パウロやポルト・アレグレ市を結ぶ2,100キロメートルの大国道を敷設した。土木事業はどこの国でもやれやれと旗を振る政治家がいるようだ。おかげでブラジルはそのご強烈なインフレで経済がまったく悪化した。
そのブラジリアへはからずも機会を得て、サン・パウロから空路、約1時間で訪ねた。遷都後わずか2年であったが、掘り返された赤土、入国のとき飛行機からみた赤い大地そのものが広大に広がっていた。人や車の往来はほとんどなく建築途上のビルがあちこちにみられた。建築家ニ−マイヤーの作という上院、下院は擂り鉢を上向き、下向きにした形、裁判所、行政府、それに職員宿舎、などなど、あきれたほど広い空間に人っ子一人の人影もない鉄筋コンクリート群。テレビ塔の土台だという巨大なしろものもあった。巨大ないばらの冠をコンクリートで模した建築物はいずれ教会となるのがまだ未完成とか。コンクリート間の隙間はいずれガラスでつなぎ、はじめて教会として機能するとのことであった。巨大なコンクリートの彫刻!とにかくだだっ広い空間にコンクリートのオブジェのような作品があちこちにあった。聞いたところによると、莫大な建築費は造幣局の輪転機をまわして刷り出した紙幣で賄ったとのこと。その結果はげしいインフレーションが起こった。私はそのインフレーション開始の真只中に居たわけである。
建築物のはずれは腰くらいの高さの雑草?が生えており、暑い日照りでほとんど白っぽい茶褐色である。引っ張ってみるとなかなか抜けなく手が痛くなるほどであった。アリが歩いているようには見えないが、あちこちに土山が突き出ており、聞くとアリ塚だという。小山のようなのもある。コンクリートのかけらを拾い、ぶっつけてみると、いたいた赤黒いアリが大きいの中くらいのがぞろぞろでてきた。コンクリートの建造物はアリにはやられないのだろうか。
バスの停留所にも工夫があり、車道の側面を広げてあって本線を走る車はそのまま止まっているバスの横を通り過ぎることができるようにしてあった。もっとも私が訪れたときにはまだバスは走っていなかった。箱ものだけはほぼ出来上がっていたようだが、肝心の住人はまだ数少ない状態であった。一般住宅なども人が住んでいる気配がなくすでに雑草が玄関や庭などに生い茂っていたのにはちぐはぐな印象を受けた。飯場らしき建物と作業員がたむろしているところに出たが、人が居ることがそれまで身を委ねて来たメタリックな世界にどれだけ癒しとなるか、あらためて実感した。後に日本でも筑波学園都市が造られたが、ブラジリアは大先輩かも知れない。
5.6.2. サン・サルバド−ル(バイア)市
バイア州のサン・サルバドール市はチャ−ルス・ダーウィンもビーグル号の航海で行きと帰りと2度立ち寄ったスポットの一つである。第1回はイギリスからガラパゴス諸島を経て世界一周をする基点として、1832年2月29日− 3月18日の期間と2度目は大西洋のアッセション島を経て世界の経度測定の終点として、1836年8月1日にバイアに戻り4日間滞在して、それからイギリスに戻っている。博物学者として初めて見る熱帯の植物、昆虫の発てる音に心なごんだようである。2月の散歩では熱帯性のシャワーにあって雨宿りをした様子を、イギリスのそれと比較して述べている(Darwin C, 1860. The Voyage of The Beagle. The Natural History Library Edition, 1962. pp. 11-12, 493;ダーウィン先生地球航海記1,5、荒巻宏 訳, 1995,1996、平凡社)。最初の訪問では熱帯植物の大きな温室に入り込んだような印象を受けたらしい。1832年はブラジル独立の10年目にあたる。ブラジルの独立はポルトガル王の息子Dom Pedroによる父親がポルトガル本国にいる機会に行ったいわばお家騒動ともいえる「革命」であった。サンパウロの美術館に馬に乗ったドン・ぺドロが独立を叫んでいる(Grito da independencia)油絵があった。
以上の事柄は60歳で定年退官後、仕事に縛られずに改めてビーグル号航海記を読んで初めて気がついたことである。我ながらちぐはぐな勉強をしていたのだと反省することしきりである。私はダーウィンの足下にも寄れないが、時間差こそあれ彼が触れた雰囲気に130年もあるとはいえ、私もかりそめにしろ同じ場所で空気を呼吸したのだと考えると愉快である。たわいもないが!もっとも訪れたバイアは下町、上町と近代化して熱帯の森林はなくわずかに家々の庭に咲く珍しい花や樹木が観られるに過ぎなく、沢山の人の行き交う市内から木々の緑や蝶の舞う様子は観られなかった。海岸に生える椰子の木がバイア湾の青さと調和していたこと、暑い午後海浜で飲んだココナットの果汁の生臭さが記憶に残っただけである。
サン・サルバドール市は歴史的にみると日本の京都に相当するのだろうか。リオの以前のブラジルの首都であったという。リオの後はもちろん現在のブラジリアである。アフリカ系ブラジル人の多い町で、事実市内で遭遇する人々はこげちゃ色で髪はちぢれ毛である。15−6とおぼしき若い女性だれもが、澄んだ黒眼Olhos claros e pretosなのはいきいきとした印象として残っている。ヨーロッパ系プラジル人は観光客以外、それもわずかであるが、あまり見かけない。
ここには例えて365の教会があるというが、実際には路の曲り角には必ずあるくらいたくさんある。なかでも代表的な「黄金教会」は豊臣秀吉が造ったという金の茶室以上に真黄色に塗り込めた仕様以上とも思えた。祭壇、取り巻く壁はすべて金箔の黄色だという。
古色蒼然とした町並みのかどでカッポエラJogo de capoeiraという格闘技をかたどった2人のダンスをみた。柔道めいた身のこなしようで足けりのまねなどをして、伴奏者の弓の形をした楽器ビリンバウの弦を引くときには早くときにはゆっくりのリズミカルなテンポで奏でる音楽にあわせて踊るのである。アフリカ由来とのこと。本来は武器を使わない護身術だとか。ダウィーンが訪ねた頃、ブラジルは奴隷制を行っており、多くがアフリカ大陸から不法にも拉致されてきた。武器を持たない彼等が、護身だけでなくエンターテイメントの形で子孫に残したと独り合点っして興味深く鑑賞した。
滞在したバイアホテルのロビーで変な中年男性の日本人と出会った。結果的にはたかられたのだが、一夕、バー(ボアッテ: boate)に行く機会があった。名前は忘れたが、絵かきさんとかで絵かきにとってのバイアの魅力をとつとつと聞かされた。この人は人を見ると誰にでも盛んにマカカ、マカカMacaco(人を猿と呼ぶのはバカにする意)と呼びつけていた。彼のしゃべっているポルトガル語は文法は無茶苦茶だが顔付きや身体のこなしでなんとなく相手には理解できるらしい。彼のアトリエと称する家に連れて行かれたが、自慢する作品は見当たらなかった。不思議な縁であった。
一日バイアの郊外の農場fazendaを見学する機会があった。なだらかな丘の続く大地に畑あり、牧場ありで本当に広いファゼンダであった。すこし歩き廻ったが、暑いこと甚だしい。足下におじぎ草が生えていた。葉に触れると萎れるように葉が動き、しばらくするとまた元にもどる。夜店で鉢植えのおじぎ草しか知らなかったから、自然の状態で観察できたのはなんとなく楽しかった。
一日小型のフェリーボートでバイア湾をクルーズした。観光船ではなくバイア湾を横切りサン・サルバド−ル市の反対側内陸の小さな村を結ぶ連絡船である。往復で丁度一日かかった。目的地には小さな小屋、何世紀か昔の教会とのことであったが、川べりにあった。小屋の中はひんやりとした土間と土の祭壇ごときものがあった。帰りには暑い日射しときらきら反射する波、小鮫が一匹ボートの傍を尾をくねらせて泳いで行くのが見えた。夕方、海からみるバイアの町並みは夕日の強烈な日射しと建物の色が調和してなんとも美しかった。海岸に立ち並ぶ下町と丘の上の上町がみられ、その中央あたりに上下の町を結ぶエレベータが2つ見事な調和であった。暑さと程々の湿度、それにそよ風が物憂い気分をさそう。心地よいバイアBaia doce!と人は言うが。
5.6.3. リオ・デ・ジャネイロ市
ダーウィンは1832年4月4日から7月5日までここで過ごしている。その間ビーグル号は緯度測量のためバイアに戻り、再びリオに戻って來た。季節的には秋から冬に相当するのだが、海岸の気温は70℉を上回っていたようである。熱帯の海の青さや木々の濃い緑など、それにコルドバの岩山など一博物学者は詳しく記述している。ボトフォゴ湾に臨む小家に滞在して素晴らしい景色を楽しんだようである。湾の入り口陸から向かって海の右側のパン・デ・アスッカpao de acucar(英語ではsugarloaf「円すい形に固めた砂糖」の意である:すり鉢山とでも言おうか)というラクビーボーを立てたような巨大な岩石が張出している。ケーブルカーを乗り継いで、パン・デ・アスッカの頂上まで昇った。みごとな景観で、東方にボトフォゴ湾の全貌と対岸のコルドバの丘に立つ巨大な手を広げ十字架の形のキリスト像、リオの町並みとその背景の岩山、ボトフォゴ湾口に位置するリオ空港、そこから飛び、降りする旅客機がこの岩山の中腹位の高さを飛んで行く。その向こうに湾口を隔ててニテロイという都市が霞んでみえた。西方には丘を越えた向こうにイパネマの海岸が展望できた。イパネマの浜ではカリオカcariocaの一員として泳いだので、大袈裟にいえば大西洋で泳いだことになる。カリオカとはリオ住民のことで、私は臨時住民ということである。ちなににサンパウロの住民のことをパウリスタpaulisutaという。
160年後のリオは森林は消え失せ、岩肌に張り付くようにまで建物がならび、とてもダーウィンの見た様子とは様変わりしたのは確かであろう。もちろん、ダーウィンはパン・デ・アスッカの頂上には登っていないから、私が満喫したこの景観はみていない筈だ。
今はコルドバの丘へは登山電車が上まで行っており、木々の緑は少ない。夕方、閉鎖ぎりぎりに頂上に着いたため日没は観られなかったが、はからずも別の角度からリオの夜景をみることができた。リオは美しい都市である。名は「1月の河」という意で、発見の経緯がそのまま市の名になったと聞く。岩と人家が混在する、巨大掛け軸を広げたような都である。サン・パウロ市から飛行機でほぼ一時間、バスで4〜5時間位に位置する。何度か訪ねる機会があったが、それほど強い印象はない。佐藤麿人さんと名前は失念したがインド洋経由でブラジルに来た早稲田の後輩の3人でバスでサン・パウロからリオへと道中した記憶にある。
リオで忘れてはならないのがカーニバルである。1月の暑い盛りにリオ・ブランコ通り(確かこの名であったと思うが)で行われる。日が暮れるころ各サンバ学校(escola de samba)の面々がロープの枠で囲まれ、次から次ぎとやってくる。もちろん飛び入りもありである。観光客とみられる人たちも見受けられたが、ほとんどが黒や茶色のアフリカ系とみられるダンサーが男も女も、それこそこの1年の収入を注ぎ込んだという飾りに身をまとい、強烈なドラムやタンバリンの早いテンポのリズムで動く。衣装にすっぽり身を隠したのもいるし、ほとんど裸に近いのもいる。強烈なやじが飛ぶ!暑さと熱気でむんむんする。22時頃迄見物していたが、翌朝の飛行機が早い便なのでしぶしぶホテルに戻った。翌朝6時にタクシーで空港に向かったが、その途中まだ踊っているグループを見かけた。道路のあちこちには踊り疲れたのか裸のまんまホームレスのように眠りこけている者が結構望見された。体当たりで楽しむという感覚が実にリアルである。昨今、東京で浅草カーニバルなる行事をテレビで見る機会があったが、本物とは雲泥の差である。サンバの泥臭い、薄汚れた感覚を伴う物憂いメロデーと実生活の生の感覚を楽しむ心意気が浅草には感じられない!「浅草のサンバ」はテレビで観ているマイナスを考慮しても、フォーマルなのである。